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1922年4月16日、ドイツ外相ラテナウとロシア外務人民委員チチェーリンは前年からのエンベルの仲介によりラッパロ条約を締結した。ラッパロはイタリー、ジェノバ近くの小都市である。ジェノバにはこのとき、フランスのポアンカレ大統領の提唱により、ソ連・ドイツ・アメリカ・日本を含む首脳が招かれ、ヨーロッパ経済復興を話しあう会議がもたれていた。
日本からは、ヨーロッパ経済会議と銘打たれ、佐藤尚武が出席した。本国から「金本位制回帰」にコミットするなと押念されていたようで、何も積極的な発言をしなかった。交通の問題はあるが、なぜ外相クラスを出席させなかったのか疑問が残る。同時に開催されたワシントン会議は、日本にとり海軍・中国問題が討議されたので、重要にみえたのだろうが、「海洋」「中国」などは世界平和にとってそれほど重要ではない。
日本の死命を制したのも、実は日露戦争以降、ヨーロッパ情勢だったのである。支那事変は中国や日本陸軍に影響を与えたかもしれないが、日本そのものに影響を与えたわけではない。日本に決定的に影響したのは独ソ戦の開始であり、それに影響された真珠湾攻撃であった。
ただし、経済会議が対ソ不侵略討議に至ったとき、国際連盟日本代表石井菊次郎は「本件は日本のシベリア出兵に影響せず」と声明を出した。
ラッパロ条約はロシア代表団が宿泊していたラッパロ市のパラッツォ・インペリアーレホテルで調印された。条約はわずか6ヶ条で内容は、
- 現在の領土状況の相互承認
- 外交および領事関係の再開
- 賠償は相殺のかたちで放棄
- 相互に最恵国待遇を付与
- 相互の経済協力
だけである。ここには最も重要な軍事協力には触れられていない。ところが、この条約の締結を聞いて、イギリス代表のロイド・ジョージは怒りの発作に襲われ、ポアンカレは会議途中で本国に帰ってしまった。これほどのことなら始めからパリ講和会議の時に、ソ連とドイツを呼べばよかったのだ。(*)
(*)この時、ロイドジョージとポアンカレの間でロシアの旧負債処理が話し合われ、ソ連が旧ロシア債務を継承することを約束する代わりにドイツにたいして賠償請求権を発生させるという密約があった。
そして実際になんらかのルートでソ連外務省に伝わった。
ところがレーニンは(1)これ以上ドイツに債務を背負わしても弁済は不可能、(2)英仏による戦後ヨーロッパ処理に加わることはしない、のいずれかまたは両方の理由で拒絶した。
この英仏の密約がラッパロ条約により不可能となったため、二人はショックを受けたという説が、アメリカ人およびマルクス主義者によって説かれている。
イギリス外務省の公文書にはこれを裏つけるものはない。またフランス外務省の戦間期の記録の大半は第2次大戦のパリ陥落時焼却されたため残存しない。ただ、この種の話し合いが行われたことはロイドジョージなどの手記で確実である。ところがイギリスの対ロシア旧債権は大きくなく、またドイツの負担のこれ以上の増大に反対する立場にあったためロイドジョージは肯定的な回答をしなかったと言われる。
またレーニンのほうへこの提案が行った事は確認できない。ところが、この時コミンテルンはドイツ国内での武装蜂起を画策していて、実際マンスフェルト蜂起を引き起こしている。対独宥和とドイツ革命の完遂(=世界革命の引き金)のどちらをレーニンが望んだかがはっきりしない。
ただこの時ゼークトは共産党武装蜂起を鎮圧することに自信をもった発言をしており、これがレーニンに伝わっていたことは確実である。真相は不明としかいいようがない。あるいはこの後も示されるようにソ連共産党の外交方針の一貫性欠如の表れかもしれない。
この二人は独ソの条約締結でなぜそのように強いショックをうけたのか。もちろん二人とも裏の軍事協定は知らない。最大の理由は、第1次大戦の結果にかかわらず、ドイツが超大国であることを認識せざるを得なかったからと思われる。
外交政策を安全保障の観点から他の超大国に支配されるようでは、その国は最早超大国とはいえない。すでにフランスは英仏協商を締結したあと、超大国ではなくなっていた。そしてイギリスもその道をアメリカとの間で、開始しつつあった。最終的に認めたのはスエズ動乱以降ではあるが。
ところがドイツとソ連は、この条約で安全保障を自力でやる、外交について他国の干渉をうけないことを確認した。その意味でこの条約こそが実質的に第1次大戦の戦後処理を決定したといえるかもしれない。それはベルサイユ条約の否定に他ならない。英仏首脳はそれをも理解したのだろう。もちろんこの事実を自国民に説明はできない。しかしこの事件を境に、フランスが軍事的にルールを占領することがあっても、ヨーロッパ外交はすべてドイツのイニシアチブを無視できないことになった。
秘密軍事協約
この秘密軍事協約を準備したのは、ドイツのゼークトとロシアのレーニンだった。
レーニンはこの条約締結の前に渋るトロツキーらにこう語っている。
「ドイツ人が好きなわけではない。だが現在は連中を挑発するより利用したほうがずっと有利だ。独立ポーランドはソビエトにとり非常に危険だ。ポーランドの独立は災難だが全面的に悪いわけではない。なぜならばポーランドの存在は、ドイツを我々の味方にする。ドイツがポーランドを絞め殺そうとするなら、我々と事情は同じだ。すべてがドイツとの条約に向かっている。ドイツの望みは復讐であり、我々は革命を志す。目標は同じだ。」
ゼークトはこの秘密軍事協約について閣議に次の説明を行った。
「この(秘密)協約の目標は二重に存在します。一つはこれによるロシアの軍事面の強化です。この強化そのものが我が国に有利に働きます。さらに軍事協力を通して、我が軍の強化に役立ちます。ロシアと協調したからといって、ドイツがボルシェビキ化することはもはやありません。またこれによって外国と問題が生じることもないでしょう。」
しかしゼークトは閣議での報告とは別の一面、すなわち冷徹な軍事的計算を持っていた。ゼークトは以前から政府とは別の外交手段として青年トルコ党の領袖、エンベル・ジェマルらを匿い、ロシアとの交渉役として利用していた。
またボルシェビキ政権も、ケマルの率いる新生トルコにたいするカードとして青年トルコ党を優遇していた。エンベルの夢は、イスラム勢力の統合による大トルコ主義だから、当面の敵がイギリスだという点で一致を見出せる。
ゼークトはボルシェビキのイデオロギーと離れた外交政策実行の可能性を、一番早く見ぬいた人物といえるかもしれない。
1918年から1933年のヒトラーの政権掌握にいたるまで、ドイツで実質的に政権を掌握していたのは参謀本部だった。社会民主党は比較第一党であるが、過半数を議会で占めたことはなく、また長期低落傾向にあった。
またワイマール憲法は当時最も民主的な憲法といわれたが、制度的な欠陥を有していた。すなわち大統領も直接選挙で議会は極端な比例代表制(完全ドント方式)だった。このためごく少数の支持でも議会で議席をうることが可能であり、結果は年中の選挙と議会多数派の欠如だった。
また比例代表制は議員を党首脳が選ぶことになるから、党そのものは党首独裁に陥りやすい。結果ワイマール共和国の政党は実質すべて党首独裁(共産党のみソ連の指導下で例外)だった。そして国民に人気がある人物は独立した党を作った。
第1次大戦前に社会民主党が、基盤を都市におき選挙区の関係で議員数が伸び悩んだ。ドイツも人口がそのとき都市に集中したためだ。この打開のためワイマールの制憲議会で社会民主党が強行したものだが、確実にヒトラーに有利な条件を設定したといえる。
この転々とする政局のなかで超然としていられたのは軍部だけであり、実質上首相の首をすげかえ、また外交方針を決定した。そしてシュトレーゼマン外相に代表される、平和的アプローチは、あくまで一時的に英仏との対立を避けるまたは英仏の仲を裂くことを目標とした。
ラッパロ条約(秘密協定)は有効に機能した。ロシア国内にドイツ軍のための航空機、タンク、毒ガスの工場が作られた。また飛行場、演習場など軍事センターも1924年から機能して、毎年500人以上の将校の交流があったという。
また、英仏のライン川を越えた侵入の際の、軍事協力・ソビエトへの英仏または日本の侵攻対処が参謀本部間で合意されたようだ。その意味では第1次大戦前の同盟体制より軍事的性格が強かったのかもしれない。
この同盟のドイツ側の主導者はゼークトのちにブロンベルグ(1927年から参謀総長)となったが、位置付けは後退していった。すなわちドイツ軍部にはゴルリッツ突破戦以来の東方派(ヒンデンブルグ・ルーデンドルフに代表される。)と西方派(ファルケンハイン・マッケンゼン・ゼークト)の間に対立があり、ラッパロ秘密協定は西方派の主導したものだった。
1932年ヒンデンブルグが大統領に再選されたとき、ゼークトや元皇帝ウィルヘルム二世はヒトラーの側にたちむしろヒンデンブルグに反対したといわれる。このときは反ヒトラー共同戦線の様相を呈し社会民主党もヒンデンブルグを支持したのだから、この対立の根深さが覗える。その時グレーナーも陸軍相長官を解かれ、シュライヒャーなど政治的軍人に参謀本部は領導されるようになった。もちろん再度逆転するのだが、この変化のなかで、もはやソ連との協力は無意味なものになっていった。
ソ連でこの同盟を推進したのはトハチェフスキーだった。しかしトハチェフスキーはスターリンとワルシャワの戦い以来良好といえず、1937年6月粛清される運命にあった。
なぜドイツは英仏と協調路線をとらずに、ロシアとの同盟を選んだのだろうか。ロシアは主敵のポーランド問題ではドイツとの利害が一致し、また英仏は干渉戦争の主役だった。ドイツとの同盟は自然なものだろう。一方ドイツに選択の道がなかったのだろうか。
おそらくあっただろう。しかし超大国への指向がそれを妨げた。この時、ゼークトの頭に帝国主義的(領土拡張的)発想があったかはわからない。ただドイツ参謀本部の懸案として、ポーランドの脅威があったのは疑いを容れない。またポーランドはシュレジエンを武力で奪取する計画を保有していたようだ。もしポーランドの意図がフランスと共同して、ドイツに侵攻するというものであれば、ゼークトの意図は防衛的であったことになる。
しかし主因は第1次大戦の終了の仕方にあったのかもしれない。フランスは、ドイツ包囲網を東ヨーロッパ諸国との軍事同盟で固めようとしていたし、ドイツは盟友のオーストリアが崩壊した。この構図では、ドイツ−ソ連が組むことは自然の成り行きかもしれない。また軍事バランスはともかく西ヨーロッパと対立する極を形成することになったが、これはゼークトのなかでどう理解されたのだろうか。また軍事同盟というものはたとえ条文で参戦義務を挿入しても履行されるとは限らない。一時的な軍事的利害の一致で同盟しても力にならないのは、第1次大戦のイタリーをみればわかる。
大国同士でイタリーのような行動をとった国は近世に例はないが、それでもこのラッパロ条約に不自然さはつきまとう。やはり永続的なものとはなりえない性格がどこかにあるのだろう。この条約自体はゼークトの作品だが、ゼークトの反英仏意識がそれだけ強烈だったのかもしれない。
Scheffer,P., Augenzeuge im Staate Lenins, Munich, 1972
Simpkin, R., Deep Battle-The Brainchild of Marshall Tukhachevskii, London, 1987
Gordon, H.J., Die Reichswehr und die Weimarer Republik 1919 bis 1926, Frankfurt/M. 1959