ビアホール演説家(1920年)

ヒトラーは、DAPの会合に初参加してから1921年7月の議長就任の間の党勢の伸張を「わが闘争」に生き生きと描いている。1919年にミュンヘン革命が打倒されたときヒトラーは伍長にもなれずの伍長補で、生活基盤は何もなかった。

ところがほぼ二年後にはドイツ軍参謀本部兵站総監にして事実上のドイツ帝国の独裁者だったルーデンドルフと対等に渡り合う、バイエルンの代表的国粋(フェルキッシュ)政党の代表となっていた。ヒトラーは名もない政党をほぼ独力でここまで引き上げたことになる。これはめくるめくような現実だ。

「わが闘争」には事実に反する記載が含まれていることはよく知られている。ところがこの二年間のことは多少の修正は必要かもしれないが概ね正しいものが多い。例えばDAPにヒトラーが始めて参加した1919年9月12日の集会に「わが闘争」で25人前後が参加したとしている。しかるに参加者のサインのある同日付のリストがベルリン文書センターに現在でも残されており、サインの合計は39人である。実際はサインしなかった人間が複数おり42人とされる。重大な相違とは言えない。相違が見られるのは国防軍に関するものが多い。

客観情勢としてこの当時ミュンヘンには15近い国家主義政党があった。そして主張は大同小異で規模もとりたてて大きいものはなかった。当然右翼政党のなかでも競争はあったわけで、ヒトラーが後で多少の自信をもって良かった時代として追憶することは根拠のないことではない。

ミュンヘンのビアホール

この期間の演説会はだいたいビアホールで行われていた。バイエルンではこのビアホールもすこし変わっていた。まずつまみ、食事は持ち込み奨励なのだ。従って、ジョッキ(2パイント)に入れた生ビールだけが供される。

そして逞しいウエイトレスが石のジョッキを始終7−8個もって空になったジョッキの隣に新しいジョッキを置いていくだけだ。当時女性が入ることも問題なく聴衆の3割程度は常に女性だった。そして比較的小さい細長のテーブルに沿って、木製の長椅子が置かれていた。これは現在でもあまり変わらない。コーナーには一段高く演奏席がありそこでは生バンドが酔客の耳を楽しませていた。

これが演説会となると階毎に貸切となった。しかし誰でも入れることは変わらない。演説者は普通長椅子のうえに立ち喋った。そしてこれがワイマール期の特色だが、必ず猛烈な野次が飛んだ。実はこの野次を主催者も歓迎した。というのはその後硬性のゴム棒をもった男が立ちあがり野次る人間と演奏席で乱闘を始めるのが普通だった。そして弁士には手を出さないという暗黙の了解があった。参加者はそれを見て余興としていた。つまり乱闘アトラクションつきのビール飲み放題の演説会なのだ。

貸切の場合、ビールの料金も参加者は支払う必要がない。ビアホール経営者はあとで料金を主催者に請求した。またビール2パイントは(*)現在の日本円で200円程度で安い娯楽とも言えた。参加者は普通主催者に義務ではないか幾許か置くのが普通だった。

(*)インフレで当時のマルクの評価は難しい。同時代人も困ってきちんとする時は戦前の金マルク(ほぼ0.25ドル)を用いた。1921年ある時の200人程度の集会で勘定は1500万マルクだったという。

ヒトラーの大衆への演説家としての登場は1919年10月16日ホフブロイケラー(Hofbraukellerこれはミュンヘン市中央部にあるより大きなホフブロイハオスHofbrauhausとは異なる)が始めてだ。この時の体験をヒトラーは下線を引いて、「前から思っていたことが本当になった。わたしは演説することができた。」と「わが闘争」に書いている。これはしかも誇張ではなかった。早期、まだヒトラーが公権力とは無縁の時期、相当数の人々がヒトラーの演説に感動したと記している。

ただこの時期のこととしてヒトラーによっておそらくミュンヘン革命時の行動を摘発された仲間の一人が「あいつらはお前の脳みそに糞をして、まだ水を流していないのか。」と野次をいれた、という記録が残っている。ヒトラーが将校達のスパイにすぎないと思う兵士の仲間がいたのだろう。ヒトラーは絶句して演説を中断したという。(Oskar Maria Graf; Gelachter von aussen. Aus meinem Leben (外からの失笑・私の人生)1918-1933, Munchen ,1966)

ホフブロイケラーの集会には事前の宣伝もあって111人集まり、盛況だった。これまでドレクスラーとハラーが指導するDAPはまず40人を大きく越える人数は集められなかった。ホフブロイケラーは市の中心の東部にあった。兵営はだいたいのところ北部だ。この時集まったのは兵士が多かったという証言がある。次ぎの集会はヒトラー自ら場所を設営した。EberlbraukellerエーベルルブロイケラーとGasthaus Zum Deutschen Reich「ドイツ帝国のための旅館」の2ヶ所だった。2つとも北部で兵営の近くだった。そこで前後7回の集会をもち最後には聴衆は700人に達した。

つまり相当始めからヒトラーの政治運動は除隊兵士の運動であり、また将校団というより下級兵士の運動で、その点でも左翼との共通性がある。

2月24日ホフブロイハオスでの大集会

1920年にはいり、ヒトラーは更に大胆になり綱領発表のため大集会を計画した。この頃になると大衆集会よりもこじんまりした勉強会を好むハラーとの対立がはっきりしてきた。1月、党の議長はハラーからドレクスラーに替わった。

2月24日、ホフブロイハオスの2000人が収容できるフェストザール(祭りの間)で大集会を開くというのである。祭りの間は2階にあり1階を除けばミュンヘンで最大のビヤホールの空間だった。(現存する)

現在のホフブロイハオス

はたして人数は集まるかが最大の問題だった。新聞に広告がのせられ街頭にビラが貼られた。ここで新しいNSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党)の25ヶ条からなる綱領を発表する予定だった。しかし集会に権威をもたせるため、ミュンヘンで顔が売れていたディングフェルダー博士を弁士として雇い完璧を期した。しかし当日ドレクスラーは緊張のあまり体調を崩しヒトラーは議事進行係りと二番目の弁士と両方を担った。

7時15分にヒトラーが会場に到着したとき会場は満席で聴衆は2000人に膨れ上がっていたという。ヒトラーは約2時間にわたって演説したが聴衆は熱狂的でとくに反ユダヤ・反戦争利得者のところでは大いにわいたという。

ただ野次も凄まじくしばしば演説は中断した。警察は監視をいれておりその報告が現存している。それによると聴衆は2000人だがそのうち400人は赤だと記載され、ヒトラーの演説は聴衆を盛り上げたという。短い討論のあと散会すると左翼、共産党と独立社会民主党の支持者は出口でインターナショナルを歌いNSDAPの支持者と衝突した。

ヒトラーはこの集会で25項目の綱領が承認されたと「わが闘争」で自慢げに書いている。だが25項目の党綱領はこの後もナチス党の綱領であり続けたがヒトラーが内容について重視したように見えない。

そして左翼の介入により、そもそもほとんど聞き取れなかったというのが真相のようだ。(マイクの導入は1925年頃でまだ使われていなかった。)後日の新聞の取り扱いも地味で、集会があった程度しか報告されていない。ヒトラーはこの時「聴衆は笑おうが感動しようが、私を道化師と見ようが犯罪人と見ようが、そんなことは重要でない。重要なのは関心を払うかどうかだ。」と語っている。

この点で集会は完全に成功した。ヒトラーは注目された。

ヒトラーはブルジョワ風のとりすました、知識を伝えるような演説を軽蔑した。力のある労働者の粗野な行動を賛美した。この年、ポスターは全てインパクトのある赤を基調とすることが決められた。またスワスチカ、鈎十字を党のシンボルマークとして採用した。

また反対者の左翼も注目し始めた。ナチス(NSDAP)の集会はいつも始まる前から満席になっていた。これは弁士の到着前の乱闘を楽しむためのものである。つまり弁士の演説中は、一応乱闘は中断する暗黙の了解があったから、前と後が楽しみだった。これは当時行動的な左翼の支持者も軍の除隊者ばかりで、乱闘といっても互いにレーテ以来反目していたが認めあってもいたためだ。

1920年央には早くも会場警備(ザールシュッツ)ができ、それが1921年8月に「体育・スポーツ部」となり、最後、SA(エス・アー突撃隊)に発展した。

ルーデンドルフとの出会い

1920年2月、ベルリンではカップ一揆が起きた。この一揆はリュトウィッツが筋書きを書き、カップが一人で首相官邸に乗り込んだにすぎない。黒幕にはこの頃帰国したルーデンドルフがいた。

カップ一揆

ただこの一揆の影響はバイエルンにより大きかった。バイエルン軍管区はエップらのフライコールあがりも加わり、ベルリンの社会民主党政権と事毎に対立した。結局軍管区の指示によりホフマン政権は倒れカールが政権を樹立した。カールは翌年権力を失うが、1923年ベルリンのシュトレーゼマン政権に対抗し再度独裁的権限を握る。思想的にはバイエルン分離論者だが、ベルリンの支持にもとづく、という奇妙なものだった。

マイル大尉はリュトウィッツらの決起組みとバイエルン軍管区との連絡係りだった。マイルは自分の政治上の成果を誇る意味もあって、2月上旬ヒトラーとドレクスラーをベルリンに派遣した。この時ヒトラーは始めて飛行機に乗ったという。

しかし、ヒトラーらがベルリンに到着した時、一揆は既に失敗していた。このためルーデンドルフとだけ面会した。これは政治上意義があるものではなかった。しかし現役の伍長が戦時独裁者に面会したのはやはり時局の急展開を感じさせる。ドイツは既に混沌のなかにあった。

ルーデンドルフはこの直後、内心では軽蔑するバイエルン人の住むミュンヘン近郊に移住した。またルーデンドルフは戦時中、ルプレヒト王太子と対立していた。この点でバイエルン分離主義者と対立したヒトラーとは戦術的に一致した。ルプレヒト王太子も復辟を狙う右翼バイエルン当局と常に連携していたが、ヒトラーと誼を通じることはついになかった。

除隊

ヒトラーが正式に国防軍を除隊したのは3月31日だった。そしてイザール川沿いの決して高級でないアパートに移った。この時賃貸契約書の職業欄には画家と記入した。ヒトラーは大戦前もミュンヘンで画家として生計を立てていた。どの画家が描いた絵でも毀誉褒貶は分かれる。当然ヒトラーの絵についても分かれる。

1900年代にウィーンで描いたヒトラーの絵。細部をおろそかにしない写実的な筆致である。ヒトラーはこれを葉書の写真から模写したといわれる。ヒトラーの記憶力は抜群で建物の寸法を暗記していた。しかし、この絵からは特段の才能は感じられない。

1995年、旧ソ連国立戦勝記念公文書館からヒトラーの自殺した地下壕から押収した、スケッチブックが公表された。スケッチブックは42点からなり、ベルヒテスガデンおよびミュンヘン近郊の湖を描いた風景画が中心である。この絵はおそらく1919年以降描かれたものと推定されるが、戦後アメリカ絵画を思わせる階調的な色彩をもつ水彩画である。やはり平均を相当に越える画才はあったというべきだ。ヒトラーを落第させたウィーン・アカデミーの罪は重い。ハプスブルグ帝国の受験戦争は高度成長もあって激烈だった。

しかしヒトラーの絵が売れているどうかと言う基準でみれば、やはり画才はあったと見るべきではないか。そしてこの時本当に政治家だけを専業として暮らして行く積もりだったのだろうか。この時のナチス党に専属職員はいなかった。つまり党首のドレクスラーも含めて皆別に職業をもっていた。ヒトラーはまだこの時1920年4月、政治家だけで暮らして行く自信はなかったのだろう。また既にインフレが進行中で、年金生活者は生活が不可能になっていた。ヒトラーも大戦前はある程度預金の持ち合わせはあったと推定されるが、この時すでに価値を失っていただろう。

レームとの出会い

重要な出会いがあった。エルンスト・レームである。レームはこの時まだ現役の大尉で主として民間擬似軍事団体の指導を行っていた。ミュンヘン革命の際はエップが率いるエップフライコールに属しており、おそらくバイエルンでこの面で最重要人物だった。レームはこの時バイエルンにあったほとんどの民間擬似軍事団体と関係していた。

レーム(Ernst Roehm1887-1934)
写真は1920年代前半、ホフマンによって撮影された。ミュンヘンの街頭でとられたがレームはバイエルン国防軍の略礼服を着用している。第1次大戦、レームは最後中隊長として最前線で戦った。鼻の上半分は弾丸の破片で吹き飛ばされ、頬には弾痕が残る。胸には功1級鉄十字勲章とバイエルン騎士栄誉勲章が輝く。バイエルンの軍服はこの写真のように詰襟で、鉄十字は首から下げず、リボンで佩用した。この隊付き将校がどのようにマイルの後任の政治将校になったのか経緯ははっきりしない。ミュンヘン革命のときエップフライコールに属していたためエップの推薦があったのかもしれない。ただグルコ所属時点ですでに鉄拳クラブの幹事を務めまた超国家主義的団体の会合にも出席していた。

レームはヒトラー初参加のDAPの集会にも参加していて10月には入党していた。この時どの程度ヒトラーと面識があったかはわからない。1920年1月マイル大尉がヒトラーを現役将校の右翼政治結社「鉄拳クラブ」に連れていった際両者が面会したことは確実である。

1920年頃のレームの関心は「市民防衛軍」(Einwohnerwehr)に向けられていた。これは革命鎮圧のため組織され、この時実数25万人を数えていた。

またこれらの活動はゼークト参謀本部が進めていた「黒い共和国軍」の一環をなすもので、レームは動員方法、訓練、メンバーシップ、装備すべてを掌握していた。当時ドイツでは収拾しきれない程の小火器であふれており、その重要な管理者でもあった。これがヒトラーの主催したNSDAPの集会の動員におおいに役立ったものとみられる。

ヒトラーの除隊後、国防軍との関係はレームがマイルにとって代わるようになる。マイルはヒトラーの上官だが、ヒトラーに言及する際Herrと敬称をつけて呼んでおり、両者の関係が単純に軍隊秩序に従っていたのか判然としない。そのまま変わらないとすれば、レームとヒトラーは将校、当番兵の関係となる。

マイルはカップ一揆後、スウェーデンに亡命したカップと連絡をとった際、ヒトラーがホフブロイハウスで2000人を集めたことを自分の手柄としている一節がある。軍人、とくに身分でなく成績でのしあがった人間は政治的なことに関係すると別の世界にふれ正体を失ってしまうことがままある。マイルは政治的信念より、情況で動くタイプだった。

除隊後、ヒトラーは急速にレーム以外の国防軍現役将校との接触は断っていった。やはりゼークト参謀本部のやり方に一致しないものを発見したのだろう。

ただ当時国防軍は政治運動を強化しており思想は国家主義を標榜していた。ゼークト自体はユンカーの理想をうけつぎ軍の政治からの中立を理想としていた。だがワイマール共和国への左右両翼からの攻撃は激烈でとてもそのような中立を許さなかった。またゼークト自身も徴兵制の禁止による総動員体制の否定を黒い共和国軍計画で補わざるを得なかった。この計画のために予備兵として国家主義政党の擬似軍事団体を充てる予定だった。

当時のヒトラーの思想傾向も反ユダヤ主義は鮮明にしていたが、反共産主義を鮮明にしていたとは言えない。反共産主義を始めて訴えた演説はなんと1920年の8月に降らなければならない。すなわちワイマール三党(社民・カト中央・民主)を11月の犯罪者として攻撃したものの共産党攻撃は控えていたのだ。

デートリッヒ・エッカートとフェルキッシュベオバハター紙の買収

またDAPに既にいた党員のなかの重要人物にディートリッヒ・エッカートがいた。

エッカート(Dietrich Eckart 1868-1923)

大酒のみで麻薬の常習者。ただ学才はあったようだ。1922年央にはヒトラーと仲違いしたが、それまでヒトラーを上流人士に紹介しまた資金の斡旋を行った。1923年12月泥酔し、おそらく急性アルコール中毒とみられる症状で死亡した。

エッカートは詩人でペールギュントの訳者としてベルリンの文学界では知られていた人物だった。1918年ドイツの敗北とともに政治運動を開始し、その攻撃的な反ユダヤ主義はミュンヘンでも目立っていた。エッカートはヒトラーにミュンヘン財界の大立者を紹介したことでも有益だった。この当時、NSDAPの財政は党費で賄える状態にはなく、常に財界からの大口の寄付と軍の機密費により補われていた。

エッカートはまたヒトラーの演説の才能をいち早く見抜いた人物でまたそのことを有力者に教えて回った。ただ1923年頃から関係が悪化した。最後はミュンヘン一揆の直後の12月飲酒過多により急死することになる。

1920年12月、従来から経営が悪化していた右翼系新聞フェルキッシュベオバハター紙が売りに出された。この時買収で活躍したのがエッカートであり、後にNSDAPの機関紙となった。

このページTOPに戻る
ミュンヘンのビアホール
2月24日ホフブロイハオスでの大集会
ルーデンドルフとの出会い
除隊
レームとの出会い
ディートリッヒ・エッカートとフェルキッシュベオバハター紙の買収

ワイマール共和国に戻る
NSDAPの総統に(1921年)に進む