近衛文麿の「英米本位の平和主義を排す」


近衛の主張の骨子の部分を現代語訳になおすと、

「第1次大戦は既に成立した強国とこれから強国となる国の争いだった。現状維持が有利な国と現状破壊を目指す国の争いだった。現状維持の方が利益と思う国は平和を叫び、現状破壊に利益がある国は戦争を唱えた。平和主義なるがゆえに正義でも人道的でもない。軍国主義なるがゆえに必ずしも正義とか人道に反しているわけではない。

英米の平和主義は現状維持が利益になると主張する事なかれ主義で、正義とか人道に関係はない。日本の知識人は英米の宣言にみられる美辞麗句に酔って平和イコール人道と考えがちである。しかし日本は国際的地位からすればドイツと同じく現状打破を唱えるべきだろう。英米本位の平和主義に影響され国際連盟を天から来た福音のように尊重する態度は卑屈そのもので正義人道の視点からみればむしろ嫌悪しなければならない。

国際連盟で最も利益を得るのは英米だけであって残りの諸国は正義人道の美名に誘われたとしても得るものは何もない。ますます経済的には縮小するのではないか。日本の立場からみれば正義人道の見地からまさに耐えることができない。

講和会議で国際連盟に加入するに当たり、先決問題として経済帝国主義を排斥すること、また黄色人無差別的待遇である。(を片付けなければならない。)

正義人道に反するのはドイツ軍国主義だけではない。世界はドイツの敗北により、戦争を終了させることができたが、国民平等(諸民族平等?)の生存権を脅かすものは武力だけではない。」

近衛27歳のときの主張である。すでに西園寺公の知己も得ておりまた第一等の公家出身であり、政治的影響力はすでに有していた。近衛の主張が直接日本の人種平等の要求につながったとはいわない。しかし国際連盟と関係付けられており、全く無関係とも思われない。

(注)近衛と西園寺の関係について

同じ公家同士で、西園寺は近衛の応援をしたと言う説が強い。原田日記によっても、ある程度裏付けられており事実のようだ。

ところが、5・15事件のあと斉藤内閣により政党政治のルールが崩れたが、西園寺がキングメーカーとして実際に首班指名を完全な形で行ったのはそれが最後と言われる。

それ以降は近衛が西園寺の役割を果たしたとも言える。ただ第1次近衛内閣の「蒋介石を対手(あいて)にせず。」の声明ついて西園寺は相当に手厳しい批判をした、と言われる。

それでは近衛と西園寺の違いは何にあったのか。近衛は京都大学在学中(この頃実家は京都にあった。)に河上肇(戦後の研究によると昭和初期から秘密共産党員だった。)からマルクス的社会主義の影響を受けたという。

確かに、この論文でもマルクス主義者特有の論理展開がみられる。すなわち、第1次大戦を帝国主義国家同士の争いで経済的対立がもたらしたとみなしている。もちろん現在、実証的な歴史学者で経済原因説をとるものはまずない。

ただ、この説は戦間期ドイツで不思議な説得力をもった。すなわち戦争原因はドイツにないと言う論拠となりえた。近衛はこの心理を共有する必要はなく、やはり根底には社会主義への憧憬があったのだろう。

一方西園寺はソルボンヌではクレマンソーの影響をうけ、社会科学は、その影響下にあったと言う。年齢的にも兄貴分だったのだろう。クレマンソーの社会科学はサンシモンの哲学でフランス流社会主義であり、国家の廃絶ではなく、国家による労働者への福祉を主張するものだった。

現在のフランス社会党の源流とも言えまた西欧リベラルや社会民主主義の中心となる考えである。ただ西園寺はこういった思想を中軸に政治を考えるより、現実的に政党政治を実現させることにより流れを作ろうとしたのだろう。これもサンシモンが教える方法だった。

すなわち近衛の西洋的教養としてはマルクス主義的革新思想のみだったらしく、これが近衛の政治方針を狭隘なものとした。ただこれは戦間期の知識人に多くみられる傾向で、また現在でも多くの人々が社会主義はマルクス主義からだけ発生したとか、いわゆる左翼思想がマルクス主義から来ていると誤解している。

日本の人種平等提案は国際連盟の規約ないし発起案に入れるべきだと主張された。ところが近衛が黄色人種に論及している通り、内容が一定しなかった。まず独立国が国際連盟の参加資格だから、独立国のなかの国民が他の独立国の国民と平等なのか、それとも民族(皮膚の色?宗教?それとも日本が属する黄色人種の虐待問題か?)同士が一般的に平等なのか、または内国民の公民権上の平等なのか、はっきりしなかった。

人種差別撤廃提案

また民族間で富(経済)の平等をいうなら、まず自分からやらねば説得力はゼロだろう。また不可能であろう。さらに金持ちを貧乏人にしても貧乏人が金持ちになれない。これと同じことが民族間でもあてはまるのではないか。問題は国家間の平等を、抽象的な人種・民族に置き換えたことである。この国家を民族に入れ替える議論は非常な危険を伴う。

たしかにウィルソンの14ヶ条提案の民族自決(とは言ってないが)はヨーロッパのなかの自決でその外には論及されていない。しかし国際連盟に熱心だったウィルソンに嫌がらせ的な議論をもちかけて意味があったのだろうか。ウィルソンの原理、大小強弱に関わりのない(独立)国家間の平等の問いかけに答える必要はあったのではないか。

もし内国民平等の公民権を主張するのであれば非常に歴史的価値があっただろう。日本ではおそらく法の下に国民は平等というのは明治維新以来当然の権利とされていたが、今尚じつは大多数の国で実現されていない。身分上たとえば出身成分なるものを国家で管理しているケースもあれば自国民を人種で分類している国は多数ある。そしてなんらかの平等を主張する論者は外国内の問題についても整理しなければおかしくなる。

当然のことだが過去植民地にされた民族または国民だとしても新独立国家が内国民に差を設けることは許されないと思うが、やったとしてせめて法律で明文化する必要があるだろう。また民族主義を主張し内国民のうち他民族・他人種・他宗教信者・無神論者・反対者を追放するのであれば、私有財産について補償すべきだろう。また国民の国籍離脱の自由も保証されるべきではないのか。内国民の平等(公民権)に関してだけ(?)は当時の日本は最も先進的であった可能性がある。

しかし日本の主張は公民権をさすものではなく、アジアにおける西欧諸国の植民地の独立を念頭に置いたようである。すると自国の植民地をどうするかの問題に突き当たり悪意のある提案だと見なされてしまう。実際のところ山東半島の利権(国民はあまり興味がなかった)をみせられ採決までした提案をすぐ引っ込めてしまう。

近衛のパリ講和会議の印象記

日本の人種平等提案は先駆的と評価することもできるが、ただゴネただけのこと、と見ることもでき判定は難しい。ある主張をなすためには自らがその主張に沿いそしてある期間は一貫していなければならない。

また近衛はくりかえしドイツは現状破壊のため戦争に訴えたとしているが根拠がどうもはっきりしない。イギリスは常に自らHave国でドイツはHave not 国だと主張した。一般的にHave not 国が戦争を引き起こすのは強盗と変わらない。貧しいから他国を侵略してよい、とはならないだろう。このもつ、もたざるはイギリスの宣伝である。奇妙なことにムッソリーニも乗ったが。

また特別に黄色人種を出してきたが、黄過論を出してきたのはウィルヘルム二世で、独外務省あたりの役人がロシアの注意をアジアに向けさせ、露仏同盟を弱体化させる意図だったのではないか。黄色人種というのもアーリア民族とか白色人種と一緒で実態があるのか不明である。言語学からみると、中国語と日本語・韓国語は違うようだが。最近はモンゴロイドを区分するのが流行しているが古代人種はさておき、現代人種をそれで論ずることに特別の意味があるのだろうか。有史以来混血が進んでいることが歴史書に書かれているのに古代人種を当てはめてどうするのだろうか。

近衛文麿(1891−1945)

そして国益が黄色人種差別打破にあったのか、国家主義の観点からみて、疑問は残る。本来貴族階級は国際主義的傾向をもち、国益を単純に主張しない。ビクトリア女王は王族というものは縁戚関係から国益に従順になれない、と言った。多くの欧州の貴族は愛国主義だが超国家主義ではない。愛国主義は現状打破ではなく保守的である。

近衛が貴族の立場からのみ発言する必要はない。だが近衛は天からの福音を授かるように外国の宣伝に乗せられ国益を無視している気がする。また経済帝国主義は、近衛の造語かもしれないが資本力にものを言わせて借款や直接投資を行う意味とすれば、保護貿易・資本移動の制限の主張で、マルチラテラルの話しとバイラテラルの話しを混同させたに過ぎないのではないか。また帝国主義は戦中にアメリカとボルシェビキによって主張された。英独仏のヨーロッパ諸国によってではない。

アメリカの帝国主義批判はこの当時ロシア帝国、ハプスブルグ帝国、オスマン帝国など小民族抑圧国家にむけられ、ボルシエビキ(レーニン)の帝国主義論は植民地帝国主義すなわち英仏の熱帯帝国主義批判だった。そして帝国主義が経済的根拠(支配民族にとり経済的利益が生じる。)をもつという考え方はボルシェビキのものである。

アメリカの帝国主義批判は帝国ビジネスが経済的にも引き合わないと言いさらに反道徳的だと言うものだった。つまりアメリカとボルシェビキは言葉では同じ批判をしているが実体は違う。帝国ビジネスが経済的に利益を得るか、むしろ損をするかという点で正反対なのだ。1960年代以降海外植民地を英仏が手放した段階で理想主義といわれたアメリカの主張の正しさが立証された。また1990年代にいたりソ連が自らの帝国を分解した段階で広域帝国も同様だと判明した。

帝国を構えかつ小民族(農民で都市に住まないとする)を内部にかかえかつ労働力の移動を認めると産業革命は難しい。自由・平等など商業の基盤をなす考え方の成立も困難だろう。近衛は不思議とマルクス主義的傾きをもつ。第2次大戦前の日本やヨーロッパの知識人の一般的傾向かもしれない。また英米を一緒にしたこともその現れではないのか。

ドイツは二正面戦争勝利の秘策としてシュリーフェンプランにもとづきベルギーを侵攻したのであって、現状国境に不満だったためではない。また日の当たる場所を主張したのは事実だが、当時どの国もやっていた、光輝に満ちた拡大する祖国というのと同じではないか。標語と戦争開始は違う。ただドイツ人は実際スローガン通りやってしまう傾向はある。

この点でイギリスとドイツの宣伝に乗せられ、そして戦争を含めて現状打破を狙うというのは破天荒ではないか。経済上の遅れは経済を発展させるしかない。しかも当時極東では圧倒的に経済で優位に立っていた。近衛はなにか現実と離れた、浮薄子の気がするのだが。

西欧・北米・日本・豪州で開始された1850年代以降の後期産業革命は一人あたりGNPを押し上げ、人口の都市集中化をもたらした。これが起きるためには、労働力移動がある程度限定されていないと難しい。国民国家でないと条件が合わない。このため大人口国や帝国は都市で先駆的な機械化の動きがでても、後背地農村からの無制限に安価な労働力流入により芽がつぶれてしまう。大規模労働集約工場が都市に群集するがそれ以上の発展は需要が期待できず難しい。

中国のように元来帝国でかつ商業の基礎が成立していないと、労働力移動が自由で反面貨幣の移動は難しい。すると資本の効率的使用が成り立たない。労働力の移動が自由であると、一人当たりの収入は常に後からくる農村からの流入者に抑えられる。すると食料・住居・衣服以外の生産拡大は消費が拡大しないから難しい。要するに日本・ヨーロッパモデルは中国では通用しない。同じようにアメリカモデルもだめだと思われるが。

近衛を中国進出(どのようにかは問わない)のためすべてを強弁するとみれば理解できなくはない。しかし歴史の判定では中国進出論者に不幸な結論となる。1945年から1975年までの30年間日本は原料基地としても製品市場としても中国を失ったが、その期間は経済発展で成功した時期だったのではないか。結局日本は中国を必要としなかったのだ。同様にドイツもロシアを必要としなかった。

もちろん中国があった方が更に発展したという指摘もあるかもしれない。だが同様第2次大戦前にアメリカの主張を受け入れ、勢力圏など主張せず平等互恵を認めれば(中南米の平等互恵も必要だが)、その時代でより成功していた可能性が強いのではないか。

大東亜共栄圏と西田幾多郎

近衛はイギリスとドイツの宣伝にのせられた、中国への排他的進出論者ではなかったか。現在でもアメリカが中国を自国産品の市場にしたいため、日本の進出を恐れているという論者がいる。それでは現在のアメリカがなぜ借款でも直接投資でも消極的なのだろうか。事情は単純でカントリーリスクが高いからなのではないか。

アメリカの恐れ(あるとすれば)は中国の人口と日本の工業力が結合することにより、軍事的に世界で圧倒的になることではないだろうか。今後軍事力で人口の占めるウエートは減少すると思うが、戦間期には現実味があったのだろう。またこれがアメリカの杞憂に過ぎないのは、両国は7世紀以降一度も同盟関係にないことでもわかると思うが。

堀 悌吉のパリ講和会議についての評

また近衛の主張は当時孤立したものではなかった。近衛は内容はともかく政治とくに同盟政策という具体性があった。ところが言論界ではウィルソンの理想に単純な猛反発が起きていた。この反発は政治的に方針を示すのではなく人種的なことを持ち出す面が多かった。人種を持ち出すのは自己優越を示す場合は単純に排撃できるか差別反対で持ち出した場合は反論がしづらい。ところが同根の場合が多い。

黄色人種とかアジア人にたいする差別反対(現在は殆どきかないが)を言う人間はその後、超国家主義者になっている。そして実際・・・人種を定義することはできない。そして徹底するには国際結婚を禁止するしかない。そもそもウィルソンの理想主義を人種差別的なことから反対することは無理があるのではないか。また国内の公民権と国家間の問題を混同させても意味はない。カリフォルニア州法による日本人等に対する問題と本質的に別ではないか。

最近澤田次郎氏が徳富蘇峰のウィルソン批判の言説についてヨーロッパのパワーポリティクスの中にいてそこからの脱却が難しかったこと、および韓非子を中心とする教養が権力政治を指向させたと、論証しているが、卓見ではないか。もちろん蘇峰は当時の知識人としてケインズからウィルソンまですべて渉猟していた。そのなかで近衛よりさらに荒削りに権力政治を指向するところに恐ろしさがある。

一方原敬や牧野伸顕はウィルソン支持だった。ところがこの支持はウィルソンの理想主義を支持したのではなくアメリカの支持を得た方が外交上有利と判断したものだった。そしてウィルソンの理想主義にたいしフランスは公然たる反旗を翻し、ヨーロッパ伝統の勢力均衡論を唱えた。日本のウィルソン支持者は果たして理想に共鳴したのだろうか。打算では長期的な国民の信は得られない。心のなかでは国民は国家の名誉も重んじている。その点で近衛と徳富蘆花はヨーロッパ流の教養に基礎を置いている強みがあった。おとなの議論よりも書生論が長期的に勝つのが日本とヨーロッパである。

そして歴史の示すところ近衛の方向に日本は向かっていく。

(別宮暖朗)



『近衛公清談録』 千倉書房 1937
澤田 次郎 『近代日本人のアメリカ観』慶応義塾大学出版会 1999

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パリ講和会議印象記
南京陥落後の近衛発言