キッチナー陸軍


キッチナーは開戦時すでに長期戦を見抜いた慧眼の士だった。大陸での戦闘に勝利するためには、ドイツより数でも質でも優った陸軍を保有しなければならない。キッチナーはそれまで植民地戦を勝ち抜いてきた。しかし30年以上イギリス本土には戻っていない。だがイギリス人のなかでは植民地戦の英雄として誰もがキッチナーを知るほど有名だった。

アスキスが空席だった陸軍大臣(日本語では陸軍大臣となるが、英語を直訳すると戦争大臣で、アメリカの国防省長官に近い。すなわち陸海軍すべての戦争指導をになっていた。陸海軍がどうみても同格という国は日本とアメリカだけと思われる。)にキッチナーを招聘したのは皆当然と受けとめたらしい。ただしこれはイギリスの政治的伝統ではなかった。イギリスにおいてこのポストは議会政治家が握るものと考えられていた。この処置によりシビリアンコントロールが崩れ、大戦後半でロイドジョージがヘイグを革職できなかった理由とされる。

昭和陸軍が統帥権をもちだして政治に容喙をはじめたとき、殺し文句はイギリスのように政党政治家が大臣となったらどうするというものだった。たしかにドイツでは軍務大臣を本部付き参謀から選んだが、人事は皇帝が掌握していた。昭和陸海軍のように人事もみずから内部で詮衡したのは傲慢としか言いようがない。失敗しても責任を問われないとするなら、戦争に勝つのは難しい。

現在の日本の官僚も同じことを言うが、内部の人間の方がよく知っているといって内部詮衡にして誰が責任を問うのだ。第1次大戦ではロシアがその状態にあった。すなわち皇帝が広大な帝国の人事を掌握できず、官僚の互選で多くが決められた。奉天会戦の敗者クロパトキンがブルシロフ攻勢の直前で復活しまた失敗するのだから、おして知るべしである。しかも内部互選は派閥抗争を呼びやすい。

だが実際のところ君主が軍務大臣を選任することは、ドイツやロシアより君主が政治責任をとることを要求していないイギリスや日本では難しい。そして議会政治家がシビリアンコントロールを回復し、参謀総長以下を選んだのがイギリスで、内部互選というルーデンドルフ独裁下のドイツ方式に後退したのが日本だった。この内部互選方式を現在でも退職後の自衛官が臆面もなく主張する。彼らは歴史から何か学んでいるのだろうか。政治家が選んだところで制服の誰かが選ばれるので、彼らのうちの一人にすぎない。

そして内部詮衡は、人事抗争と停滞を招き戦争指導を失敗しやすい。ロイドジョージロバートソン参謀総長をウィルソンに変えたため、連合国の最終攻勢が成功したともいえなくない。そして方法はイギリス軍をフォシュの下に置くことだった。これは内部互選で選ばれた人物ではできないことだ。

そして注意すべきはロバートソンの方が大衆に人気がありかつ非政治的だったことだ。

キッチナーは文民政治家を軽視する人間ではなかったが、自分の直感にもとづく方針は断然実行した。キッチナーの方針は独特でイギリスが徴兵制度によらなくて、大陸軍を建設できるというものだった。

キッチナーは早くも1914年9月12日、マルヌ会戦のさなか志願兵の募集を呼びかけた。この第1回の呼びかけで、驚くなかれ478、893人が志願した。これは1918年の徴兵にもとづく1年間の兵員数より2万人は下回らない。これらの志願兵の多くは仲間内で語らって募集に応じた。そして当局はこの仲間を認めそのまま大隊に編成した。この仲間はパルと呼ばれた。パルの第一号はロンドンのシティーの証券業者パルで1600人といわれる。グラスゴーでは市電のパルが結成されそのままハイランド軽歩兵連隊の第15大隊となった。

恐らく歴史上最も有名なポスター

労働党党首のラムゼイ・マクドナルドはもともと参戦に反対で、この志願兵募集にも成功すまいと白眼視していたが、自分の選挙区のレスターで3個大隊(4500人)に及ぶ志願者がでると早速激励の演説にかけつける有様となった。

1ヶ月以内で55個大隊の編成がなされ、キッチナー陸軍は現実のものとなった。ウィルソン陸軍参謀本部作戦部長は冷ややかで日記に「ヨーロッパのどの国の陸軍からも笑われる存在になる。ドイツは40年間徴兵制度をしいて営々と陸軍を作ってきた。志願兵でそれと同じになるには永遠の時間が必要だ。」と書いた。

この現象をどう捉えるか諸説ある。まず当初の志願兵が戦争を悲惨なものだとは考えていなかったことは間違いない。多くは俸給がその間保証されたから、無料のフランス旅行ができると思ったらしい。また訓練にも熱心だが軍隊特有の階級制度にはなじめず、将校に敬礼する習慣などはなか身につかなかったといわれる。そのまま日常生活の延長で考えた節がある。ただ塹壕戦の悲惨さが知られるようになっても、志願のペースが落ちていないのも事実だ。

敵が自国国境をまさに越えようとするなら、殆どの国で兵士の志願に応じる若者が列をなすだろう。だがイギリスはそうではない。J.H.トーマス労働党議員(のち殖民相)は演説で「サッカーを見に行ける若者がいて、(軍に)志願しないとするなら、それは状況がわかっていないか、臆病者のせいだ。」と述べた。結構恐ろしい演説だ。

ラムゼイ・マクドナルド(Ramsey McDonald:1866-1937)

また、ロンドンでは未婚の婦人が白い鶏の羽をもち町を歩く若者にさしていったという。この白い羽は臆病者の意味らしい。また在郷軍人会の予備役が、個別に若者がいる家庭を訪問し志願を勧誘してまわった。これら予備役の最大の恐怖は若者の母親に「うちの息子はすでに志願して今フランスにいます。あなたはいつ行くのですか。」と言われることだったという。勧誘係りの予備役が現役に戻せと悶着を起こした。こういった無形の圧力も相当あったのだろう。

この現象は英仏独の3カ国で顕著にみられた。すなわち当時のGNP大国である。そしてこの3カ国はすでに都市化が始まっていた。だがそれだけで生活が裕福になったわけではない。とくに都市生活では住および衣服に費用がかかる。その消費がまたGNPを押し上げ成長の好循環につながった。しかし、日常生活自体の貧しさは現在からは想像が難しい。
事実としてあげられるのはこの頃英仏独の一人当たり摂取カロリーはロシアより相当劣っていたことである。殆どの人間が衣服以外の動産および不動産を所有していなかった。

始めは誰もが短期戦を予想したから、周囲の圧力や目先の生活を変えたいという欲求があったに違いない。しかしその後は、なにかの理想をもとめたのだろう。すべての参戦国でイギリスだけ軍隊に反乱がなかった。これは志願兵によるところが大きいのではないか。
またイギリス兵の待遇とくに食事がよかったという説も有力で、とくに後半期でドイツ兵が投降することが多くその証左とされた。しかしイギリスも後半期相当に食事等は当初と比べれば悪化していた。また食事というものは普通以上にとれるものではない。食事で兵士が反乱を起こすかどうか決める時代ではなかったようにも思える。

単純な事実は、イギリスは物資が豊富だと主張し、反面ドイツはイギリスの飢餓封鎖で食料が不足したと主張したことである。とくに休戦時エルツバーガー(中央党党首)他が食料封鎖の解除を訴えたことが補強材料とされる。しかしアメリカ軍がラインラントに進駐したとき、あまり北フランスの違いに驚愕、すなわち物資の豊富さに感動したという。それでもドイツの方が食料に不足したのは事実だが戦争遂行上重大支障をきたすものだったとは言えないのではないか。

ドイツとフランスの兵は反乱を起こしたが、動機は双方とも将軍や提督の作戦の不満からきている。作戦が無謀で、無駄死にを強要しているかにみえたのだ。(休戦後のものは除く。)第1次大戦の兵士は考える兵士だった。国の命令に従うことは認めたが、将軍や提督の作戦命令が国の命令とは受け止めなかった。それでもイギリスの将軍の作戦計画がひどく無謀(第3次イープル戦など)でも、イギリス兵は公然とは反乱に出ていない。

この点で同じく無謀な作戦計画を強制されても決して反乱を起こさない日本兵と似ている。ただ日本兵は選抜制とはいえ、徴兵による兵である。また日本の将校は反乱を引き起こす点で異なっている。

イギリス兵は戦後、各国のなかで最も戦争を嫌悪し反戦的となった。この点でも第2次大戦後の日本兵と似ている。独仏は逆に決して銃を措く事がなかった。結局島国では不満のボルテージも国防意識も低いのかもしれない。

キッチナー陸軍は別名新軍とも呼ばれた。そして始めはあまりの募集の成功に陸軍省は装備させることができなかった。背広を着た兵士が閲兵をうけている写真が残っている。新軍がフランスに初めて上陸したのは翌年1915年5月だった。そして翌年1916年7月には全軍の中心となっていた。ソンムの戦いが起こったときである。

閲兵を受けるキッチナー陸軍。
武器弾薬はおろか当初は、制服すら装備させることができなかった。開戦時イギリス本土にあった小銃はわずかに50万丁にすぎず、その後大陸に派遣した550万人の陸軍の装備はすべて自製するか、輸入した。1914年中は武器もなく訓練は全て塹壕掘りだったという。兵士が手にしているのは木銃。またゲートルも軍靴もはいていない。左にいる下士官のもつのはサーベルで指揮用。

キッチナーはその前月6月、ロシアへの途上乗船した巡洋艦ハンプシャーが触雷溺死した。
ソンム初日、7月1日イギリス軍の被害は6万人を越えた。その大半はキッチナー陸軍だった。



Westlake,R. Kitchener's Army, Tunbridge Wells, 1989
Williams,B., Raising and Training the New Armies, London, 1918

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