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ワイマール共和国そしてヒトラー
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第1次大戦が終了し、英仏両国は二度と戦争を起こすまいと決意した。だがドイツ人の多くはベルサイユ体制の変革を望み武力または威嚇も手段として残ると考えた。そしてソ連は外交的にヨーロッパから孤立した。

ワイマール共和国14年のうちエーベルト大統領が死ぬ1925年までが第1の時代にあたり混乱を極めた時期とされる。

第1の時代

ドイツにとりベルサイユ体制の最大の問題点は国境線だった。それは独仏国境ではない。ドイツ人はアルザスロレーヌがドイツ人の土地でないことを承知していた。最大の争点はドイツ東部国境だった。ドイツ人は失われたポーランド回廊と上シュレジエンの奪回をあきらめることはなく、しかも公然と口外した。そしてこの係争は現在に至っても解決されたとは言えない。ポーランド人とドイツ人は一帯の帰属を少なくとも7世紀から争っており、戦間期の特殊な問題とは言えないのかもしれない。

ワイマール共和国は、ヒトラーの合法的手段(!)による政権奪取がなされた1933年まで続いた。ワイマール共和国がその後の世界に何か寄与したかとなると疑問だろう。むしろその後成立したヒトラーの第3帝国がネガティブな意味で現在により多くの教訓を残した。ヒトラーの政権はその戦敗まで12年間続いた。あらゆる点で最も近代的で合理的な西ヨーロッパ最強国でおきたことだった。現在にいたる諸国間の関係と民族自決は大半この結果である。

ヨーロッパ以外に目を転じると日本はドイツにたって参戦することにより、アジアのヨーロッパ植民地政権を一旦打倒した。これは日本の敗北のあと諸国民の独立を可能とさせた。ヨーロッパは、米ソ直接対立の場となり、東西に分裂した。独仏は和解し英仏の世界に果たす役割は限定的となった。日・独はアメリカと同盟の道を選び超大国から転落した。しかしその方が両国は幸せにみえる。日独がアメリカとの提携の道を選ぶと経済でソ連が米国ブロックに対抗することは不可能だった。ただソ連はその理解に時間がかかりすぎたのかもしれない。

ワイマール共和国を知ることは、おそらく世界の戦間期の歴史を知ることに近い。補完すべき最大の要因は極東情勢だがこれはワイマール共和国の崩壊よりも複雑な過程をたどった。ただ日本の情勢が中心なので日本人にとっては知るというより理解が重要かもしれない。

ワイマール共和国は、三つの期間に分けられる。第1の時代は1919年から1924年まで、社会民主党のエーベルトが大統領だった期間だ。

この間は、ワイマール三党、社会民主党・カトリック中央党・民主党が議会多数派を占めた。後者二党は第2次大戦後統合新発足し、現在のキリスト教民主同盟である。カトリック中央党はワイマール共和国で特別の地位を占めた。しかしその消長は決して名誉あるものではない。

ワイマール共和国の選挙結果

ワイマール共和国は共和主義者のいない共和制だと言われた。議会ではワイマール三党が活躍したが選挙毎に票を落とし国民の人気はなかった。だが政治の背後にいたのは国防軍だった。第1の時代、国防軍の代表はゼークトで、実質的に首相の任免を左右した。この時、ヒトラーはまだミュンヘンの地方政治家にすぎない。しかし1923年にはルーデンドルフとともにミュンヘンで一揆を引き起こすにいたるほど既にローカルでは圧倒的な大物に成長していた。

あるコミンテルンの史家はワイマール共和国をさして「皇帝は去ったが、将軍たちは残った。」と描写した。これは正確ではない。残ったのは本部付き将校たちと一人の伍長だった。そして最後は一人の伍長が国防軍と共和国を圧倒することになる。20世紀の二つの世界戦争はいずれもドイツ問題をめぐって起きた。もちろん極東とロシアに問題はあった。しかし両方とも他の大国を巻き込まず解決しうることだった。そして第2次大戦は第1次大戦と異なり、起源についての論争はない。起源はこの男、ヒトラーということになっている。

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