ドイツ(共産)革命

ドイツ革命は1918年10月のドイツのウィルソン14ヶ条受け入れに伴う、国内の混乱そしてカイザーの退位が第1段階で、次に共産主義者の武装蜂起による街頭での武力衝突が第2段階とされる。

カイザーの退位によってベルリン市内のデモおよびキールなどでの水兵やその家族の反乱は11月までに終息しており、ここでは12月以降の共産主義者による武装蜂起を取り扱う。

社会民主党は戦時中から和平か否かをめぐり独立派と多数派に分裂していた。ただし、両者ともマルクス主義者を標榜していた。また独立社会民主党は1918年11月以降ソ連共産党による内面指導(初めはソ連共産党員の派遣にすぎなかったが、後半になると理論、運動方針ともソ連共産党の指導を受け入れるようになり国際共産主義運動の一部の色彩が濃くなった。1923年頃からは明確にコミンテルンのドイツ支部と化した。)を受けていた。そしてこの内面指導を受け入れ暴力革命を目指す勢力が更に独立派から分離、スパルタクス団(スパルタクスはローマ帝国で奴隷を率いて戦った英雄。)を名乗った。

スパルタクス書簡第11号

ここで扱うドイツ革命は初めスパルタクス団を名乗っていたドイツ共産主義者のワイマール共和国初期の武装蜂起事件である。

1919年1月の武装蜂起

スパルタクス団は戦時中は独立社会民主党に属していた。独立派は戦時中、和平提案受け入れを主張し多数派から分裂した。指導者はカールリープクネヒトとローザルクセンブルグで、1918年10月からの騒乱で街頭に出て演説しデモ隊のリーダーとなったのはリープクネヒトだった。その後もリープクネヒトは一貫して武装蜂起を主張しルクセンブルグはむしろ抑える方にまわった。

また社会民主党(多数派、独立派)とスパルタクス団を分けるのは、目先では議会廃止か否かだった。ただ議会に代わりレーテ(評議会=ソビエト)に権力をという主張を行ったがレーテ多数派は常に社会民主党の指導下にあった。

レーテ

レーテとはドイツ語で代表会議程度の意味だ。ドイツでこの用語が使われたのは、ロシアのソビエトからの連想である。

ロシアのソビエトは1905年暴動のとき自然発生したがこの時は、労働者だけだった。その後、ロシア革命で再度発生したが、政治権力と結びつけたのはレーニンが始めてである。マルクスやエンゲルスはソビエトの発生は想像できなかった。

ただ、レーニンはこれをボルシェビキの政権確立のため用いたのであって、直接民主制だとか高度の民主制などの説明は共産主義者の宣伝にすぎない。現に、1921年レーニンは反乱に出たクロンシュタット水兵のソビエトを徹底弾圧している。

またソビエトにしてもレーテにしても兵士の評議会が目玉である。労働者や農民は別に組織を用意しなくとも組合が存在する。兵士の場合は将校がリーダーとなる組織のため、将校が排斥されるとソビエト、レーテは有効な組織となった。

ただし軍隊であるから小隊(プラトーン)、中隊(スコードロン)、大隊(バタリオン)という基本単位が残存する。普通、大隊に代表1名が選ばれるが復員時だと通常1000人が400人程度になるうえ、就職の予定がたっている者は除隊を急ぎ、政治活動家は残ろうとする傾向がある。すると残ったものは活動家として溜まり、指導層となる。日本で留年した学生が学生運動の指導者になるのに近い。

また兵士レーテ(ソビエト)は戦勝国では一切みられない。また第2次大戦でも起きなかった。よい例は日本だろう。つまり、大陸軍で復員が戦勝国の手を借りずに独自で行われたとき、大都市の兵営で発生するものだ。第2次大戦のドイツでは、すべての兵士が一時連合国に拘束されたため発生しなかった。

ドイツでは西部戦線の現役兵復員の際レーテが普遍的に生じた。そして東部戦線では予備・後備の老兵が中心だがあまりレーテは発生していない。それどころか母国の騒乱を憎んだものの方が多い。

ただしルーデンドルフやヒトラーの言うように、1918年徴募兵(西部戦線に送られた。)の質が、社会主義者の扇動で悪化していた、という説は首肯しがたい。他国で同様の事実がみられないからだ。

カイザー戦第1次攻勢ドイツ軍戦闘序列

ヒトラーはそこにユダヤ人の影を見る。この説に当時のドイツ国民も魅力を感じた。だがこれはルーデンドルフの命じたカイザー戦に起因しているのではないだろうか。第1次大戦の兵士は将軍の指揮振りに非常に敏感だった。

ドイツはロシアと比べ、産業革命で1段階進んでいた。このため熟練労働者を中心とする労働組合の力は強く、若い活動家がつけいる隙はあまりなかった。むしろスパルタクス団と組んだのは組合のなかのサンディカリストのオプロイテと街頭主義者たちだった。

スパルタクス団は議会をボイコット、1918年12月24日のクリスマスイブから連続した街頭行動に出た。またこの時、キールの反乱水兵がベルリンに要求書の請願に来ていたが一部は王宮を占拠、止まっていた。

この時、西部戦線にはなお200万人の兵士が残っていた。休戦協定では15日以内にドイツ領内に撤退することになっていた。参謀本部はこれを10日以内に実施さらにラインラント沿いに大量の兵力を貼りつけ連合国の侵攻に備えた。そして復員は名誉あるものとすることを要求し首都に凱旋すると主張した。

復員兵士は一旦原連隊の兵営に戻り、そこで復員手続きがとられた。この復員の過程でドイツ軍兵士は他の国の復員時と異なり一切反乱または抗命がなかった。これは第2次大戦終了時の日本軍兵士も同様で、おそらく郷土連隊主義のためと思われる。すなわち郷土に戻ったとき、経歴上の問題が生じるためだろう。水兵が反乱を起こすのは郷里を持たないことが理由の一つだった。すなわち郷土連隊主義というのは戦場でも郷里を引きずった。

若手水兵は根無し草だ。キールやポラの水兵がドイツ国内を転々としたのは当然だった。

首都にいる多数派社会民主党指導部にとり凱旋は渡りに舟だった。

ベルリンを凱旋するドイツ軍兵士。

掲げている看板からだとハンザ都市歩兵第426連隊だが将校が中心で、全員が参加していない。1918年12月に撮影されたが、この時ベルリン市民で出迎えるものはほとんどいなかったと言う。しかし、ヘルメットの周囲に月桂樹を飾り、胸を張って歩く姿は敗軍にみえない。

だが、政治家や参謀本部将校の予想と異なり首都に凱旋した徴兵軍がデモ隊と戦うことはなかった。おそらく行軍隊形で発砲するという経験や訓練もなく、また隊付きの将校はベルリン市民を見て、射撃を命令することはできなかったのだろう。デモ隊を見ると一目散に逃げ、兵営に戻り除隊手続きを要求した。

このように徴兵軍は治安維持の役に立たず社会民主党政府のエーベルトは国防軍グレーナー(兵站総監)に治安維持のための専門の軍隊の派遣を要請した。

この要請を具体化したのはシュライヒャーだった。本来除隊手続きは連隊本部が決定する除隊名簿に従って、後備役相当者から除隊して行く。当然、その段階で現場将校は再就職斡旋、家族状況調査、戦死者家族への弔問、遺族年金などの膨大な事務を消化しなければいけない。ところが、シュライヒャーはカイザー攻勢時の突撃隊メンバー(フーチェル戦術にもとづき多くは志願兵を募った)などを原連隊と関係なく秘密に選抜し特別な後備旅団を編成した。そしてベルリン近郊のツォセンで急遽5000人程度の部隊をメレッカーのもとベルリン守備部隊(リュトウィッツ)に編入した。これが第一のフライコールだった。

フライコール

1919年1月4日、エーベルトとノスケはメレッカーのフライコールを閲兵し、治安維持に自信を深めた。その日、独立社会民主党の警視総監アイヒホルンを罷免した。1月5日アイヒホルンとリーピクネヒトは肩を揃えて、デモの先頭にたった。ベルリン警視庁は共産党、独立社会民主党に占拠された。そこを本拠地にリープクネヒトは武装蜂起の指示を出した。既に新聞社、鉄道駅はデモ隊に占領されていた。

ローザルクセンブルグはこの武装蜂起の方針に反対した。またオプロイテの賛同も得られなかった。翌1月6日ゼネストが決行された。そしてデモ隊は官庁街に向かった。そこには高級公務員がバリケードを構えており、戦闘が開始された。

リーピクネヒトの率いるスパルタクス団はここでも少数派でデモ隊の多数は、なんの組織にも属しないベルリン市民だった。デモ隊の攻撃は散発的で、互いに顔見知りのためか双方とも決定的な行動に出なかった。官庁街の入り口のブランデンブルグ門での戦闘は二日間続いた。ここで死傷者は相当数に達した。

アレクザンダー広場のスパルタクス団

1月9日、メレッカーの率いるフライコール3000人とポツダム・ベルリン守備隊がデモ隊に攻勢に出た。フライコールはデモ隊に知り合いはなく、攻撃は徹底的だった。たちまちデモ隊は敗れ解散した。

1月12日、政府の外出禁止令が効果を出し始めた。ベルリンは死の街となった。1月15日、リープクネヒトとルセンブルグはアジトで発見され、そのままエデンホテルに連行された。翌日、両名とも死体となって発見された。ルクセンブルグを殺害した犯人はフライコールのメンデ少尉で、後日逮捕された。

こうして1月蜂起は終了した。スパルタクス団は共産党と名前を変え、ヨギヘスが指導者となった。1月19日の制憲議会選挙を拒否あくまでロシア革命型の武装蜂起路線を追及した。

3月蜂起

3月4日、ヨギヘス共産党指導部は再度のゼネストを指令した。今回はオプロイテや独立社会民主党の支持も得られた。このためベルリンでは大半の公共サービス、電気・鉄道などが停止した。この時国防長官ノスケは徹底弾圧の方針で臨み、翌5日市内にフライコールを突入させた。この時までにフライコールは大きく拡大し、兵力はベルリン周辺だけで5万人以上に達した。

オプロイテ

オプロイテは元々社会民主党(分裂後は独立派)に属し、その労働組合を代表していた。当時ドイツでは産業別労組が結成されていてオプロイテが強い所は金属関係が多かった。思想的には暴力的街頭運動を支持するがマルクス主義でなく、新カント派の影響を受けた人々が多く、反プロイセン・反官僚・戦争終結が中心の主張だった。

1918年1月、社会民主党の和平提案をカイザーを頭目とするプロイセン軍官僚が受け入れないと批判しベルリンでゼネストを組織した。11月の反王制革命でも断固たる共和制の支持を明らかにしたが、スパルタクス団とは一線を画した。

政治要求は労働組合の政治参加と選挙による共和制の実現で、内政にしか方針をもたないことは、マルクス主義者とかわりはない。ただ議会否定のスパルタクス団とはついに折り合わず、その後も社会民主党の枠に留まることになった。

ただし1919年の段階ではノスケらの革命弾圧方針に厳しく反対し、またカップ一揆の際にもゼネストの中心として活躍した。独立派の社会民主党へ復帰のさいも共産党に移行せず、社会民主党の下部労働組合組織の全国労働者協議会に属し現在のドイツ労働総同盟の源流を形成した。

共産党指導部はベルリン東部の労働者街に立て篭もったが、近代兵器で装備されているフライコールに抗すべくもなく、ヨギヘス以下指導者も含めて3500人以上が惨殺された。蜂起は完全に失敗し共産党新党首にはパウルレビが就任した。

1月・3月蜂起では警視庁始め、主要政府施設を占領するなど、明らかに武力による政府転覆を企てているから、首謀者が厳罰に付されるのはやむをえない。ただワイマール期の特色だが、共産党の指導部には厳しいが革命参加者、とりわけ火器携行者でも共産党に所属していない場合は刑が著しく軽いか、罰せられなかった。参加者がほぼ全員旧兵士・予備役将校で、兵士も予備役だったケースが多く軍法会議の対象ともみなしうる人々だったせいもある。

徴兵制度が廃止されたのは1920年6月だが、実際にはフライコールが残存したため、在郷軍人会を中核として擬似軍事組織、動員体制は維持されていた。ヒトラー政権で1936年一般徴兵制が施行されたが、予備役将校の召集についてなんら違和感がなく実行さたと言う。これでは重刑を課すことは無理だろう。

3月では西部戦線の復員すら完了していないから、レーテも残存していた。兵営から武装して蜂起に加わった兵士も多かった。

国防軍と共産党軍事組織

このように革命はフライコールによって弾圧され失敗した。旧ドイツ軍はどうなったのだろうか。参謀本部は引き続きヒンデンブルグとグレーナーがいて一時ウィリアムスヘーエに移動したのちベルリンのベントラー街にある陸軍省に戻った。ベルサイユ条約により参謀本部は廃止されることになったが、名前を陸軍省隊務局に変えただけで実質は残った。

軍は従来の領邦軍から、全国一律の国防軍に名前を変えた。ところが全部の復員が完了したのは1920年秋だから、それまではそのまま旧軍の形を残した。ベルサイユ条約は国防軍の装備や編制について厳しい制約を課した。ところが、重砲も含めて国防軍や国家機関以外が保有していれば、連合国は問題にできない。さすがに重砲は保管が難しいが、小火器はいたる所に散在することになった。当然一部は左翼の手にもわたった。

これらの武器のため、共産党の武装蜂起には必ず多数の犠牲者が出た。

つまり旧軍を引きずる国防軍と民間の擬似軍事団体が両立した形だった。もちろん共産党や社会民主党も擬似軍事団体をもった。しかし左翼には国家予算の裏づけはない。ところが右翼の擬似軍事団体とフライコールには政府予算から俸給が支払われていた。

この面から言えばフライコールとは政府軍に他ならない。

ミュンヘン革命を除けば一応3月蜂起で共産党の1919年の武力闘争は終了した。ところがフライコールや右翼の擬似軍事団体は残存した。これは失業対策もあるが、ゼークトの「黒い共和国軍計画」によるものである。これは国防軍が10万人に制限されたため、予備役としてフライコールや擬似軍事団体に期待したためである。

ところがスパルタクス団=共産党も下部に軍事組織を温存していた。そして1925年の大統領選挙の際赤い旅団として公然化させる以前は秘密組織だった。パウル・レビ指導部はこの秘密軍事組織「赤衛軍」を十分掌握できず、レーテ指導部(共産・独立社民・社民が指導)のコントロール下にあった。これは赤衛軍も中心は除隊兵士であり、旧連隊単位などでグループ化することが避けられなかったためである。

ルール・レーテ共和国の宣言

1920年カップ一揆が崩壊した後、ゼネストを中核となって担った共産党に注目が集まった。とくにラインラントーウェストファーレンの工業地帯では、労働者レーテが残存ししばしば地方自治体の長や警察長官を指名する事態が発生していた。

カップ一揆の途中でこの地に駐留していたフライコールも撤退を余儀なくされた。社会民主党を中心に組織されたミュラー内閣は、この地域の平定を国防軍とりわけ、参謀総長(隊務局長)のゼークトに依存せざるをえなかった。

1920年3月、ルール地方のエッセンで共産党は政権樹立を発表、ミュラー内閣に赤衛軍の公認を要求した。同様に共産党と独立社会民主党が首長となっている自治体で「レーテ共和国」の成立が宣言され、ザクセンからチューリンゲンに及ぶ広汎な地域に拡大した。

カップ一揆で国防軍の介入を断ったゼークトは左翼への弾圧となると一変し、部隊派遣に踏み切った。ルールの主要都市でバリケードを挟んだ市街戦が発生した。しかし、徴兵軍でもなく、除隊予定の兵士もかかえていない国防軍は平時の第二帝国の軍と変わることがなかった。労働者や退役した兵士は重火器まで持ち出したが、戦闘となれば統制がとれない武器をもつ集合体と正規軍は勝負にならなかった。すべての都市で、日中だけで組織的な抵抗は粉砕された。

ソ連=コミンテルンの介入

このルール・レーテ共和国の失敗、すなわち正規軍による介入・敗北を共産党は認めず武装蜂起方針を練り直すことをしなかった。それでも執行部は蜂起に慎重とならざるを得ない。すなわち、この失敗以降コミンテルンもしくはソ連が武装蜂起を推進し、パウル・レビ執行部の現実的方針に反対した。1921年3月のマンスフェルト蜂起、1923年9月のハンブルグ蜂起はソ連の扇動により始まったもので、地方がむしろ独走した1920年以前のものとは性格が異なる。

そしてマンスフェルト蜂起以降、ドイツのあらゆる都市で共産党の軍事組織とフライコールや擬似軍事組織の喧嘩騒ぎが頻々と発生した。そして注意せねばならないのは、共産党の方がより組織だっており攻撃的だったことである。ただいわゆる蜂起事件を除いては火器を使用することがなく両者よも素手で戦うという一般的ルールが存在した。当初、共産党軍事組織は国家主義者はおろか社会民主党まで、全ての他の政治集会に一方的に襲撃をかけた。

そして乱闘自体が市民の耳目を引くショーの色彩があった。そしてワイマール共和国の官憲はこれら私闘について寛大だった。ただドイツ共産党の誉められる特質は組織的な個人テロをほとんど実施しなかったことである。これはロシアのボルシェビキと対蹠的である。ただ共産主義者による殺人事件は1919年1月から1922年6月まで376件に達した。平均180ヶ月の刑が宣告されたと言う。ただ保釈により実際の刑期はその半分以下である。

そして、この共産党軍事組織を中核とする個人テロに唯一組織的に対抗したのがヒトラーのNSDAP(ナチス党)だった。当然共産党を嫌う都市住民は、このNADAPに注目することになった。つまり共産党とNSDAPは極めて似かよった闘争方針をとっていた。そして選挙民は両方になかなか支持を与えなかった。ただ両方共着実な得票の増加を果たした。選挙民の態度が突然変化したのは1929年春ごろの地方選挙からで、NSDAPは得票率20%以上の第1党に踊り出た。原因は詳らかでない。

ワイマール共和国の選挙結果

ただ闘争方針が似通い得票も増やしたが、支持者は両方とも固定的で議員党でなく党員党の性格が濃い。そして支持基盤を見れば階級としては似かよっていた。共産党は労働者の前衛党を標榜するが、選挙では労働者の多数の支持をまず得られない。ドイツ共産党とNSDAPは両方とも大衆政党で満遍なくあらゆる職業従事者・所得層から支持を受けていた。これは社会民主党の支持基盤が都市住民と労働者に片寄っていたのと違っていた。そして共産党とNSDAPの得票はトレードオフ、すなわち同じ財布を争うという関係になかった。つまり両党ともコアになる部分は固い支持者で、NSDAPが得票を増やしたのは共産党支持基盤以外の部分からである。あるいはNSDAPの得票増は先進国によくみられる無党派層かもしれない。

マンスフェルト蜂起(1921年3月)

ワイマール共和国は暴力的政治団体を解散させる規定はあるが名前を変えれば存続できた。共産党=スパルタクス団は名前を変えながら、議会政党としてまた軍事組織を抱える秘密党員党としてヒトラー政権獲得まで活発な運動を展開した。1919年3月のコミンテルン発足とともに、対外上、ドイツ共産党と名前を変えた。この時でもコミンテルン綱領25条について保留しておりコミンテルン支部としての性格は弱くまた、名目だけだがローザ・ルクセンブルグの盟友クララ・ツェトキンは1925年以降コミンテルンの執行委員に名前を連ねている。

1919年3月蜂起以降の党首はパウル・レビだが常時武装蜂起を唱える極左派をよく抑えたといえる。ところがソ連と指導者のレーニンはこの頃から極左派を応援するようになった。

1920年3月にカップ一揆が起きたが、これを労働組合を中心とするゼネストで終息させたことは共産党にとり大きな得点となった。だが内部ではパウル・レビを批判しソ連に従う勢力が増大し始めていた。

1920年10月、更にチャンスが訪れた。独立社会民主党は2月の選挙で大勝したが、左派はコミンテルンに加入すべきだと主張し始めた。この月の党大会では左右両派が分裂し、多数を占める左派は共産党への合流を議決した。実際は期待される程党員は移動しなかったが30万人といわれる労働者党員の獲得は重要な成功だった。

1921年ソ連ではレーニンの政府にたいし左派からの攻撃が激しくなった。レーニンはソ連を守るためにはドイツ共産革命の成功が必要だと考えた。ハンガリー革命の旗手ベラ・クーンをドイツに送り込み、執行部に極左方針をとることを強要した。

ベラ・クーンはザクセンにある炭鉱町マンスフェルトを拠点として武装蜂起することを計画した。1921年3月蜂起は成功したがすぐ国防軍が到着し鎮圧された。

パウル・レビはこの無意味な蜂起を厳しく批判した。レーニンはこれにたいし「レビの言うことはすべて正しい。しかしレビはパンフレットを発行することにより党への裏切りを犯した。」と言った。1921年3月パウル・レビはレーニンの圧力により、規律違反で除名された。そのあとはブランドラーが継いだ。

これは以降レーニン主義者が自らの方針を合理化するときの定型的な言葉となった。1ヶ月後の1921年4月、レーニンはマンスフェルト蜂起を弾圧した国防軍の頭目ゼークトラッパロ条約を結んだ。この条約はトルコのエンベルが仲介したものだが、エンベルの交渉相手はしばしば3月蜂起の指導者ラデックだった。

1921年夏コミンテルンの新方針により「統一戦線」「労働者政府」が掲げられた。表面的には社会民主党との協調を目指すものだが実際は、下部党員の引き抜きを目標とした。

1922年ドイツではサンディカリストによるゼネストが相次ぎ物情は騒然としていた。この時共産党は、新方針により国粋主義運動(フェルキッシュ運動)とも手を結ぶことを考えた。これはさすがにレーニンも受け入れがたく「左翼小児病」を書いて批判した。

ところが1923年にはいるとソ連共産党国際部では再びトロツキーの勢力が強まり、武装蜂起を追求するようになった。そして最後の武装蜂起をハンブルグで引き起こす。時期はヒトラーのミュンヘン蜂起と同じだった。そしてこの蜂起が事実上ドイツ共産党武装蜂起の最後の試みとなった。そして国防軍はこの頃から右翼の擬似軍事組織への資金・武器供給を停止するようになった。この方針は共産党軍事組織への火器の供給をも細らせる効果があった。

ここで読者は驚かれるかもしれないが、当時ドイツ共産党大会にはソ連からジノビエフらが出席し公然と武装蜂起を扇動していた。ベラ・クーンやラデックの入出国もほぼ自由だった。ワイマール共和国憲法人権擁護規定によるものだが、共和国は失敗だったが、その自由擁護の姿勢はドイツの歴史にある種の光彩を与えている。

フライコールの構成員は週に二日国防軍将校により訓練を受けていた。これも1923年秋のフランスのルール占領の受動的抵抗の終了とともに、役割を終えた。ところがこのような大組織を簡単に解散できない。この結果少なくともバイエルンではNSDAP(ナチス)のSAが最大の受け皿となった。

そして国防軍はこのもてあまし気味だった組織をフライコールが吸収してくれることを歓迎した。ただ、国防軍はこの頃から第1次大戦のマスアーミー(大衆軍)から専門兵からなる部隊に転換を図ろうとする動きがあり、古いタイプの参謀将校と隠然たる対立があった。それでも国防軍首脳部は全て旧第二帝国軍の生き残りであり、その国家主義的傾向、反英仏感情を棄てることができなかった。ゼークトに代表される容共親ソ感情はある程度残ったが、それがドイツ共産党と結びつくことはなかった。

つまりボルシェビキは全体の2割前後しかし優秀な帝政ロシア軍将校を吸収することに成功したが、ドイツ共産党は旧第二帝国軍の将校を引きつけることに失敗した。これはローザ・ルクセンブルグらがあまりにも反ドイツ的国際主義に傾斜したせいではなかろうか。

その後のドイツ共産党


村瀬 興雄 ドイツ現代史 東京大学出版会 1962
篠原 一 ドイツ革命史序説 岩波書店 1956
猪木 正道 ドイツ共産党史 弘文堂 1950
林 健太郎 ワイマル共和国 中公新書 1963

注)ドイツ革命に関する日本人の著作は膨大なものに昇る。上記は一部にすぎない。ただ林を除くとマルクス主義歴史学に基づいている。これらの研究は1950年代が中心で労農派の手により行われた。ただし事実などの究明に優れるが、旧東ドイツを賛美するなど現在からみれば、首をかしげるものが多い。労農派の動機は、ドイツの資本主義の発展を英仏と対置させ強いては日本にも明治期に資本主義の発展があったことを主張したい、という所にあった。これは来るべき日本の革命が市民革命か共産革命かという選択に回答を与えようとしたものである。マルクス主義者間のたわいもない論争だが、現在の日本共産党も民主革命(=市民革命、君主制を倒し封建勢力を打倒する)を主張しているのは周知の通りである。

ドイツ革命は第1次大戦の結果起きた、すなわち敗戦の結果生じたものである。これだけでもマルクス主義者の歴史必然論は誤りだと思うのだが。ただし、この必然論は戦争原因をあいまいにさせる所があるから、大国の敗戦直後に流行しやすい。日本の1950年代のドイツ革命研究もその一つである。

ワイマール共和国の成立
第1回選挙と制憲議会
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