イズミルの歴史

イズミルは現在イスラタンブール、アンカラに次ぐトルコ第3位の都市として繁栄している。トルコ領に帰属したのは希土戦争の結果だが、ここを歴史からどこの国家に属すべきかと考えることは難しい。ただ戦争の結果はこの難しさを一刀両断したともいえる。

イズミルのギリシャ名スミルナは聖書にも登場する。そして1425年イズミルはオスマン帝国の支配下に入った。トルコはオスマン帝国の後継国家だから、希土戦争の前3年間を除き、一貫してオスマン帝国・トルコの版図にあったというべきだろう。

ただオスマン帝国時代、イズミルは地中海の港湾都市として国際的な性格をもちながら発展した。そしてイスタンブールと競う東西を結ぶ貿易都市でもあった。

ここに古くから居住した異邦人はイギリス人で16世紀にレバント会社と呼ばれる貿易会社を設立した。これは成功した会社で多くのイギリス人が移住した。そしてフランス人、スペイン人がそれに続いた。

しかし18世紀になるとオスマン帝国は膨脹から縮小に転じ始めた。多くの戦争がオーストリア・ロシアとオスマン帝国の間で戦われたが、大半はオスマン帝国の敗北で終わった。とりわけ1783年ロシアはクリミア半島を奪取した。この時点からは黒海沿岸の覇権はロシアに移った。またイズミルを経由する東方の貿易も喜望峰周りの航路が開拓されたことにより、縮小し始めた。ただ19世紀前半まで、イズミルは阿片貿易の中心でもあった。阿片貿易は1870年頃各国が一斉にその流通を禁止するまで、自由に交易される産品だった。

そして1807年イギリスは艦隊をダーダネルス海峡に突入させ、その自由航行をオスマン政府に認めさせた。

レバント会社はこのようななか、東西貿易の不振により1825年倒産し、イズミルの西ヨーロッパ人は東方商品からトルコ産品、ロシア産品を中心に扱うようになった。1854年のクリミア戦争では、イズミルの貿易商は親露派と反露派に分かれたという。

イズミルの国際的性格はトルコが中央同盟側にたって第1次大戦に参戦しても変わることがなかった。つまり戦後1919年5月ギリシャがイズミルに上陸してから、貿易都市としてのイズミルは崩壊したと見るべきだろう。

現在のイズミル

この時点でイズミルにはギリシャ系(正教徒)の人々と西ヨーロッパ人を祖先にもつ人々(正教徒でないキリスト教信者)が分かれ住んでいた。そしてキリスト教徒のかなりの部分はトルコまたケマルの支持者でもあり、現在でもイズミルに住んでいる。彼らは結局、回教に改宗しなかったわけだが、市内でかつて占めていた地位を継承したわけでもない。

希土戦争のあと流入してきた人々は回教徒であり同時にトルコ人だった。そして古いキリスト教信者を圧倒した。それによりイズミルの国際都市としての性格はなくなった。これの原因はトルコ国家主義(ケマリズム)が占める割合が大きいのだろう。つまり国家主義的な性格をもたないオスマン帝国の時代はたとえ回教が支配的でも、国際都市イズミルは存在した。国際都市イズミルの滅亡が20世紀に起きたことは否定できない。


セーブル条約