パリ講和会議と日本代表

日本代表は以下の通り。

全権首席;西園寺 公望
全権次席;牧野 伸顕
全権;珍田 捨巳
全権;松井 慶四郎
全権;伊集院 彦吉

西園寺公望(1849−1940):最後の元老

以下随員
松岡 洋右(外相、三国同盟を主導。自らをヒトラー並みの英雄としてきどる)
佐分利 貞男(中国公使拝命のあと自殺)
吉田 茂(駐英大使、首相)
有田 八郎(外相、大アジア主義を主張)
斎藤 博(駐米大使、パネー号事件で活躍、直後急死)
重光 葵(駐英大使、戦後、外相)
芦田 均(戦後、首相)
野村 吉三郎(海軍 太平洋戦争直前の日米交渉の全権)
等68名

日英米仏伊の5国が全権枠として5人認められた。松井・伊集院は後の発令である。

西園寺は元首相で元老であった。牧野は吉田の義父であるが、外務官僚とみてよい。残りも大半は外務官僚であり軍人は少ない。すなわちきわめて外務省主導で進められた。このなかで、あとになって、親ドイツとなったのは、松岡のみである。もっとも欧米畑が主流(例外は吉田・有田)の結果だろう。

牧野 伸顕(1871−1949)

また当時、華族出身の外交官から試験合格組に移行する段階にあった。ところが華族出身者は若いときに留学経験があり外国語が堪能だった。西園寺はフランスに9年留学しておりフランス語に不自由しなかった。ところが随員を占める試験組はそうではない。このため随員クラスは言語の壁を嘆いた。

日本では第2次大戦緒戦の影響で英米不可分論が幅をきかせるが、当時日本外交には親米と親英(仏)の対立があった。親米派の主張は極東(アジアではない)の平和維持を日米で行おうという点にあり、親英派はイギリスと共同で行おうとした。外交官は常に現実的で不可能なことは通常模索しない。

ところが両派のアキレス腱はアメリカが孤立主義に陥ったことだった。両方ともこの事実に気づいていない。更にイギリスは極東での軍事力による帝国の拡大はすでに日英同盟の締結時点で断念していた。土台、イギリスの極東でのプレゼンスはドイツの拡張とともに不可能となっていた。1910年代以降、艦隊の展開はシンガポール以西に限られていた。

また極東の中心は中国(シナ)であり警察活動とはその地域を指すものにほかならない。この時の人々はまだアメリカに軍事力や同盟相手として信頼がおけなかった。松岡は第1次大戦中アメリカにいたがその時最大の問題は日本が連合国にたっていち早く参戦したため、アメリカの参戦以前ドイツ系アメリカ人に批判されたことだと後年語っている。いまからみると想像できないがドイツを支持する運動も根強かったのだ。

アメリカは中国(シナ)大陸に関心をもつが、地上兵力を派遣してまで警察活動を遂行するつもりはない。中露2国という人口大国はアメリカにとり重要な軍事ファクターだった。アメリカの軍事上の弱みは地上兵力を紛争地点に送ることが、量とスピードの双方で劣ることである。これは現在でも変わらない。これを補完するものとして両国に期待した。ハンガリー動乱でも介入しなかったし、朝鮮動乱やベトナム戦争でも中国への地上軍による進攻は避けた。おそらくあとの二つの戦争の場合勝利への唯一の手段ではなかったか。

アメリカとすれば、ドイツ問題と日本問題の解決のためには、自らの力と中露両国の協力が不可欠にみえたのではないか。この中にはもはや英仏すら問題となっていない。

最近の言説で、パリ講和会議で日本が10人委員会にはいれたことは、アジアの代表(のかっこう)だったとするのがある。これは史実に反する。代表というなら他のアジア(広い概念である)の他国からの委任がなければならない。また実際の主催者(英米仏)の招待状に記載がなければおかしい。両方とも事実はない。

日本の軍事力が背景にあっただけである。単純な事実は艦隊と常備17個師団を動かせるということだろう。これがこれ以降の極東の問題を決定的とした。アメリカもイギリスも口は出すが中国大陸に大軍を派遣するつもりはない。中国大陸では革命と軍閥の跳梁が続いていた。中国大陸に利権(直接投資)をもつ国は沿岸に退き、大都市に租界を設定し経営を続行した。しかし上海を除けば治安は安定しなかった。そして小規模の軍隊を居留地(租界)に置くか派遣した。

すると日本のなかで不思議な思想が頭をもたげる。我々はアジア(これは最近だが)の代表だと。ドイツ問題と同じであるが、世界地図をみれば分かることである。日本の位置・人口でアジアを代表できるわけがない。だが極東(アジアではない)を代表しようとしたのが、日本問題である。

極東がヨーロッパと異なるのは日本を抑えられるのはアメリカだけになったという点である。日清戦争後ではまだヨーロッパの諸国が干渉できる実力があった。第1次大戦が全てを変えた。

第1次大戦の結果突然極東で自国のみ軍事プレゼンスをもつという事態に日本政府は即応できなかった。また一時的であるが、中国への綿紡績を中心とする直接投資の増大と貿易の拡大がみられた。これも今から見ると不思議だが当時の最大の貿易相手国は中国(ほとんど現地商社むけ)相手だった。そして日本に限らないが、資金回収は現地での集荷資金と相殺だった。このため、現地に相当人数を派遣せざるを得なかった。

このため内陸にも日本人コミュニティができあがり、治安の確保は至上命令だったがこれは不可能な命令だった。南京事件(1913)を始め、日本人居留者が虐殺される事件が相次いだが政府は何の対策も打てなかった。そして虐殺事件は日本人を狙い撃ちにしたものではなく、大陸では日常の事件にすぎなかった。

南京事件(第2次)

大戦以降は幣原喜重郎が外相を数期にわたって務めた。幣原は親米派でかつ外務省にも支持者が多いとはいえない。しかし世界の状況を把握する力はあり、国際連盟中心に陥らず、軍縮や中国治安維持で対米協調を旨とした。しかしアメリカは中国に河川砲艦を常時一隻程度揚子江に派遣する程度で、力にはならなかった。

この頃から日本でも大陸渡航者が著増した。東京では女学校の修学旅行で上海というのは珍しくなくなった。しかし中国内の治安の悪化は幣原のやり方を軟弱外交と呼ばせるにいたった。

不可能なことをしょわせられたまま、幣原外交は失敗した。この失敗を準備したのもパリ講和会議だった。(注)このあと中国の治安維持を日本単独で実施し、またそれに伴い排他的な利権区域として認めさせるべきだという主張が幅をきかせる。

西園寺、妾そして友人クレマンソー

もちろんこれは予想しうる失敗策だった。中国の治安維持に成功するために何個師団いるのか。そのためのコストは。また直接投資というのは相手(お客)がいてなりたつので、他国が中国から撤退すると長期的には売上不振となる。これは市場の独占が短期的には一企業の利益となるが長期的には全員の不幸となるのに似ている。ただ現地にいる人間は目先の競争相手(同時に客なのだが)がいなくなれば単純に喜び排他的利権を主張しがちである。

このときでも日本の中国向け輸出の相当部分は上海での三国間貿易だった。ただ軍人や大陸浪人はそれがわからない。

上海では金融業と貿易業を中心にイギリス人が最も活躍していたが、そのイギリス人ですら本国に軍隊の駐留を熱望していた。戦間期のイギリスの国力をみれば、不可能はわかると思うが。上海事変(第1次)の前にイギリス人は国民党軍の接近により、日本軍の派遣を要望したとある。当時国民党軍であれ軍閥のそれであれ、軍隊はすべて匪賊(強盗団)と大差がなかったのである。もちろんこれには異論もあろう。だが中国で割拠した軍閥は西ヨーロッパ的な国家規範で成立したものではない。国民の概念がなく軍が存在するのは王なき私兵としか言えない。それでも君主制があれば求心力となったかもしれない。

上海小史

君主制がなく選挙による共和制もないとすると政権の合法性を見出すのは難しい。君主制がある程度基盤があればそれを簒奪した政権が合法性を主張できるが中国にはその条件もなかった。これが中国的特性であるかは分からない。ただ中国的な政権移動、すなわち軍事力による王朝交代(または有徳者への禅譲)というのは、わかりにくい。普通の国はだいたい万世一系で民族が滅亡しなければ国家創業者の子孫が王家を引き継ぐ。一旦滅亡しても、旧王家の子孫を探し出す。

現在でも日本の中世史家が藤原氏や足利氏などがなぜ天皇家を廃止しなかったのかと疑問にしている。これは中国的発想が頭から離れないためである。民族・宗教が変わらなければだいたいの民族は国家創業者(神話・伝説に基づくか独立・統一運動の指導者)の子孫を君主とする。王家を簒奪するときには普通実はその子孫だと主張する。中国はおそらく異民族が関係したため禅譲思想がでてきたのではないか。

とくに東ヨーロッパのように民族が混交している地域はこの問題は現在でも深刻である。ポーランド王国の中興の祖とされるヤンソビエツキーの子孫を探して王国に改組すべきだという運動、ハンガリー伝説上の建国の王、セント・ステファン復興の動きなど、民族のアイデンティティーを求める運動は現在でも盛んである。反面ブルガリアやルーマニアなど途中でヨーロッパの君主が移植された国にはそういった運動は存在しない。つまり国家または民族の求心力があれば独立できるまたは独立を失わないと考えるわけで、日本の中世人も例外ではないだけである。

日本が軍閥と同じレベルで中国や満州で傀儡政権を樹立しても外国のものだというだけで失敗は見えている。中国の政権交代は確かに現政権も含めて武力だけで行われたが、それが外国人となると簡単には行かない。更に致命的なのは、英米仏独の支持もなかった。このやり方は1937年までヒトラーの支持もなかったのだ。

現在の視点で過去を批判してはならないし当時の人々の困難は理解できる。ただ当時、幣原外交の反動もあるがアメリカの極東政策を理解する力が弱かったのは事実だろう。またアメリカ人も日本が希望を表明すると、それを弱さの証明とうけとる傾向が存在する。また現在に至るも、同じようなことがときどき起きている。

また歴史上からいえば、中国の近代化に最も貢献したのは、阿片戦争を引き起こしたイギリスではないか。多くの鉄道、港湾施設、金融機関の分野で常に投資額第1位を占めて、また延べでの人員派遣でも第2位ではないか。当然現在までの損失額でもトップだろう。門戸開放を叫ぶアメリカが中国で現在にいたるも、直接投資・間接投資双方で、低いのはなぜだろうか。カントリーリスクが高いからだろうが結局経済的事由はアメリカの動機と関係がないのだろう。当時の日本人は中国と死活的貿易関係を有していると誤解していたから、アメリカ人も同様と思ったのだろう。戦間期のアメリカの訴えが道徳的なものだとはマッカーサーを筆頭に力説しているところであるが。

アメリカ政府がすべて動機を経済または民間企業に置いているという誤解は明治以来のものだが、ピューリタン(清教徒)が建国したことも忘れてはならない。



澤田 次郎 近代日本人のアメリカ観 慶応義塾大学出版会 1999
牧野 伸顕 牧野伸顕回顧録 文芸春秋新社 1949

パリ講和会議に戻る

第2次南京事件
堀 悌吉のパリ講和会議についての評