ワイマール共和国の制憲議会は古都ワイマールで開催された。ワイマールはチューリンゲンにある人口7000人の町だが、1919年大本営(OHL)はスパ(ベルギー領・リエージュ南方)から近くのウィリアムスヘーエに移動したため防衛が簡単だと考えられた。
制憲議会選挙(第1回国会選挙)は、1919年1月行われ、ワイマール三党社会民主党、カトリック中央党、民主党が多数を占めた。
ワイマール共和国の選挙結果
社会民主党(多数派)
社会民主党(多数派)は、エーベルトが党首だが同時に首相を務め行政権を握る与党だった。社会民主党は元来マルクス主義政党で、帝政のもとでは比較多数の野党という地位にあった。そして大戦中に暴力革命と戦争即時中止をもとめる独立社会民主党が分離した。そのなかから更に過激派のローザルクセンブルグやカールリープクネヒトに指揮された集団が分離しスパルタクス団となった。
エーベルトは休戦時、帝政の崩壊を望まなかった。シャイデマンらは民主制への移行が必須と考えた。しかし現実の問題は極左勢力と兵士レーテの結合による暴力革命の阻止にあった。独立社会民主党との差は民主制に移行すれば生じない。事実講和後独立社会民主党は共産党に向かう極左派、孤高を守る派、多数派との併合派に分裂した。
スパルタクス団は武装蜂起による政権奪取を狙った。これは、レーテ権力(=ソビエト権力)に全ての政治を移行させるという主張だった。レーテ(ソビエトまたは評議会)とは通常大工場と軍隊で1000人毎に代表を選び、代議員とする。そして代議員が実際に行政権力を握るという考えである。
日本では1990年代に至っても、この形が直接民主主義(?)とか生産現場に根ざしたより現代的な民主制だと実情もわきまえずに主張する人々がいる。しかし、これでは主婦や小工業者、商人、農民、役人の意見はすべて無視されてしまう。
見解自体はスパルタクス団やレーテを賛美したくて述べられるのだろうが、暴動にたいしあまりにもナイーブだといわざるを得ない。レーテは通常かりそめの集団にしか組織されない。すなわち軍隊、学生、非熟練労働者である。その他には組合が普通組織されている。かりそめとはすぐに解散されるという意味である。こういった集団では政治に過度に関心をもつ活動家しか代表に選ばれない。これが民主制だろうか。
しかもこの時レーテの過半数の代表は多数派社会民主党を支持していた。すなわちレーテに全ての権力をというのは、社会民主党に全ての権力を与えるのと同義だ。
そして第二の秘密が存在する。レーテの代表で社会民主党を支持した者は実は社会民主党党員や熱心な支持者でなく、普通の王党派やリベラルが多かった可能性が強い。すなわちこれらの立場をとる人々の受け皿がなかったのだ。一般にスパルタクス団よりましだというので社会民主党を支持したようだ。そして時間がたつにつれこれら普通の人は保守派やリベラル会派でなく国粋主義諸政党支持に移行してしまう。
社会民主党の指導者はしかしそれどころではなかった。暴動鎮圧を一方の問題としてパリ講和会議にたいする対処を考えねばならず、またポーゼンからポーランド軍が侵攻して来ることは刻下の脅威だった。
社会民主党の態度は、なぜロシアのボルシェビキとこのように違ったのか。
ドイツ社会民主党は選挙で多数を確保できる見込みがあり、ロシアのボルシェビキのように暴力革命に訴える必要がなかった。それゆえに暴力革命=内戦を回避する方針をとった。選挙で多数がとれれば、武力蜂起の意味はロシアでもなかった。そしてボルシェビキは暴力または内戦の勝利により正当性を得たから、その後も民主制度を作ろうとしなかった。ところがドイツでは人民に付託されて議会が民主制度を樹立する形式をとった。
憲法の人民付託主義
これがワイマール共和国の最大の陥穽だった。人民に付託されたならば、人民の意志が変われば民主制度は改変できるのだ。アメリカ憲法やフランス第三共和制憲法は実はこのような構成ではない。すなわち人権にかかわることは議会や国民投票で改変できないのだ。すなわち当初の意図は絶対で例えば議会制度や内閣制度を根本的に変更することは不可能という考え方にたっている。
ナチスは授権法で独裁権力を獲得したが、これは議会の多数の承認で可決された。しかしアメリカやフランスで議会の多数で実質議会を廃止することはやはり法理としてできないのだ。これは一見民主主義に反するようにみえるが人権の一部と考えれば当然だろう。もちろんそれがために国民が餓死しようが職がなくなろうが気にしてはいけない。抽象的な概念のために人命が犠牲になることはあるしそれによりより多くの生命が救われたのは歴史の示すところだ。またその概念のため多くの人間が生命を賭して戦った。第2次大戦後の西ドイツ基本法はこの失敗により、本源的な人民の権利を改変できない形にしようとした。しかし社会民主党はあくまでも反対し、共産党と国家社会主義政党を禁止することで決着がつけられた。
このように社会民主党が人権擁護の不変性に反対するのはなぜだろうか。結局労働者階級の独裁=一党独裁の道を閉ざしたくないのだろう。
1992年にロシアが民主制になった。1933年にワイマール共和国はヒトラー独裁となった。時間の長さでは、ロシアの方が独裁に苦しむ期間は長かった。だがヒトラードイツの世界に与えた影響は恐らくソ連の共産党の実験よりも大きかったと思われる。中国を除けば、共産主義政権が自己の手で作られた国は驚くほど少ない。ユーゴスラビア、ベトナムそしてキューバぐらいかもしれない。ところが国家社会主義の方は、ヨーロッパをほぼ包含しまた実際名前をそのようにつけなくとも実質の話しであれば、影響を受けない国はむしろ少ない。
国家社会主義
たしかに国家主義と社会主義の組み合わせは存在するのだ。この時代になるとイギリスのニューリベラルが始めた国による所得の再分配、累進課税や福祉政策を実行しない国はすくなくなった。そしてマルクス主義と社会主義は違った種類だったが融合し始める。つまりマルクス主義が労働運動だけでなく国家財政の側面に目を向け、フランスのサンシモン主義やイギリスのフェビアン主義は単純な啓蒙主義を捨て政治活動に注力し始めた。この融合もあるいは国家社会主義の影響かもしれない。
ナチス(NSDAP)と社会民主党と共産党は極めて似通った運動である。
国家社会主義はともかくあってはならないのは、民族主義と独裁主義の方だろう。民族主義とは既に独立した国にとっては国内少数派への公民権上の差別である。そしてそれらは簡単に超国家主義と結びつく。そして独裁とは自由と人権の否定に他ならない。
ワイマール共和国憲法
憲法はユーゴー・プロイスによって起草された。プロイスは民主党に属し憲法学者でありかつ内相をつとめていた。
ワイマール議会は1919年2月6日に第1回選挙で選ばれた議員によって開催された。この時ワイマール三党は80%を占めていた。ここがドイツの問題だが、本来対立すべき三党が野合する結果となっている。ユーゴー・プロイスやそのブレーンのマックスウェーバーとマルクス主義の社会民主党が一致する理由はない。
この野合がむしろワイマール三党の支持を失わせた。健全な批判勢力を容認せず、すぐ権力に向かいまた常には実行不可能な理想を吐くというのがワイマール政治家の特徴だった。現政権に批判的であれば野にくだるべきなのだ。
民主党はこれから後一度も勢力を伸ばすことがなく、選挙の都度敗れ去った。ユーゴー・プロイスにせよマックスウェーバーも民族主義的傾向のある人で、かつ政権維持のため社会主義政策(労働組合の経営参加・流通業への大企業参入の禁止・カリ産業の国有化)に賛成した。もちろん政治は妥協であるが、国家社会主義を認めてはリベラルは成り立たない。
憲法は2部にわかれ第1部は国家主義、第2部は社会主義を実現させる構造となっている。もしユーゴ・プロイスらが国家の経済への介入を限定的とし金融や流通を外国資本に開放し、他国民との交流を初期の段階から実現させていれば国家の運命は違ったものとなったかもしれない。現在でもワイマール共和国憲法を理想としてもちあげるむきがあるが、その一国閉鎖性についての批判が弱すぎるのではないか。
ただこの時政府はベルサイユ条約をつきつけられており憲法策定はあまり興味をよばなかった。
1919年7月6日、たいした議論もなく圧倒的多数で憲法は採択された。
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ワイマール共和国では国を運営する方針として、国家社会主義は公理だった。共産党も含めてこの点で反対はない。そして反ユダヤ主義という名の民族主義も、圧倒的に人気のある施策だった。おそらくドイツ共産党は反ユダヤ主義に反対だろうけれどもロシア共産党は賛成だった可能性がある。すくなくとも迫害されたユダヤ人をソ連は拒絶した。独裁の方もナチスの独裁はソ連よりましだった。国民の支持を気にする独裁だった。そして世襲的な権利の要求はなくあくまで総統という肩書きがあるときだけの独裁だった。自由もソ連よりは相当にあったことも認めなければならない。
ワイマール共和国は制度として大きな偽善だった。最も民主的と思われる選挙方法、人民の抵抗権、警察にたいする権利、中立的な司法すべて最新のようにみえた。だが、これら紙に書かれた権利を使って人権を護ろうとした人間はいなかった。
人民の抵抗権というのもビスマルク治下で社会民主党の街頭行動が禁止されたため出てきたものだ。これも革新的な手法として賛美される。しかし実際ワイマール共和国で何が起きたか。すべての政治組織が自警団を用意する結果となった。政党の自衛組織というとナチスのSAやSSを想起するが他の政党もことごとく擬似軍事団体をもっていた。とくに共産党は最も過激で党首以下日常戦闘服を着用し労働者地区は警官の立ち入りを拒んだ。当然日常的に政党の自警団同士での暴力的衝突が発生したが警察が関与することは抵抗権の観点からほとんどなかった。
その後のドイツ共産党
一つの体制が短期間に必然的に崩壊するというのは、体制という定義から言っておかしいことだと思われる。だがワイマール共和国、最も進んだ民主主義体制は自壊する因子を内部に始めから入れていた。
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