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ミュンヘン革命

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アイスナーによる革命(ウィテルスバッハ王朝の崩壊)

ミュンヘンでの革命は他のドイツのどの都市・地域とも異なる展開をみせた。1918年11月8日、ミュンヘンで独立社会民主党のアイスナーがバイエルン王家ウィテルスバッハ家のルードウィヒV世の退位を要求し、自らバイエルン自由共和国の成立を宣言した。これはホーエンツォレルン家ウィルヘルム二世の退位より先だつものだった。

この行為はその後のベルリンの動きにも決定的な影響をもった。すなわちベルリンが共和制に移行した場合、バイエルンは王制を維持し独立するのではないかと社会民主党主流派は恐れていた。アイスナーの行動はベルリンの共和制移行を確定づけた。一方アイスナーは当初からバイエルン独立を訴えた。ミュンヘンの警察も含め地方権力が簡単に移転したのはバイエルン人がプロイセンからのくび木をこれにより免れると考えたためである。そして独立と共和制の樹立とによりバイエルンは独自に連合国から譲歩が引き出せると思われた。

アイスナーはバイエルンを分離し外交を独自に展開しようとした。このため外務省に異例の力をいれた。その意図は連合軍(サロニカ軍デスパレ)がオーストリア経由南ドイツに侵攻するのを恐れ、いち早く連合国と協力する政体をベルリンとは分離して設立し交渉を有利にしようというものだった。連合国に迎合しようとする動きは東ヨーロッパ全域で起きていた。そして古来ドイツでは、中道・君主制支持者は分離・独立運動を支持し、左右両翼は大ドイツ統一を主張する。

この点でも左翼アイスナーの権力奪取は独立を目論むミュンヘンの保守層にも好都合だった。他国の政体に関与することの危険がここにある。本来違う方向をとるものが外敵共同対処で一致してしまうのだ。

ところがアイスナーは基本的なこと、すなわち分離・独立は王家を失っては困難だということを忘れていた。独立は過去から独立していたことを訴えるのが近道だし殆ど唯一の方法だが、その証明は王家の存在である。アメリカが君主制について批判的だったことが自由共和国とした理由だが、この時バイエルンに軍事的危機はなかったのだ。連合国のサロニカ軍は20個師団に満たない雑軍であるし、ドイツ軍は東部だけでまだ50個師団あった。他にオーストリア軍が42個師団を越えていたから、戦線を安定させることは難しくなかった。

ところがルーデンドルフが、休戦をあせるあまり、必要以上に南部戦線の崩壊を言いたてた。このルーデンドルフの危機アジリはどのドイツ人の耳をも納得させた。またヨーロッパの平和をとればバイエルンの独立は得策だった可能性もある。オーストリアのドイツ人はハプスブルグ家のドイツ人逆差別(?)に憤慨しており、ドイツとの合邦を求めていた。ドイツの分離主義者はバイエルンにしかいない。そしてバイエルンを失ったドイツはヨーロッパの覇者たりえない。バイエルンは軍事的な敗北を恐れたり、連合国の歓心を買う必要はなかった。

アイスナーは分離を求めて、分離手段を自ら破壊してしまった。王家の側は国王が老齢で、ルプレヒト太子が実質の代表だったが、軍司令官であるうえ、ルーデンドルフと対立していた。むしろルーデンドルフ=参謀本部の最大の対抗相手だった。ルプレヒトはアイスナーの動きを聞いて、長嘆息し政治に関係することは断念することを決めたという。ルプレヒトは分離に賛成だったろう。しかし流血手段で他のドイツ人と争う気は全くなかった。そしてこの諦観がドイツ革命の運命を決した。またルプレヒトは分離が達成されればまたウィテルスバッハ家に出番があると考えた可能性もある。

11月11日休戦協定が成立しベルリンでも共和制がしかれると、アイスナーの分離を目指した自由国は急速に意味を失った。ところがバイエルンはプロイセンとは独立した3個軍団を保有しており、ほぼ西部戦線で戦ったが無傷の状態だった。始め社会民主党の主導でレーテ(協議会)が作られた。

だが復員に伴って、バイエルンに帰還するとアイスナー政権は体をなしておらず、指揮はベルリンの参謀本部に仰ぐかまたはレーテを設立し自治を行うしかなかった。ドイツ人男子はその郷土連隊方式から連隊本部のある地方に帰属している意識が強い。当然兵員はバイエルンの独立を歓迎で、レーテは既存政党と関係せず、自治で運営されるようになった。

1月19日全国総選挙がバイエルンを含めて実施され、ワイマール三党(SPD,カトリック中央、民主)が圧勝した。政権はエーベルトの社会民主党が主体の三党連合が担うことになる。

バイエルンでは全国選挙に先立ち、1月12日バイエルン州内選挙が行われた。結果はアイスナーの率いる独立社会民主党(USPD)の惨敗で180議席のうち3議席しか獲得できなかった。バイエルンは明らかに他の州より保守的な傾向を示していた。アイスナーはともかく独立社会民主党はバイエルン人から全く支持を受けていないことが明らかになった。そして始めての州議会が開催された2月21日、アイスナーは暗殺された。

アイスナーの暗殺

ホフマン政権の樹立と共産主義者の武装蜂起

3月17日州議会で社会民主党と独立社会民主党の連立による、ホフマン政権が樹立された。しかしミュンヘンのアナーキスト・スパルタキスト・ユートピア主義者は連合して武装蜂起しミュンヘンに立てこもり4月6日、レーテ共和国の成立を宣言(通称第二革命)した。ホフマンは近郊に避難した。この事態は1月から4月まで各地で共産主義者が武装蜂起し、各個にノスケのフライコール(義勇軍)に鎮圧されていたのに触発された動きである。

ところがバイエルンはそれ自身の3個軍団が復員すると、後備旅団の設立を拒否そのまま一部が正規軍の師団として温存された。このためフライコールは設立されずまた域内に入ることができなかった。これがミュンヘンで共産政権が成立した理由だろう。おそらくグレーナー参謀本部は連合国の軍備削減要求を見越して、バイエルンの動きをむしろ好機として正規軍を残存させようとしたのではないか。

その後は共産主義者を名乗るレビネらは別の共和国を宣言(通称第三革命)したりしたが、市内の混乱は極致に達した。これをみて、グレーナー参謀本部は一挙覆滅を狙い4月30日、正規軍5個師団を派遣鎮圧した。この鎮圧の際700人前後が死亡したとされる。

ドイツの1919年の混乱でフライコールでなく正規軍が投入された唯一のケースである。当時共和国正規軍は南部防衛軍(本拠ブレスラウ)と北部防衛軍(本拠バルテンシュタイン参謀長ゼークト)に分かれ、形は共和国陸軍大臣(ノスケ)に属していたが参謀本部のもとに結束し実数40万人・25個師団を越え、恐らくこの時ヨーロッパ最強の武装勢力だったと推定される。

主任務はバルト3国に駐留し、東部軍の復員と民間人の保護でありこの混乱のなかで、ほとんど被害者を出さず成功させた。5月以降、連合国の抗議により徐々に本国に撤退した。しかし翌年3月この軍はバルト帰りと呼ばれていたが、カップ一揆というクーデターを引き起こす。しかしカップ自体が小物であるうえ、グレーナーに代わったゼークトは鎮圧方針または政治非関与で微動だにしなかった。このため一揆はバルト帰りがそのまま帰郷して反乱軍自体が雲散霧消して失敗した。

トラー(Ernst Toller 1893-1939)ユダヤ系ドイツ人
当時流行した表現主義劇作家。フランスのグルノーブルで法律を学んだ。共産主義者でもなくまた無政府主義者でもない。トラーの主張は「戦争は人民や国土への裏切りだ。反乱を起こそう!」というものだった。ヒトラーのは「戦争の敗北は人民や国土への裏切りだ。敗北主義者を打倒しよう!」というもので具体性が強く最終的に当時のドイツ人の心をつかんだ。第一革命委員会委員。ニキシュのあとをついで中央レーテ議長。第二革命で軍事担当委員になりホフマン政府のミュンヘン進撃をダッハウで防戦撃破した。その後エーゲルホファーと対立した。トラーは捕虜の殺害にあくまで反対した。トラーはドイツを愛していた。ヒトラー運動についても様々に理解しようとしたようだ。獄中でヒトラーと兵舎で一緒だったという兵士と話し、ヒトラーが社会民主党員だと名乗ったことを書き残した。この当時の数少ないヒトラーの消息である。出獄後も劇作を続け「どっこいおいらは生きている」は築地小劇場で上演された。1930年の時点でヒトラーの選挙の勝利をみて、今12時10分前だと表現した。これはこの時の評論のなかで最も鋭いものだった。ヒトラー政権掌握後亡命。1939年ニューヨークで自殺。

またミュンヘン革命の指導者には偶然と思われるがユダヤ人が多い。暗殺されたアイスナー、レビネ(共産党・ベルリンからの派遣)ランダウアー(アナーキスト)ミューザム(アナーキスト)トラー(アナーキスト第二革命革命委委員長)レビーン(共産党地元)らはユダヤ人である。ミューザム・レビーン・トラー以外は革命鎮圧の際殺された。ミューザムも釈放後1933年ナチスに惨殺された。レビーンは逃亡に成功モスクワに逃げたが、スターリンの粛清で殺害された。トラーは捕らえられ5年間服役した。その後アメリカに亡命し1939年自殺した。

レビーン(Max Levien1885-1937)ロシア生まれのユダヤ人

モスクワで生まれた。1905年のロシア第一革命で逮捕暦をもつ。シベリアから脱走しチューリッヒで大学に入った。そこでレーニンと知り合いとなりボルシェビキに入党した。その後ドイツに入国しドイツ国籍を得た。実家はモスクワの富裕な商人でその資金が役立った。第1次大戦でドイツ軍に従軍、後方勤務についた。そのままミュンヘンの連隊に残り兵士レーテを組織した。1月10日にベルリンのスパルタクス団と呼応し暴力デモを組織した。直後逮捕されたがすぐさま釈放され、アイスナーの暗殺後、ニキシュの中央レーテの委員に選出された。しかしその後ベルリンから派遣されたレビネに共産党代表の地位を奪われた。フライコールのミュンヘン占領後、脱出に成功しモスクワに赴いた。1937年スターリンにより粛清された。

レビネ(Eugen Levine 1883-1919)ロシア生まれのユダヤ人

ペテルブルグの商人の子として生まれ、子供の頃ドイツに移住した。ハイデルベルグ大学で法律を学んだ。ロシア第一革命のときペテルブルグに戻った。社会革命党に参加し1907年逮捕された。1908年ドイツに亡命、大学に再入学した。その後ドイツに帰化、第1次大戦に従軍したが病気のため兵役免除となった。1917年社会民主党に参加、その後独立派に移り、スパルタクス団の創設メンバーとして参画した。1919年3月初旬パウルレビによってミュンヘンに派遣され、レビーンの無政府主義者との共闘などを批判した。4月13日、いわゆる第三革命をホフブロイハオスで宣言し、革命政府の行動委員会議長に自ら就任した。この政府はフライコールのミュンヘン進撃まで2週間続いた。4月29日トラーとの対立に破れ議長を解かれた。直後、フライコールに逮捕され裁判で死刑を宣告され処刑された。

これ以外の有力指導者はニキシュ(レーテ議長)エーゲルホファー(赤軍司令官)ぐらいだが、エーゲルホファーは革命鎮圧の混乱で死亡した。マックス・ウェーバーはこれを見て、「革命家たちと彼らを引廻していた外国系ユダヤ人にたいするミュンヘン住民の憤怒は大きく、それが外国人憎悪の増大と反ユダヤ主義と汎ゲルマン的国家主義を生み出したのである。」と言ったと伝えられる。マックス・ウエーバーですらユダヤ人を外国人とみていたことがわかる。もちろんマルクスもローザルクセンブルグも何分の一かはユダヤ人らしいが、外から見るとドイツ人としか見えない。しかし外国人憎悪はともかく汎ゲルマン主義もユダヤ人とその革命運動が原因というのは極端である。

エーゲルホファー(Rudolf Eglhofer1896-1919)

ラインラント出身の自作農の子。第1次大戦で海軍に志願した。初めキールにいたが1917年オーストリアてこ入れのため、その唯一の軍港ポラ(トリエステ半島の先端)に水兵として派遣された。終始艦隊勤務にはつかなかったと言われる。1919年1月頃、キールでの暴動に呼応して人民水兵団を名乗りミュンヘンに現れた。この時相当数の海軍兵士が味方だと演説したが、実際は10数名の友人グループだけだった。2月のアイスナー暗殺以降レーテ共和国を主張した。その時でもこれは過激な主張ですぐさまレーテ内部で否決された。しかし急進的な手段と武闘方針を常に主張し続けた。第2次革命の際レーテ共和国赤軍司令官に任命され、第3次革命でもその肩書きを維持した。4月30日の赤色テロの実行はエーゲルホファーが命じたものであると言う。5月1日フライコールとの戦闘中に射殺された。死亡時は23歳であり、思想的になにか固まっていたようにみえない。フライコールの進撃にたいし赤軍4万を組織すると豪語したが実際集められたのは1000名に満たなかったと言われる。

マックス・ウエーバーという人物もキリスト教が内包している反ユダヤ主義との関係でみる必要があるのかもしれない。少なくとも、日本における資本主義の発展で、プロテスタンティズムと資本主義の発展はなんら関係がないことは明らかだ。マックス・ウェーバーの主張は事実をもって否定されている。ある学派の創設者だという理由で崇拝することもあるまい。

また社会理論が全て原理論(その時その場所では正しかったという擁護論)では理屈にならない。時間を超えた普遍性がないものが果たして科学だろうか。ドイツにおいては外国人等を吸収できないある種の弱さの方が問題だろう。だが外国人であるがドイツ人のヒトラーはマックス・ウエーバー以上の反応をしたことは予想できる。

カール政権の成立

その後1920年に入るとベルリンで失敗した右派軍事クーデターカップ一揆類似の行為がミュンヘンでは成功してしまう。もともとワイマール共和国は旧来の王国や大公国の形、バイエルン、ウュルテンベルグ、バーデン等を残し地方分権を許していた。そのうえ、経緯からバイエルンは統帥上独立した軍を所有していた。3月13日夜、バイエルン軍区(第7軍区)司令官メールはホフマンに右派に政権を譲渡する条件の最後通牒をおくった。ホフマンは抵抗することなく屈服、右派のカールに政権を委譲した。こうしてミュンヘンには合法的に右派政権が成立した。首班のカールはその後1923年ヒトラー一揆を弾圧する側にまわり、引退後1934年長いナイフの夜、何者かに惨殺される。

カール政権成立以降ミュンヘンはベルリン中央の社会民主党政権を敵視する右派の牙城となった。フライコール崩れや得たいの知れない超国家主義政党、民族政党、宗教カルトが陸続と集まった。そのなかにヒトラーがいた。

ヒトラーの1919年1月から5月までは一生のうち最も不明の半年である。1919年1月オーストリア国境付近の捕虜収容所に1週間派遣されたのが確認されている。その後、1919年5月所属のバイエルン歩兵第2連隊から革命政権への関与を問われた。これはすべての兵員にたいし実施されたもので、革命政権の役職についたものの多くは裁判に付されている。ヒトラーはとくに問題とされなかった。それ以外の行動は現在確認されていない。

ヒトラーのミュンヘン革命家にたいする批判

その直後バイエルン軍区政治部新聞情報局に転属となり政治的指導コースのセミナーに6月参加した。そして9月に国家社会主義ドイツ労働者党の調査を命ぜられた。ところが逆にこの得体の知れない党に魅力を感じ、専属の党の弁士となった。

ヒトラーが陸軍を正式に除隊となったのは1920年4月1日だった。


(断り書き)この革命は実際のところミュンヘン市内を越えることが殆どなかった。従って名称はミュンヘン革命とした。


林 健太郎 『バイエルン革命史』 山川出版社 1997
小松伸六 『ミュンヘン物語』 文芸春秋 1984
Zimmermann, W.G., Bayern und das Reich 1918-1923. Munchen, 1953
Schwend, K.,Bayern zwischen Monarchie und Diktatur, Beitrage zur Bayerischen Frage in der Zeit von 1918 bis 1933, Munchen, 1954

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ヒトラーのアイスナーの死についての感想
ヒトラーとミュンヘン革命