ソンム初日のイギリス軍兵士の証言


ソンム初日何が起きたか生き残りのイギリス軍兵士の証言を聞いてみよう。

軍曹ジムマイヤーズ(25th Co., Machine Gun Corps, 31st Division)

最大の失敗は訓練のとき失敗したらどうするのかについては全く教えられなかったことだ。訓練のときは前進、後退それが全てだった。ところが実戦で停止を余儀なくされたとき、どうするか。わからないし教えられてもいない。失敗の場合の対処は何も想定されていなかったのだ。

伍長ハリーショー(9th Btn., Royal Welsh Fusiliers, 19th Western Division)

何が得られたかって。兵隊がそのために払ったものを考えたら何物でもない。あれは単なる殺人だ。あれにたいしての言葉はそれだけだ。

初年兵T.キャントロン(21st Btn., King's Royal Rifle Corps)

言われたことは、モップ(英軍事用語:残敵掃討)をかければよい、それだけだ。第1波のあとモップをかけろと。だが参謀連はモップとは何を意味するか分かっていなかったに違いない。訓練でやった事は地下壕に手榴弾を投げ込むことだけだった。

そして実際場面で手榴弾の破壊力は十分でなかった。そのうえ敵の地下壕は踊り場がついている。だから投げても途中で爆発してしまう。煙はあがったし入口も閉じたかもしれない。だがドイツの地下壕は裏口もある。だから第2線壕まで前進しようとすると出てきたドイツ兵から後ろから撃たれてしまう。

初日に起きたことはそれだった。

初年兵E.デイトン(8th Btn., King's Own Yorkshire Light Infantry)

重傷を負った。「ここまでだ。やめだ。」と思った。そうしなければ死ぬと思った。よろよろと後方に這っていった。正しく進んでいるかは全く分からなかった。敵の元の第1線壕まで辿りついた。突然「止まれ」と言われた。友軍がここまで来て停止したのだ。でも救助してくれなかった。

這いあがり元の無人地帯を戻った。横切るのに2時間かかった。1200ヤードにすぎないのに。出発点の自軍の塹壕に着いたら「合言葉」と聞かれた。「オレンジ」と答えると部隊は「長い谷」にいると言われた。ようやく担架兵に助けられ原隊に戻ることができた。マーシャル中隊長は「よかった、よかった。これで87人目だ。」と言った。

初年兵ロイビーリング,M.M,(6th Btn., The Wiltshire Regiment, 19th(Western)Division
MMはMilitary Medal(軍事勲章)の略。

旧前進壕まで行くのにひどい目にあった。ラボアッセイユまでの高地は全てドイツ兵が占領していた。交通壕を通っても見えてしまうらしく、横隊となって進むと砲撃をうけた。砲弾の一つが目の前に落ちビニー軍曹と2・3人を直撃した。前進するしかなかった。ようやく襲撃壕に辿りついた。襲撃壕というのが前進して設営されていたわけだ。

だが砲弾は嵐のように飛んでくるし、攻撃への参加は初めてだったからあまり良い気持ちはしなかった。まるで1年もそこにいた気がした。

レイド大尉が壕のうえに出て命令した。壕のうえだ。たぶん大尉はそれだけが中隊全員に徹底させる方法だと思ったのだろう。大尉の水筒には弾丸が命中していた。水が噴出していたからすぐわかった。

「銃剣を構えよ。ホイッスルを聞いたら突撃。」

ルーカスと言う若者がそばにいた。ブルブル木の葉のように震えていた。銃剣を固定したときにルーカスの分もしてあげた。とにかくこの震え様では銃剣を固定するのに1週間かかってしまう。ルーカスは古参兵だが経験は関係ないのだろう。


 ドイツの機関銃は銃座が固定していない。このため前でも後ろでも横切っても自在に射撃できる。このためか弾丸が胸壁に無数に命中する。土嚢が破れて、土砂が飛び散る。このため目を開けていられない。土砂でかすんだ目で突撃するというのは気持ちの良いものではない。

 目標はラボアッセイユ部落の右手で、砲弾孔の原野を突破して敵の塹壕に辿りつくことだ。そして敵の第2線壕を占領することだ。実際それがどこにあるか分からないのだが。


 ホイッスルが鳴った。ライフルを前に投げ、登りライフルを掴み前進した。そこいら中、砲弾孔だらけだ。まわり込むこともできないから一つに入った。しかし前進する必要がある都度出てまた別のに入った。5・6回それを繰り返したのち敵の第1線壕に入った。そこには敵味方の戦死者が山となってころがっていた。

戦死者が砲弾でやられたのか機関銃かはわからなかった。機関銃は第3線に据えつけられていたようだった。そこはしかもいくらか高かった。従って機関銃が止むこともなく相変わらず我々を狙って撃ってきた。ルーカスは第1線の手前で戦死した。

 再び前進だ。胸壁を越え20メートルも進むと地下爆破の結果できた大穴があった。そこに滑り降りた。レフロイ大尉とストーン軍曹もそこにいた。

 しばらくしてビルプラットの姿を見たとたん砲弾が彼を直撃した。大きな煙が巻き上がりそれが晴れるとプラットが転がり落ちてきた。

あおむけとなったが片足が失われていた。ものすごい苦痛だったに違いない。レフロイ大尉射殺してください、と叫んだ。大尉は這って近づき、ポケットからモルヒネの錠剤を取り出した。プラットはそれを噛んで数秒したら突然静かになった。



ソンム初日でのゴムクールとボーモンハーメルの攻撃に参加した兵士の証言だ。ここからわかるのは兵士はドイツ軍の第1線壕をほぼ占領したことだ。しかしドイツ軍に逆襲をかけれらていることがわかる。すなわち犠牲を払えば前進壕はある程度占領できる。問題はその後なのだ。

と言うのは、味方は確かに敵塹壕にとりついているが、防御が極めて弱いことだ。そのうえイギリス軍兵士は全縦深を確保することを命じられていない。すなわち前進壕から距離にして倍はある予備壕までの中間点にある敵本部や重砲の基地の占拠が念頭にない。前進壕の強化地点は無視して前進してしまえばよいのだ。そうすれば補給の絶たれた強化地点にいる敵兵士は自発的に投降する。

イギリス軍は前進壕の強化地点、地下壕・機関銃ポストを一つ一つ殲滅することを命じられている。ただ、全縦深の突破という方針をたててもイギリス軍の部隊運営の方針では無理だ。すなわちイギリス軍は完全に横隊での前進、すなわち大隊単位で数波に分かれ目標を前進壕に定め攻撃した。決まっているのは前進目標と担当する幅だけだ。

これでは前進壕強化地点の抵抗と逆襲に出る敵予備隊の前面からの攻撃に耐えられない。更に場所によっては左右からの攻撃も受ける。

これを回避するには、横隊による攻撃をやめ分隊単位(10人内外)に攻撃単位をかえることだ。また攻撃波回数を増やすとともに攻撃地点も増やすことだ。また攻撃地点の選定は分隊長に掌握させた方が良い。

だがイギリス軍はこの戦訓をついに採り入れず、分隊攻撃の採用は朝鮮動乱以降となった。ただ第2次大戦は草原と砂漠が中心だったため欠陥が露呈しなかった。マラヤ、ヒュットゲンの森、南イタリーなどのジャングル・山岳戦では欠陥が出た。また分隊攻撃は長い訓練が必要かというとそれも疑問だ。というのはソンム戦と同時期のブルシロフ攻勢で帝政ロシア軍は約1ヶ月で攻撃部署の編成を終了させている。要するにマニュアルと指揮官の問題だ。

また日華事変で旧軍は塹壕にこもる数倍の敵軍を簡単に突破殲滅している。これは中国軍(国民)が機関銃ポストと密集しながら塹壕に依存したのにたいし、フーチェル戦術を採り入れた傘型分隊攻撃法で対処したためだ。アメリカの新聞が言うように中国兵の素質が悪いためでも旧軍が近代兵器を保有したためでもない。

フーチェル戦術

またイギリスは当時戦時報道について極めて厳しい統制を行っていた。現在にいたるも実はイギリス軍兵士の戦死者の写真はほとんど残されておらず、フランス人またはドイツ人によって撮影されたものばかりだ。写真機の前線への持ち込みは軍報道班を除いて禁止されていた。また民間の報道員は前線から100Km程度後方までしか入れなかった。ドイツ軍にこのような規制はなかった。前線にいるヒトラーの写真が残っている。これは戦友が撮影したものだ。

イギリス兵の前線での写真はまず存在しない。あっても軍の報道班によるため「ヤラセ」が多い。これは軍の方針について無批判となる傾向を招いたのではないか。またイギリス軍の軍紀が厳しいのは事実だ。ヒトラーは前線にいたときでも犬を飼っていた。前線壕にて個人で犬を飼うことはイギリス兵にとり許されないことだったろう。

1915年4月頃。左エルンストシュミット、中央アントンバフマン、右ヒトラーで足元にいるのが愛犬フォクスル。フランスのフォルネで撮影されたという。シュミットは「わが闘争」に1919年1月トラウンシュタイン捕虜収容所の警備に同行した人物として登場する。職業は画家でミュンヘンで除隊後、工芸デザイナーの仕事についた。その後ナチス(NSDAP)に入党したが積極的な党員ではなかった。1940年6月フランス戦のあと、戦友としてパリまで同行した。バフマンはルーマニア戦線で戦死した。この三人はソンム戦でも伝令兵としてセーバル周辺で活躍した。


本証言はL.Macdonald,Somme, Lodon,1993から引用しました。本書の献辞はソンムで戦ったキッチナー・アーミーの無名の戦士に与えられている。

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