ミュンヘン革命とヒトラー(1919年前半)

ヒトラーは「わが闘争」で、パセバルクの衛戍病院でドイツの敗報を聞き、政治家となる決心をした、と書いている。しかし現在のところそれを裏付けるものはない。

一般にヒトラーを精神異常とかまたは権力欲だけの機会主義者と理解する歴史家は多い。しかし単純にそういった片つけ方をすることはヒトラーの政敵と同じ誤りに陥ることではないか。ここでは現在まで確認された事実だけにもとづき、ヒトラー自身が言う闘争時代(1919−1923)を明らかにしたい。

ヒトラーは後の政策の中心、反ユダヤ主義・超国家主義(大ドイツ主義・膨張主義)・社会主義(反君主的独裁主義・反資本主義)をこの時期に心のなかで確立したと思われる。ただ外交政策だけはこの時期でもはっきりしなかった可能性が強い。反ユダヤ主義は遅くとも1919年8月には確かなものとなった。また反ユダヤは反資本家と結合しているが、これはミュンヘン革命のとき極左から得たものだろう。

ヒトラーの経済学

ヒトラーは1919年1月後半にはミュンヘンにいた。我が闘争の記事「3月に帰った。」は捏造である。ヒトラーが3月までいたというトラウンシュタイン捕虜収容所は1月後半に閉鎖されたことが現在はっきりしている。また政治家への動機と関連するがヒトラーは除隊をあらゆる方法で防ぐ努力をしている。

この時ドイツ軍兵士の給与は驚くほど高かった。1日3マルクで普通の小学教師の倍でありかつ衣食住が保証されていた。ただ指名で強制除隊されたから常時上官の機嫌を損じてはならない。ヒトラーはこの面で成功したように思われる。ヒトラーの除隊は1920年4月1日でそれまで兵舎に住み俸給を受け取っていた。当然軍隊だから上官の命令には服さなければいけない。ただしこの期間にヒトラーはDAP(ドイツ労働者党)に入党しまた弁士として活躍した。これはすべて上官の指示または承認を得たものだった。

トラウンシュタイン捕虜収容所は主にロシア兵が収容されていた。すでに捕虜のロシア兵の間にはボルシェビキ思想が主流となっておりドイツ衛兵はその影響を受けていた。ヒトラーは恐らく信頼できる兵として派遣されたらしい。

我が闘争でも一緒に言ったとされるシュミットもこの事実を示唆している。ただ明言はしていない。ヒトラーのリスト連隊時代の同僚は大半ヒトラーが政権を掌握する前からNSDAPに参加しておりまたニュールンベルグ裁判でも戦友たちアマンやシュミットは連合国の尋問に全く屈服することがなかった。

これら戦友はヒトラーのこの時代をよく知っていたはずだ。それにもかかわらず現在にいたるまで何があったか明らかにせずみな墓場にもっていってしまった。

焦点は1919年2月から4月の3ヶ月間だ。5月2日にレーテ共和国は崩壊し兵営は通常に戻った。

ミュンヘン革命

1918年11月からミュンヘンでも兵士レーテが結成された。ヒトラーは150人の第2復員小隊に属していた。ドイツの復員は正確にかつ効率的に終了した。この復員小隊の任務はミュンヘンの重要ポイントの歩哨を除けば、復員までの兵士の一時的な滞留場所だった。ヒトラーは当時の職制(士官・下士官という序列でなく)をVertrauensmannと呼んでいる。これは職場委員の意味だが、ヒトラーは小隊でこの職場委員を務めていたのではないか。

職場委員というがこれはレーテ組織の一部とされており、いわゆる活動家が任命されることが多かった。というのは仕事の大半はミュンヘンのアイスナー政府(独立社会民主党 USPD)の兵士への政治宣伝を伝達することにあった。後年ヒトラーはこの時の政府関係者を11月の犯罪者と呼んでおりこの経歴を公開するわけにはいかなかっただろう。

またヒトラーは暗殺されたクルト・アイスナーの葬儀に赤い腕章をつけて出席した証拠がある。

アイスナーとその暗殺

2月26日に行われたアイスナーの葬儀。

テレジエンベーゼで執行された。手前にいるのは将校で腕章はつけていない。腕章をつけたのはレーテ活動家に限定された。ただこの時の葬儀は豪勢なものでミュンヘン駐在の軍人兵士はほぼ全員参列したという。写真はホフマンによるもので後日、ホフマンはヒトラーの宮廷写真家となった。またヒトラーの妻エファ・ブラウン(ヒトラー)がホフマンの助手をつとめてたことでも有名である。

ヒトラーはこの小隊で最古参兵士と思われるし、また開戦時からの兵士でかつ功1級鉄十字の持ち主で選ばれたのは自然だったろう。

なぜヒトラーは伍長補から昇進しなかったのか?

4月14日、革命政権樹立後、レーテ共和国は各連隊にたいし大隊(約1000人)毎にレーテ代表を選出するよう要求した。これは軍隊の革命政府への忠誠を確かめる目的だった。4月16日ヒトラーは代表代理に選出された。これがこの期間のヒトラーの唯一の公式の記録だ。レーテ機関のなかでヒトラーはどういった活動をしたのだろうか。

ここで妙な噂がある。1920年代を通じて左翼からヒトラーが多数派社会民主党に入党申請したという説が流された。当時の社会民主党はベルリンの政権党でもし入党申請が出されれば記録が残るはずだしヒトラー政権獲得後証拠隠滅を計っても、その活動が記録に残るだろう。すると噂自体は根拠がないと考えられる。ところがこの噂は実に根深いものがあって、ヒトラーが社会民主党員だと名乗ったという証言は複数存在する。

この噂をどう考えたらよいのだろうか。一つは多数派社会民主党だという点だ。当時ミュンヘン駐留部隊は全てレーテ共和国を表面上支持していた。政治的には左からスパルタクス団、独立社会民主党、多数派社会民主党の3団体が独占していた。ヒトラーはこのうち多数派社会民主党を名乗ったことになる。

ヒトラーはこの時、レーテ代表代理として反革命にたつことはできなかった。これは単純に除隊を恐れたためだろう。また元来の大ドイツ主義により極左的主張もできなかったのだろう。すると革命最右翼の社会民主党を名乗ることになる。そして当時多数派社会民主党はオーストリア社会民主党と友党で大ドイツ主義だった。また注意が必要なのは確かに兵士はレーテを作り革命派を支持しているかにみえるが実態はほんの一握り数十名程度しか暴力革命支持者はいなかった。

要するに、左翼兵士でも右翼兵士でも自国民と戦うことを嫌っていたのだ。

これはミュンヘン革命鎮圧のため正規軍・フライコールが投入されたが、それに抵抗するレーテ兵士は武器が豊富にあったにも拘わらず、皆無に近かったことで証明できる。もちろん思想的に支持した人間はもっといたに違いない。しかし同国人兵士で銃撃を行うことは簡単にできるものではない。当然ヒトラーも鎮圧部隊を歓迎する側で抵抗した形跡はない。


(注)4月27日にヒトラーは赤軍兵士に連行されそうになったと「わが闘争」に書いている。ところがこれを支持する証拠はない。この赤軍兵士は中央レーテから派遣されたと言うが、4月13日解散されておりこの時すでに存在しなかった。またそれに代わった共産党政治局も機能していたとはいえない。

中央レーテ議長、エルンスト・ニキシュは、レーテはいかなる人間も逮捕したことはない、と断言している。

1934年シュミットはわが闘争の通りが事実だと証言した。しかし戦後になりウェルナーマーザーの質問にたいし、エップ・フライコールに逮捕されそうになったと語っている。

どちらが正しいのだろうか。戦後の話しが正しいとするとヒトラーは赤軍ではなく白軍に逮捕されかけたことになる。

第2連隊による革命鎮圧後のヒトラーの査問は元リスト連隊兵士というだけで、何事もなかった。少なくともリスト連隊に開戦時から所属していたというだけでその経歴に査問する側が圧倒されただろう。バイエルン王国軍団中でリスト連隊は第1次イープル戦からもっとも西部戦線の激戦に加わった部隊として知られていた。

この後、5月5日前後ヒトラーは連隊の三人委員会の一人に選ばれた。職務は連隊内でレーテ共和国に関与した人物を告発することだった。有体にいえば密告団である。ヒトラーはこの段階で少なくとも除隊の危険から免れ、また国防軍の政治組織と係りができたと言える。

1919年6月にはいり、ベルサイユ条約にドイツ代表団は調印した。ミュンヘンでも革命の波は引いていた。ヒトラーはマイル大佐の推薦で、情報教育将校(エージェント)となるためミュンヘン大学でセミナーに参加することになった。

ヒトラーはこの期間一体なにをしていたのだろうか。相当量の本を読んでいたのは間違いない。ヒトラーの記憶力は抜群でかつ書物を相当のスピードで読みかつ理解することができた。本の内容は左翼の出版物が中心だっただろう。とにかくそういった本しかミュンヘンの兵営にはなかった。

ヒトラーはこの時代のことを何か隠している。それは心の軌跡ではないだろうか。


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