ヒトラーは第1次大戦で功1級鉄十字勲章を取得しているにもかかわらず、除隊まで伍長補だった。昇格の機会は与えられなかったのだろうか?
伍長補というのはGefreiter(ゲフライター)で日本の軍隊階級にはない。初年兵の次ぎで上等兵の感覚だがやや上かもしれない。もちろんその上に伍長など下士官の位がある。
ドイツ軍では経験、上官(将校)の推薦、簡単な試験を通れば下士官、伍長になるのは難しくなかった。戦争末期には下士官の不足が深刻で、平時より更に簡単だったことは疑いない。一方将校の道は簡単とは言えない。士官となるには3つ道があって、士官学校を卒業するか、大学在学中に1年以上軍事学をとり更に士官訓練コースを通過し予備士官に任命されるか、下士官から登用試験を通るかで、旧軍のシステムに似ている。けれどもドイツで大学に入るためにはアビトゥアと呼ばれる大学入学資格試験に通過することが必要でこれが当時人口の10%以下と狭き門だった。
ヒトラーは軍に1920年3月まで6年いたから、少なくとも下士官になれなかったの不思議だ。この問題は1920年代にドイツですでに気づかれており、様々な憶測を呼んだ。
またヒトラーにとり最大の政治的ライバルだったチャーチルは終生ヒトラーを伍長と呼び捨てにした。チャーチルも大学教育はなく士官学校(サンドハースト)卒業だが、第1次大戦では中佐として大隊長をつとめたから、軍隊の秩序感覚から当然かもしれない。ヒンデンブルグもボヘミアの伍長と呼んだ。このボヘミアには解説が必要だ。
ボヘニアにはボヘミアン、芸術家的なという意味とチェコ人のようなという意味がかけられていたと言う。チェコ人は言い過ぎだが現在でもヨーロッパの朝鮮人と呼ばれている。これは周辺の民族に嫌われている、という意味だ。ヒンデンブルグは参謀総長で元帥だから比較にならないが、独自の人間認識が含まれているのかもしれない。ヒトラーを兵卒あがりの政治屋とみるか、芸術家崩れの革命屋とみるかの違いかもしれない。
一応これまでにあげられている説明には以下のものがある。
- 伝令兵という職務に満足しており、下士官になろうとしなかった。(A.Bullock)
- 周囲に与えた奇矯性が、推薦を妨げた。(A.Bullock)
- 自分の学歴では下士官以上になれないと考えた。(H.Steffahn)
- 指揮官としての能力が欠如していた。(F.Wiedmann)
- 連隊本部の伝令として不可欠の存在であり、昇進させると伝令以外の部署に移さねばならなかった。(児島襄)
- オーストリア生まれの志願兵であり、シェーネラー主義者であったため思想的に疑われていた。(村瀬興雄)
- プロイセン軍国主義者からみれば態度がボヘミアン的で伝統精神に反し、またオーストリア生まれが加わって差別待遇があった。(村瀬興雄)
などだが、先頭のバロックの説が真相に近いといわれる。
このなかで児島氏の説はヒトラーがなぜ予備試験申請をしなかったかがわからないが、ヒトラーは上官に従順な兵士だったので上官が気持ちを忖度した可能性は否定できない。上官サイドからみた場合ありうる仮説だろう。村瀬はマルクス主義歴史学者だが見解は完全に見当違いだ。バイエルン人からみて高地ドイツ語を喋るオーストリア人ヒトラーはプロイセン人よりむしろ好感をもたれたはずだ。ミュンヘンでヒトラーは差別的なことは全く受けていない。宗教・文化・伝統でバイエルンと低地オーストリアは近似している。これは現在においてもあてはまる。
また1919年5月までシェーネラーについてヒトラーが触れた記録は存在しない。第1次大戦のヒトラーは反オーストリア=大ドイツをのぞいてそれほど政治的でなかった。
次のプロイセン軍国主義云々というのはヒトラーはバイエルンの連隊にいたので問題にならない。プロイセン軍国主義者とはおそらくユンカーを指すのだろうが、バイエルンにユンカーはいない。これはスターリン歴史学の悪い影響だろう。悪の原因をすべてユンカーに帰することは、むしろ日本のマルクス主義歴史学者のメンタリティーを分析する際に役立つかもしれない。
そのうえユンカー出身のドイツ士官は昭和陸軍の参謀将校とは違う。少なくとも古典音楽の楽器が一つ演奏でき詩を愛し、数ヶ国語を喋り年をとれば片眼鏡をかけるようでなければよいドイツ軍人とは言えない。それでも戦争にでかけるときは擲弾筒を抱えるわけだから矛盾の多い存在には違いない。もちろん日本でも隊付きの将校や大正期の参謀将校にはユンカーのような人が多かったことも事実だ。昭和期の退廃は幼年学校のためだ。
ヒトラーがオーストリア人にもかかわらず、なぜバイエルンの連隊に入れたのか?
軍隊に入隊するときに宣誓の必要があるがヒトラーはウィテルスバッハ家とハプスブルグ家双方に忠誠を誓った。当時はドイツ帝国が成立していたがまだ領邦としての色彩が残っていた。プロイセンは最大の領邦だが、他の大領邦バイエルン、ザクセン、ウュルテンベルグの兵士はあからさまな反感をプロイセンにたいし抱いた。ヒトラーはこの点では領邦主義ではなく大ドイツを信奉していた。ただそういった兵士が一方いたこと、またドイツ軍兵士も考える兵士だったことを忘れてはならない。
ただバイエルンの法律は外国人志願兵を認めていない。「我が闘争」で8月3日に申請し翌日入隊が認められたとしているが、事実は多少違う。記録によればヒトラーは8月5日にバイエルン歩兵第1連隊に出頭し入隊を志願した。この申請をバイエルン歩兵第2連隊が受理し8月16日ヒトラーに出頭を命令した。そして新しく編成されたバイエルン歩兵予備第16連隊に入隊が遅くとも9月第1週に許可された。
この予備第16連隊(初めの連隊長の名前をとりリスト連隊と呼ばれた。)というのは、大半は志願兵でいわばプロイセンの新編4個軍団(無垢なる子供の死軍団)と同一の性格だ。「無垢なる子供の死」は、第1次イープル戦とロッヅ付近の戦闘という1914年秋季の東西の最激戦で最も重要な役割を果たし有名になった。
リスト連隊も戦後ミュンヘンで長く語り続けられる資格のある名誉ある連隊となった。1924年、ミュンヘン一揆のあと、バイエルンの司法機関はヒトラー入隊申請受理の事情について精密な調査を行った。ところが手続きに誤りがあったとされた以外ついに真相は解明されなかった。
このあたりでもワイマール共和国の法律がダメなことがわかる。ワイマール三党のうち社会民主党とカトリック中央党は国民政党でなく階級政党または宗教政党だ。この時まだ法律で啓蒙主義が徹底していないから個人の立場と全体を律する法律が矛盾した場合収拾がつかない。国家は労働者を抑圧する機関とみる立場と、カトリック教会法が世俗法より優先するとの二つは、両立する訳がない。立法機関が機能しなければ行政機関・司法が効率的に動く動機がない。
最後は当事者の良心に帰せられるとなるから、司法当局が良心で裁く気が無くなればそれで終わりとなる。
ヒトラーの「我が闘争」のウィーンやリンツに滞在したときの記述は相当に片寄っており、金銭的にはむしろ恵まれていたことが明らかになっている。ヒトラーは下層階級(労働者)出身を誇りとし事実をまげても主張する所があった。一つは下層階級の支持を受けたいことだが、別にブルジョワ(市民階級)への反感があった。ヒトラーの分類では新旧中間階級もブルジョワにはいるので自分の出自を嫌ったことになる。
そして父が誇りとしたハプスブルグ帝国の高級税関吏という地位そのものを軽蔑した。しかし、この問題はヒトラーを別にして、バイエルン連隊本部の事務の過失が第一の問題で次は、戦後になって事実を解明できない司法当局の怠慢にある。