開戦後最も活発な動きをみせたのはドイツ東洋艦隊(シュペー)だった。ドイツの本国艦隊(外洋艦隊)を別にして艦隊で活動できる能力を保持していたのは東洋艦隊だけだった。シュペーは日本の参戦を知るや、西太平洋での活動を断念しただちに根拠地の青島(租借地)を離れた。またインド洋の通商破壊をめざしエムデンを分離し、マレー半島に向かわせた。
エムデンの航行記録
その後太平洋のドイツの植民地はマーシャル諸島、カロリン諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島は日本に、ドイツ領サモア島はニュージーランドにほぼ無血で占領された。そして青島では日英連合軍とドイツ軍の間で戦闘が交わされた。
青島を離れたシュペーはカロリン諸島ポナペ島に一旦向かった。シュペーの艦隊は当初3隻、巡洋艦グナイゼナウ・シャルンホルスト(2隻同型8.2インチ8門)と軽巡ニュールンベルグからなっていた。ドレスデンはメキシコ東海岸、ライプチッヒはメキシコ西海岸に開戦時いたが、シュペーに合流すべく南太平洋に向かっていた。
日本の参戦
8月6日シュペーはポナペ島を出港した。
9月14日にサモア島にシュペー艦隊は到着した。8月23日に日本が参戦した結果、北太平洋はすでに危険となっていた。しかし南太平洋ではオーストラリア巡洋戦艦オースラトリア(12インチ8門)以外にシュペー艦隊に対抗しうる艦はないと判断された。シュペー艦隊は艦歴も若く優速で、巡洋艦または巡洋戦艦しか追いつけず、また日本はド級巡洋戦艦2隻と旧式(巡洋)戦艦4隻しか保有していなかった。
虎の子の巡洋戦艦を失うとあとはなく鞍馬・筑波と巡洋艦浅間で(第一)南遣支隊を組成した。だが果たして対抗できたかわからない。遭遇しなくてよかったのではないか。巡洋戦艦とされた鞍馬・筑波は12インチ4門と火力不十分でまたスピードがなかった。原因は仕様をなぜか一ランク落としているためだ。排水量トンが一回り小さく、またエンジンも小さかった。
この一ランク落とし建艦政策の失敗は戦後微妙に影を落とすことになる。とにかく事実として日清戦争以降で日本艦隊は最悪の状態にあった。しかしシュペーは太平洋よりも大西洋に回る他ないと判断を固めた。このあたりは日本の影に怯えたせいで艦隊の存在そのものに価値があるといえるのかもしれない。
シュペーはサモアから東へ直進し、チリを南下する計画を立てた。
9月23日、グナイゼナウとシャルンホルストはタヒチ島を砲撃した。このとき前後して9月20日西アフリカ艦隊のケーニヒスベルクがザンジバルでイギリスの軽巡ペガサスを撃沈そしてエムデンは9月21日マドラスを艦砲射撃した。いずれも南太平洋での通商破壊を目指す動きにみえた。ニュージーランド政府はこれに脅威を感じ、ANZAC部隊の派遣を遅らせることを決定した。更にオーストラリア政府は前言を撤回し日本に艦隊を急派するよう要請した。
オーストラリア政府は、日本の参戦に最も反対した経緯があった。白人の支配する領域が日本の進出により減少する、またドイツとヤミ交渉して太平洋の静謐を期するという二つの理由からだった。だがこのような剥き出しの人種主義と現実離れした軍事分析は本国では全く相手にされていない。またのちにパリ講和会議でアメリカのウィルソンはオーストラリア首相を名指しで愚か者と指摘したことも忘れてはならない。
また日本にとりこれらイギリス自治領は直接の外交交渉の対象でなく、非常に煩わしい相手だった。大国がすると理不尽でも小国が極端な人種主義をとると何か理由があるように受け止められるが、これは誤りだろう。
オーストラリアはこのように日本が自国の安全保障をも危機に陥れながら同盟国イギリスとの協調を貫いたにもかかわらず、日本人にたいする人種差別を撤廃しなかった。すなわち日英通商貿易条約の批准を拒否し終始ビジネスマンの入国すら拒否した。日本はイギリス人と同じ待遇をオーストラリア人に与えていたのだから、不平等を通り越して狡猾といわざるをえない。オーストラリアの白豪主義は恥じいるべき歴史である。
オーストラリアの要請も同盟国のイギリス経由だと受け入れざるを得ず、第2南遣支隊、戦艦薩摩、巡洋艦平戸・矢矧を結成し派遣するに決した。この時点ではアメリカが中立でかつイギリスにたいし中立船舶の自由通航で抗議していたため、日本はアメリカへの警戒も解くことができなかった。このため躊躇したがイギリスの要求が従来の日本の主張に合致するため断れなかった。更にエムデン対策をも要求されインド洋艦隊を結成、旧式(巡洋)戦艦伊吹、巡洋艦筑摩・日進を派遣した。
ここに至り、日本近海は新鋭巡洋戦艦2隻だけになってしまった。しかしドイツ東洋艦隊のような強力巡洋艦が相手だと、日本の建艦政策の巡洋戦艦中心が当たっていた印象もうける。とにかく北太平洋とインド洋の広範囲な水域が日本の護衛に任されることになった。また新鋭巡洋戦艦、金剛・比叡は速力・火力とも十分で奇襲攻撃程度には十分耐えると判断された。日本海軍はこのように開戦当初からほぼ全力でドイツ東洋艦隊に対処することになった。
コロネル沖海戦
一方タヒチ砲撃ののちシュペーは南アメリカを海岸沿いに南下するルートをとった。これは石炭運搬船との邂逅の便を考えたものだった。10月18日ドレスデンとライプチッヒが合流に成功し、イースター島を出港した。ところがクラドックを司令官とするイギリス本国から派遣された艦隊はシュペーの意図を読みきっていた。
クラドックは本国からは直接シュペー艦隊と対抗するには疑問がつけられていたにもかかわらず戦意は旺盛で、巡洋艦グッドホープとモンマスで、シュペーを待ち伏せた。
コロネル沖海戦
フォークランド諸島からマゼラン海峡をまわり、チリの首都サンチャゴ南方200kmコロネル川沖のサンタマリア島付近で待伏せた。本国ではドイツ海軍の暗号をこの時解読しており、この付近をシュペーが通ることは間違いないとされていた。しかしいつ来るかは明らかでない。
約5日待機ののちシュペーは夕刻クラドックの前面に現れた。このときシュペーはバルパライソから南下しており、北からシュペー南でクラドックが待つ形となった。
11月1日16時55分両艦隊ともほぼ同時に相手を認識した。砲戦は終始ドイツが有利に進めた。グッドホープとモンマスは9時前後までに撃沈された。シュペーは軽巡2隻を生存者の捜索にあたらせ、巡洋艦とともにバルパライソに向かった。しかし波が高く生存者は発見できなかった。
イギリス海軍省はこの時、巡洋戦艦2隻(インビンシブル・インフレキシブル 同型12インチ8門)を主力とし巡洋艦2隻(ケント・コーンウォール 6インチ14門)からなる艦隊(スターディ)を派遣することを既に決めていた。この当時イギリスは戦艦では圧倒していたが、巡洋艦・巡洋戦艦はUボートによる被害、艦種の軽視などでドイツに圧倒的に優位とも言えない状況にあった。この時点でこの艦隊の派遣を決めたのは英断と言うべきだろう。
1914年11月3日(頃)コロネル沖海戦に勝利したあとバルパライソを出港するシュペー艦隊
遠方にややかすんで見えるのがドイツ艦隊で先頭がシャルンホルスト、2番グナイゼナウ3番ニュールンベルグ
湾に留まって見送るのはチリ海軍。
左から巡洋艦エスメラルド、オヒギンズ、ブランコエンカルダ、旧式戦艦カピタンプラート
艦名の大半は太平洋の戦争、イキケ海戦に由来している。
フォークランド諸島海戦
12月2日シュペーはホーン岬をこえ南大西洋に姿を現した。シュペーはこの当時南北アメリカにドイツに敵対している国はなくむしろ太平洋より安全だと考えたらしい。この後、ラプラタ川河口・ニューヨークそして本国に帰還する計画だったという。
ところがシュペーはイギリス唯一の南米にある基地のフォークランドを襲撃してから帰途につくことを提案した。本国はついでの目的をもつことに反対したが、ドイツでは常に現場の指揮官の意見が優先する。
フォークランド諸島海戦
この頃フォークランド諸島では首都のポートスタンレイでシュペー艦隊の襲撃に備え準備を整えていた。遅い旧式戦艦カノパスを係留し臨時要塞とした。そして機雷を設置しまた望楼を要所に設けた。ドイツの暗号はまたもや解読されていたのだ。
12月8日、8時20分カノパスの望楼がシュペー艦隊を発見した。ただちにカノーパスが応戦した。しかも不運なことにスターディの艦隊は石炭積みこみの最中だった。しかしシュペーは巨大な巡洋戦艦をみてすぐさま、逃走に移った。じつは石炭積みこみで艦は動けずまた砲撃も困難で、このとき港内に突入すれば2隻とも撃沈できた公算が強い。
インビンシブルとインフレキシブルが動きはじめたのはシュペー艦隊を発見してから2時間後だった。それでも巡洋戦艦の強力なタービンエンジンは2隻を14時までにシュペー艦隊の追いつかせた。今回はシュペー艦隊が圧倒された。
シュペーは軽巡3隻を早めに逃亡させ、自らは最後巡洋戦艦にむかっていった。スターディもこの作戦に出ることは予期していて直ちに自らの巡洋艦を軽巡差し向けた。ドイツの軽巡3隻のうち逃亡に成功したのはドレスデンのみだった。
シュペーの旗艦シャルンホルストは16時30分40発以上の直撃弾を浴び撃沈された。グナイゼナウも2時間後あとを追った。ドイツ側の戦死者は2200人といわれる。
逃亡に成功したドレスデンも1915年3月14日ファン・フェルナンデス島(チリ)で捕捉され自沈した。また最後まで残った「植民地艦隊」の生き残りケーニヒスベルグもモンパサ沖で8月6日撃沈された。
ドイツ外洋艦隊の巡洋戦艦5隻は12月16日港外に出て、イギリス東海岸を艦砲射撃した。これはシュペー艦隊追跡に2隻の巡洋戦艦が派遣されたのを見越した処置だった。襲撃はスカボロー郊外の女子高校を破壊し86人の死者と424人の負傷者を出した。イギリスの世論は多少憤った。イギリス連合艦隊も4隻の巡洋戦艦と戦艦を繰り出した。当然追いつけず、ドイツ艦隊は無傷で戻った。
この一連の戦いは完全にイギリスの勝利だった。そしてこの勝利はイギリスの制海権への執着がもたらしたものだろう。ドイツはイギリスにパリティで劣っていた。そして大陸国として島国のイギリスの生命線が海にあることを理解できなかった。フランス人はイギリス人に「ナポレオンはトラファルガーで負けたのではない。ワーテルローで負けたのだ。」と陸戦の重要性を指摘した。しかしトラファルガーでナポレオンが勝てば、イギリスは屈服した可能性があるのだ。
また海戦で待ち伏せをされるというのは暗号が解読されている証左だ。一度待ち伏せをされて再度の危険性を認識しないのは問題かもしれない。ドイツはその後もチンメルマンノートを解読されている。だがミッドウエーを想起するとドイツを単純に責められない。

Dixon,T.B., The Enemy Fought Splendidly., Poole, 1983
Bennett, G., Coronel and the Folklands, London,1962
Hough, R., The Pursuit of Admiral von Spee,
London, 1969
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