1923年のハンブルグ蜂起の失敗によりブラントラーが地位を追われその後ルート・フィシャー、マズロウが党首となった。
しかしルート・フィシャーもマズロウもモスクワと対立し党を去っていった。1925年テールマンが党首となった。テールマンはそのまま大統領選挙に出馬した。
ヒンデンブルグ 14,655,766
マルクス 13,751,615
テールマン 1,931,135
の結果で総得票の7%にすぎず、泡沫候補だった。共産党は国民の支持を得ることに完全に失敗していることがわかる。マルクスはカトリック中央党出身でワイマール三党支持。またワイマール共和国の共産党は社会民主党と激しく対立した。共産党の支持基盤はもし社会民主党が組織労働者だとすると、失業者だった。社会民主党は「ボルシェビキは浮浪者によって結成された軍国主義団体だ」と機関紙で公言した。
テールマンはあまり知的な人物でなくモスクワに盲従した。1928年頃からソ連ではスターリンの権力が磐石となり、資本主義第3期論が唱えられるようになった。
これは資本主義が第3期の没落期にはいり、社会民主主義はその延命に手を貸す最悪の政治集団だと言うものだった。当時の主張は「ナチスは社会民主党の破壊を狙っているからプロレタリア革命の先駆けである。」に代表される。このドイツ共産党の自主性の喪失は戦間期ドイツの歴史に複雑な影響を与えた。
1930年頃、共産党擬似軍事組織「赤い戦線」の大会で演説する共産党党首テールマン(Ernst
Thaelmann)
テールマンはヒトラー権力掌握後直ちに逮捕され収容所に入れられた。1933年ごろ、日本人記者がナチス党歌のホルストベッセルを歌わせられている服役中のテールマンを目撃している。そしておそらく収容所内で殺害された。1986年SS隊員Wオットーが殺害犯として逮捕され同年西ドイツ国内で裁判にかけられた。判決は禁固4年で西ドイツはワイマール共和国と同様に犯罪者に寛大なことを見せつけた。そのうえ翌年連邦裁は証拠不十分として無罪にした。ただ日本においても戦前特高による共産党員等の拷問・殺害について殺害犯は職を解かれただけで戦後においても裁かれていない。特高警察官の実行犯は特定されているが、そのなかの中心人物とみられるノンキャリ警察官のノンシャランとした手記も残されている。その論理は、共産党員は非合法手段で政権奪取を目論んでいるので警察官も非合法手段で臨んでも良い、というものだ。
テールマンは党の方針として擬似軍事組織の組成に熱心で武装蜂起を目論んでいることを隠そうとしなかった。1930年からスターリンは資本主義の全般的危機論を発表し、社会主義の祖国ソ連防衛のためと武装蜂起に備え、ドイツ共産党にその準備を強要した。
資本主義の全般的危機とは要するにアメリカの大恐慌をさすが、これがドイツでも株式市況などの暴落、雇用不安を招いたのは事実である。ところがアメリカは生産能力の過大と言う根本的な問題をかかえる反面、ドイツは一時的な短期資金の不足による、資金繰り不安だけだった。この不況に際し、ブルーニング首相は金融引締めをもって対策とした。
これは致命的な失策だった。外貨繰りの続く範囲で、金融緩和で臨むべきだったのだ。ヒトラーが、シャハトを登用しその政策をとるとドイツ経済は一挙に蘇生した。このような状態では共産党に出番はない。不幸なことだが、ヒトラーの対外支払いの拒絶と言うのは、ドイツの科学技術が優秀であった当時、最低の輸出は確保できるから最も有効な対策であった公算が強い。また付言すれば当時アメリカのように生産能力が過剰の場合は、この対策は有効でなく第一に対外債務を有しない。1990年以降の日本も同じである。
この頃から相当の活動資金がソ連から提供された。各国共産党(コミンテルン支部)は具体的武装蜂起準備を開始した。このため1930年から1933年にかけてどの国の共産党も大混乱に陥った。ワイマール共和国は武装蜂起を扇動する政党にたいしても取り締まる術をもたなかった。
もちろんこれは左右両翼の暴力主義的かつ党員政党にあてはまる。この反省にたち、1952年以降、西ドイツは、NSDAP(ナチス)に賛意を示す政党およびマルクス・レーニン主義政党(議会主義を否定する党員政党)を非合法化した。
1930年頃、ベルリンの借家人組合のストライキ。ベルリン東部の労働者地区
窓から突き出された旗でわかる通り、この時、NSDAP(ナチス)と共産党は共闘を組んだ。この両者の組織が交じり合うことはないが、非常に似た運動方針をとり、また共同戦線を張ることが少なくなかった。そのうえ共闘はしばしば共産主義者からナチス党員へもちかけられた。反面両者が社会民主党と組むことはなかった。
ところがヒトラー政権獲得後、共産党の方がより弾圧された。これは共産党はユダヤ人と結託していたと見られたためだ。社会民主党の活動家も強制収容所に入れられたが多くは、短期間で釈放された。共産党員はそうではなく、大半が殺害された。
後ろの壁の落書きは Erst(e) Esser! ・・・dann
Miete と書かれており「食べることが第1、借家人」の意味である。共産党の物質万能主義が現れているスローガンだ。落書きと言う方法も含めて、NSDAPの美しさ、壮大さを賞賛する手法には勝てなかったに違いない。共産党員は政権転覆を伴うような革命には必ず、食事や金銭以外のイデオロギーが関連することを理解しているが、末端ではそれを表に出すことはない。
暴力革命を否定することは、あたかもフランス大革命や明治維新を否定するようだが実はそうではない。ワイマール共和国やフランス第三共和制で言論や表現の自由は保証されており、政権政党は選挙で決定されていた。街頭における暴力の示威や軍部の向背によって政権の内容が決定されることが果たして公正なことだろうか。
ワイマール共和国の末期、ナチスと共産党の街頭暴力の示威により選挙民が大きく左右されたことは驚くべきことだ。この両党は時に街頭での労働者(と称していた)の暴力的デモに共同行動をとり応援した。そして共産党は、国会議事堂放火事件にからんだナチス政権の弾圧によりほぼ瞬時に壊滅した。マルクスは、選挙制度が確立し議会による政権移動が可能な国では暴力革命は必要ないと宣言している(ただしレーニンはそうではない)。

G. Fuelberth, Die Beziehungen zwischen SPD und KPD in der
Kommunalpolitik der Weimar Periode 1918-19 bis 1933, Cologne,
1985
B. Fowkes, Communism in Germany under the Weimar Republic,
London, 1984
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