ヒトラーは1921年になっても二間のイザール川に沿った下宿(ティエルシュ通り)にいた。この下宿の寝室は約6畳で、居間にはアルザス・シェパードをかっていたから、一人と一匹で一杯の生活だったに違いない。生活は演説の原稿を書くときをのぞけば、ただ読書をするといった暗いものだった。ヒトラーはこの下宿に1929年まで居住した。
ただ知り合いが増えるにつれ、街中のカフェで過ごす時間が長くなった。写真家のハインリッヒホフマンによるとヒトラーはこの時代カフェ・ヘック(ガレリアン通り)を好み、日中の相当時間はそこで過ごし、食事も大半はそこで食べた。いつも壁際の決まった席につき、ヘス、ローゼンベルグ、ショイブナー・リヒターなどが常連だったと言う。
バイエルン首相カールとの面会
バイエルン政府はヒトラーを重要視していなかった。この時の首相、カールはバイエルン独立論者だった。このためベルリンのウィルト政府とことごとく対立していた。とくにベルサイユ条約履行派だとして社会民主党を批判した。
カール(Gustav
von Kahr 1861-1934)
バイエルンのワイセンブルグで裁判所判事の子弟として生まれる。ミュンヘン大学で法律を学び、ミュンヘン管区の司法官吏となる。その後バイエルン王国内務省に務め、大戦期間中はオバーバイエルン州の行政長官だった。典型的なバイエルンの親子二代にわたる内務官僚で、当時帝国の行政官吏が厳しく批判されているおり、国民には人気のない経歴だった。同じくこの時ヒトラーと対立したロッソウは、軍人だがその後ヒトラーと調子をあわせている。またカールは州民にも嫌われていた。バイエルンの首相に2回就任した。バイエルン分離主義者でウィッテルスバッハ家の復辟を主張した。バイエルン人民党の支持はあったが政党政治家ではない。長いナイフの夜事件(レーム粛清事件)の時何者かに暗殺され遺体が沼に放置されているのが発見された。
カールはヒトラーを街頭演説家だとして軽蔑していたが無視することはできなかった。1921年5月カールはヒトラーを面会のため招待した。この時へスが同行した。
ヘスはこの時まだミュンヘン大学の学生だったが、会見の後カールにヒトラーが犠牲的精神の持ち主で国の利益のみを考えて行動していると褒め称える手紙を送っている。
ヘスは、ヒトラーが党から一切資金を受け取らず、党主催以外の集会での演説で生計を立てていたとする。
この当時のヒトラーの家計について全く史料が残されていない。しかし9月、ミュンヒナーポストはヒトラーが金銭を党から横領し生活を立てているという記事を掲載した。この記事を中傷だとしてヒトラーは名誉毀損訴訟を起こした。12月法廷でヒトラーは自身の生活費について、「65回党のため演説したが全く金は受け取っていない。ただ支持者から金銭で援助を得たことはあるし、食事を提供されたこともある。」と陳述した。
実際のところヒトラーの生活はつましいものだった。下宿代以外はほとんど生活費がかからなかったと言う。また当時から赤いベンツを乗りまわしていたが、これも支持者からの提供だったらしい。またミュンヒナーポストには、毎晩女性と行動を共にしなかにはタバコを吸う女性も含まれていたとの記事もあるが、事実として疑わしい。
ミュンヒナーポスト紙
NSDAP内部抗争
1921年6月末ヒトラーはベルリンのナショナルクラブ(当時全ドイツ国家主義者のメッカだった)の講演のためミュンヘンを空けた。
この時、議長ドレクスラーを中心としてヒトラーに対する反乱が起きた。ドレクスラーらは南バイエルンにあったドイツ社会主義者党との協調を主張しヒトラーの独裁力が弱まることを期待した。ヒトラーはこの問題が話し合われる7月1日の委員会も欠席し、7月11日いきなり辞任通知を送付した。
しかし、この対立の結果党が分裂するとしてドレクスラーの側にその後の展望はなかった。ヒトラーのみがNSAPで人を集めることができる弁士だった。7月13日ディートリッヒ・エッカートが和解のための仲裁に乗り出した。この時、筆者は不明だがヒトラーの中傷文書が出回った。
「権力への渇望と個人的な権力欲からヒトラーはベルリンに6週間いたのち戻ってきた。その目的はわからない。背後にいる薄暗い人物とともに、党員の間に分裂と不統一を持ち込むための瞬間が熟してきたと見なしたのだろう。そしてこれはユダヤ人とその徒党を利する目的だ。ヒトラーの目的が国家社会主義党を非道徳的な目的のため単純に跳躍台として利用することがだんだん明らかにまってきている。そして心理的によいタイミングをとって党を別の路線に切り替えるため主導権を握りたいのだ。この事は数日前ヒトラーが送った、党と委員会の独裁権を要求する最後通牒ではっきりとしている。またこれにはアントンドレクスラーの辞任も含まれている.…どのようにヒトラーがこの戦いをしているか…ユダヤ人のようにだ。ヒトラーは国家社会主義者のあらゆる真実をねじまげる。ヒトラーはデマゴーグだ。・・・」
ヒトラーはこれの作者はドレクスラーだと言って脅かした。この文章はそのくだらない反ユダヤ言辞は気になるが、なにか真実をついている。
7月14日、ドレクスラーは全面降伏した。内容はヒトラーに独裁的権限を与え議長に就任するというものだった。7月26日ヒトラーは再入党した。この時党員番号は3680番だった。
擬似軍事団体との係わり
1921年にはいるとバイエルンの擬似軍事団体は政治性を打ち出しつつあった。レーテ共和国打倒のためバイエルン内部で集められたフライコールは実際には国防軍の管理下すなわちレームの影響下にあった。
しかしバイエルン執政のカールは1921年春連合国の強い解散圧力に耐えることができなくなった。このころレームの努力によりフライコールは事実上バイエルン軍団の後備旅団の骨格を残し25万人の大軍にふくれあがっていた。これは復員した兵士が拠り所を求めたこと、また失業対策の面があった。そして俸給は国庫から払われ、定期的な軍事訓練をうけまた人数に見合った小火器を保有していた。
従来Einwohnerwehr(市民防衛軍)に一括りされていたが、Bund Bayern und Reich(バイエルンと帝国同盟)Bund
Oberland(国土同盟 エップフライコールが中心)Reichsflagge(帝国の旗)Vaterlaendische Vereine Muenchens(ミュンヘン愛国者協会)Wiking-Bund(バイキング同盟 エアハルト旅団が中心)に分割された。
最大のバイエルンと帝国同盟はウィッテルスバッハ家の復辟とバイエルンの独立を綱領としており、やや毛色が違うが残りは全てレームの影響下にあった。この頃レームは擬似軍事団体への武器の供給を独占しておりMaschinengewehrkoenig(機関銃王)と呼ばれていた。
1921年春、上シュレジエンで住民投票がもたれた。帰属を決定するものだがポーランド軍は部分動員をかけた。これに対抗するためゼークトは黒い共和国軍に動員をかけた。バイエルンからはエアハルト旅団がシュレジエンに向かいポーランド軍と交戦した。8月までにバイエルンに戻ったが連合国の監視は厳しく、ヒトラーとエアハルトの間でNSDAPのSAに帰属させることが決められた。
ポーランド軍
こうして徐々にSAへの移行がレームによって図られたが、それでも1923年10月まではどの分派も一応独立の体裁を保有し、ヒトラーもそれ以上の無理はしなかった。
この1920年と1921年のドイツの政情は一言で言えば、復員兵士の政治への登場であり、右も左も同一だった。彼らは人数も多いうえ家族や職場への影響力が強かった。祖国への要求も強く、また断固とした改変を要求する傾向が強かった。
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