仮定が許されるとしてフランスはロシアがオーストリアまたはドイツを攻撃したとして、軍事上の支援をおこなっただろうか?
答えはNOだろう。
露仏同盟は攻守同盟であるが、どちらかが侵略された場合に限られた。このため始めに攻勢(動員も含むと解された)をかけたとき、はたして支援が期待できるかは交渉による。ところがロシアは7月31日の総動員下令前フランスの了解を求めていない。これは奇怪な措置である。
侵略(Aggression)について
侵略とは19世紀の外交用語で「先に国境を越えた国の戦争行為」を指す。
この用語は現在太平洋戦争=ルーズベルト陰謀説を説く人々から「常時、異民族(ある程度の集団で自国から相当に離れた所に住む)を支配下に置くこと」と解されている。
一方、本多勝一らジャーナリスト左翼は「自国の国境外で戦うこと」と説く。
両方とも誤りである。侵略とは戦争行為の一部を指すもので、国境(軍事境界線や休戦ラインも同じ)を先に越えるかどうかの問題である。その時の政治情勢や統治形態は関係がない。
たとえば日華事変を例にあげれば、華北の盧溝橋事件直後の展開は日本軍に非があり、駐屯地区を大幅に越境することは侵略に該当する。ただし、その後の上海における中国軍の租界と艦船への爆撃は中国軍の侵略にみえる。ただし、両者を一連の戦争の一部とみればなんとも言えない。
このように侵略という定義だけでは、それを理由として戦争犯罪云々を主張することは困難だ。また蒋介石の上海租界への攻撃は日本軍を上海に誘引しようとする作戦の一部であり、問題にせねばならぬのは作戦計画のあり方である。(租界は中国の主権下だが防衛や警察行為については中国は条約により、租界参事会の警察・防衛中隊と条約対象国の派遣する軍隊に委ねることを認めていた。中国軍はこの時租界を警備していた日本の海軍陸戦隊に攻撃をかけた。)
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1908年のボスニア危機に際しては、デルカッセ外相はロシアにフランスは軍事支援を行わないことを明言した。更に1912年8月バルカン戦争勃発時、ポアンカレはロシアのサゾーノフ外相に、「たとえオーストリアに攻撃されてもバルカン問題でフランスの支援は期待できない」と宣言している。
またロシアはアガディール事件の際フランスへ応援しないことを告げている。
この回答のうちバルカン問題についていえば、両国がまとまってもドイツ−オーストリアに対抗できないことを示しているのに他ならない。また海外植民地は対象としないこと、すなわちヨーロッパでの紛争解決の同盟だということだ。
そしてサラェボ危機でフランスはイギリスを自陣営に引き入れるべく、腐心したのは間違いない。またロシア外相サゾーノフは極端な反オーストリア主義者として知られる。だがこれでセルビアのために総動員をかけるというのは行きすぎにみえる。ロシアは、当初動員規模だけで500万人に達する。セルビアは総人口が450万人にすぎない。またスラブ近親意識といっても、ロシアがポーランド人やチェコ人を支援したことはあまりない。ただロシアはセルビアとブルガリアにたいしてスポンサー意識はあった。
こうしてみれば、7月31日まで、フランスが確定した支援の約束をしなかったことは当然だろう。
一方、ロシアがフランスの支援なくして独墺両国に対抗しえたとは思われない。また最近の研究では駐露大使のパレオログが、フランスの方針について本国でなく自己の方針を伝えていたとされる。しかし、ロシアが首脳不在中の大使のアドバイスが本国と離れたものであることは簡単に判断できたはずだ。
パレオログ日記
1914年7月14日ロシア外務省で会談するサゾーノフ(左)とフランス首相ビビアニ
別にロシアはシュリーフェンプランの内容を熟知し、先にドイツがフランスに攻勢にでることを知っていたことが考えられる。これであればフランスは戦うしかなくロシアが強気の動員を発令したのもわかる。しかしこの推論ではニコライ二世が最後まで総動員に反対しまた総動員が攻撃を意味しないことを強調した理由が分からなくなる。
一方でロシアの緒戦での布陣がよく出来すぎているという問題がある。フランスはドイツのグロスの兵力見積もりを間違えたし、オーストリアの動員は完全な失敗だった。ドイツは計画通りことを進めただけである。これに反しロシアは独墺にたいしほぼ理想的な布陣をしかつスピードも十分だった。あるいは下僚はすべてを見越して、動員を進めたのだろうか。ロシアのスパイ網が効率よく機能した例証はある。だがスパイ情報でなかなか判断しづらいのである。とくにエージェントに頼っている場合は複数から相矛盾する情報がはいる。
シュリーフェンプランが広範囲に漏洩されていたのは間違いない。フロンテイアの戦いでフランスはプランを知りながら、ドイツ軍右翼にたいし手当てをしなかった。予備軍団を動員するとは思わず、総数を25%程度低めにみた。そのためアルデンヌでの突破が可能と判断したのだ。
ロシアはシュリーフェンプランを分析し英仏露が連合すれば独墺に勝算ありとみたのだろうか。この場合ニコライ二世だけは知らされてなかったということか。
またドイツからみればこれは非常に奇妙な結果となる。シュリーフェンプランを中止し、ベルギー国境を越えなければ、第1次大戦は起きないのだ。ウィルヘルム二世の最後の躊躇、先にロシアに備えたらという提言を小モルトケが容れていたら、やはり戦争はなかったのだろう。ただ露・独・墺・仏の大軍が国境を挟んでにらみ合うだけだ。ドイツはロシアへの作戦計画は保有していなかった。これを怠慢とみるか、作戦の最高度の昇華とみるか答えは明らかだろう。
ではもしロシアが対独作戦を用意していたらどうか。これについては第19号計画がそのまま援用されたとみてよい。するとオーストリアに4個軍、ドイツに2個軍そしてワルシャワに1個軍編成中という計画であろう。ロシア軍はフランスに要求された結果、前線配置(平時に師団を戦時編成として充足させ前線地帯におく。予備旅団等は編成中心地におき動員令とともに逐次前線に送付する。)を実行しており、即応体制はあるが規模は小さい。すなわちロシアはすでに単独で独墺に作戦を組める状態にはなかった。
総動員後ドイツは8個軍でオーストリアは6個軍であり、ロシア軍単独でみれば独墺軍に対抗する術はない。すなわちロシアはフランスが参戦しないかぎりまたはドイツが先制してフランスを攻撃しなければ勝利の目は全くない。おそらく後退戦術を即興的に編み出すしかなかったろう。おそらくサンクトぺテルブルグは失われモスクワ前面での冬季戦でどうかという戦いとなったろう。だがこれが脆弱となった帝政の耐えることができる方法だろうか。
すると、ロシアの動員意図はますます分からなくなる。やはりこれを解く鍵は外交にあるのではないか。当時参謀総長のヤヌシュケビッチは大物ではなくたまたまその席にいたにすぎない。ヤヌシュケビッチは終始総動員を要求し続けたが、これは動員のための動員で背後に作戦計画をもっていたわけでなくまた期待もされていなかった。
背後の実権者はスコムリノフで大戦開始後、大本営の設立を提案した。ニコライ二世は総司令官にスコムリノフを起用すると予想した措置だったが、期待に反しニコライ大公を指名した。この体制に移行するとヤヌシュケビッチはニコライ大公‐ダニロフにすぐ実権を奪われた。
一方外相サゾーノフも一貫して総動員を主張した。サゾーノフも戦争のための動員とは考えず、外交手段としての動員と割り切ったのではないか。動員規模が大きいすなわち総動員の方が効果的であると。
サゾーノフ(Sazonov
1866-1927)
もっとも下僚はシュリーフェンプランを知っていたはずである。すると計画の詳細を報告しなかった公算が強い。ないしはロシアの官僚制度が極限まで腐っていたということだろう。このシュリーフェンプラン漏洩についてはドイツ側動員の確認のためドイツ国内にスパイを配置済みだったことも有力な傍証となろう。ただ問題はシュリーフェンプランがどのように実行されるのか正確に理解されていたかだ。
おそらくロシア責任者はドイツが戦争となるとどのような場合であれフランスに殺到するという程度の理解だったのではないか。ロシア・フランスの1914年7月31日までの打ち合わせは全てフランス側のロシアへの依頼に終始している。つまりロシアの東プロイセンへの攻撃である。ロシアが問題を作ったのにドイツがフランスを攻撃せず、ロシアだけを攻撃することは両方とも意識していない。
この仮説が正しいとすると、ニコライ二世の電信は真実の気持ちが入っていたことになる。つまりドイツが動員をかけてもドイツ・ベルギー国境を突破せず、カイザーは軍を自分のように引止められるはずだと。だがカイザーはできなかった。それではスピード差を利用するシュリーフェンプランが成り立たない。
7月30日朝、ウィルヘルム二世あて
「実施した軍事手段(部分動員をさす)はオーストリアの戦争準備に対抗するため5日前に決定された措置にすぎません。私が尊重する陛下の仲裁者としての仕事がこの措置によって損なわれることはないと確信します。私達がまず相互に了解するためには陛下によるオーストリアへの圧力が必要なのです。」
そして動員がオーストリア向けの部分動員から総動員に変更されると再び打電した。
「軍事動員の撤回は技術的に不可能です。しかしオーストリアとの話し合いが継続する限り当方から攻撃はしないことを私は名誉にかけて約束します。」
これにたいしウィルヘルム二世の返電
「私は平和を維持すべく最大限の努力を払いました。今文明社会を脅かしている災害について責任を負うのは私ではありません。すぐ動員を撤回することによって陛下はヨーロッパを戦争の危機から救うことができるのです。」
8月1日、ロシア動員に対抗してドイツは総動員令を発した。ニコライ二世は再度打電した。
「陛下は私と同様、不本意ながら動員を下令したものと承知します。私は自分がしたのと同様の保証、当方から攻撃はしないという約束が欲しいのです。神の助けにより我々の友情がこの流血の惨事を阻止することになるでしょう。」
この電信の交換は現在ウィリー‐ニッキー交換電報といわれているものである。このあとドイツの宣戦布告がおこなわれた。しかしウィルヘルム二世はその後もう1通電信をおくり、ロシア軍が国境を越えないことを求めた。そしてニコライ二世はその策略に満ちた方法に怒った。それが最後の電信となった。
ニッキーウィリー交換電報全文
この電報交換でわかるのは、ロシア・ドイツの外交手段としての動員、宣戦布告についての認識の差である。ドイツは動員を宣戦布告より重大な手段として認識していた。これは軍事上動員に対抗しうるのは動員しかないという点にあった。つまり軍事的に強力だとしても動員が終了したあとの話しで途中で襲われたらひとたまりもない。
一方宣戦布告は別にしてもしなくても特に重要でないと考えていた。軍事上は確かにそうかもしれない。だが残りの国はやはりそうは考えていなかったのではないか。また動員を完了しても作戦は別だと考えていた。ウィルヘルム二世も個人的にはその認識だったのだろう。
すると動員と作戦開始を一体としたシュリーフェンプランの問題が浮かび上がる。ドイツのみが戦争開始のイニシアチブをとれるのだと、どこか錯覚したところもある。そこをまたドイツは認識していないのが日本と似ているといえなくもない。つまりイニシアチブをとっても開戦責任は自分にはないと。
そしてもしロシアが漏洩されたシュリーフェンプランの不完全理解にもとづいて前提に外交政策を立てていたとするなら、ますますシュリーフェンプランの罪は重いといわなければならない。

(ed.)Bernstein, H., The Willy-Nicky Correspondence, NewYork,
1918

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