第1次大戦のヒトラー

第1次大戦のヒトラー

第1次大戦のヒトラー

第1次大戦のヒトラー

第1次大戦のヒトラー

ヒトラーは1914年8月2日、ミュンヘンで総動員令が発せられたときオデオン広場の歓呼で迎える群衆のなかにいたとされる、有名な写真が存在するが、後年ナチス(NSDAP)党宣伝部がヒトラーの承認を得て発表したもので確認は今となると難しい。


オデオン広場は王宮前にあり、手前が普墺戦争などを記念した将軍廟である。現在でもそのまま実在する。この写真はハインリッヒ・ホフマンによって撮影されたものだが位置からみるとレジデンツ王宮(ウィテルスバッハ家)内にホフマンはいたことになる。ホフマンはのちにヒトラー専属の写真家となった。ホフマンがこの写真をヒトラーに呈示し円内の人物がヒトラー(この時25歳)ではないかと指摘したといわれる。また別の群集の一人によるとこの瞬間はちょうど全員で「ラインの護り」を歌いはじめたときだという。ホフマンはこの写真により巨額の利益を得た。なお同じ場所でミュンヘン一揆の銃撃事件が起きた。警官隊はヒトラーの向いた方向にたち将軍廟(左手前)と王宮の間を通過しようとするヒトラーとルーデンドルフを先頭とするデモ隊に銃撃を加えた。ただヒトラーの髭の形が後世のものに似ている。他の第1次大戦時の写真では横に張り出した髭でやや矛盾する。

ヒトラーはオーストリア=ハンガリーの徴兵は忌避した実績があるがこの時は自ら、バイエルン連隊に志願した。その後の行動をみても、ハプスブルグ帝国にたいする忠誠心はなく、ただドイツへの忠誠心で志願したことは疑いない。このハプスブルグ帝国嫌いは当初からヒトラーの信条だったようだ。父親が帝国の官吏であったこととも関係があるのだろう。

ヒトラーのハプスブルグ帝国への批判は二段階に及ぶ。まずハプスブルグ家の反ドイツ人政策批判である。そして帝国とドイツとの同盟が結果としてドイツの弱体化につながる、というものだった。自ら大ドイツ主義者としてオーストリアとドイツの合邦を求めた。
この当時、オーストリア議会が1918年3月、敗戦後のドイツ共和国との統合を求めたように、ハプスブルグ帝国領内のドイツ人にとり合邦(アンシュラッセ)は少数意見ではない。

そして、総動員令から2日後バイエルン国王ルードウィヒV世に志願入隊申請を書いた。そこには「国家と国民のために死ぬ覚悟がある」とあった。だがヒトラーはオーストリア人であったためにその忌み嫌うハプスブルグ家とおそらく価値を認めなかったウィテルスバッハ家(バイエルン王家)の双方に忠誠を誓ったのち入隊を認められた。このときのことを『わが闘争』にこう記す。

「震える手で入隊許可の書類を開いた。私の満足はどんな言葉でも言い尽くせないだろう。そして数日をたたずしてほぼ6年間脱ぐことのない制服を着た。」

ヒトラーが25歳の秋だった。そして、バイエルン歩兵予備第16連隊(最初の指揮官の名前からリスト連隊と呼ばれた)に配属された。この連隊は全員が志願兵ではないがそれに近い。またプロイセンで志願兵だけにより編成された新編4個軍団(無垢なる子供の死軍団)と性格は似ている。予備と名はつくか精鋭部隊と目されたことは疑いない。またこの連隊からのちのルドルフ・ヘスとマックス・アマン(党新聞の責任者)が出た。

ミュンヘンとレヒフェルトでの訓練終了後、1914年10月21日前線に送られた。2日間の鉄道旅行ののちリルに到着し、第1次イープルの戦いに参加した。この時リスト連隊はルプレヒトヒ王太子が司令官の第6軍、バイエルン予備第6師団(ヒトラーの所属はバイエルン予備第6師団、第12歩兵旅団、予備第16歩兵連隊、第1大隊、第1中隊となる。)に属していた。ヒトラーは最も激戦のゲルベールの戦いとウィシャッテリッジの戦いに参加した。この時のことをヒトラーは下宿の大家、ポップ親方に手紙を書いた。

「1914年12月3日、4日間の激戦ののち、わが連隊はほとんど全ての将校を失うほど勇敢に戦った。わが連隊3500名の兵士のうち残ったのは611名だけだった。それでも我々はイギリス軍を撃破した。」

この描写はリスト連隊の公式記録と異なっている。激戦ではあったが、戦死者は12月まで400名を越えなかった。ドイツ軍の記録ではこの第1次イープルの戦いでも三分の一以上の被害を受けた連隊はほとんどない。英仏軍と比較すればドイツ軍は戦巧者だった。ヒトラーの描写はたぶん前線兵士にありがちな事実の誇張だろう。ヒトラーは連隊本部付きの伝令兵だったが、この時8名のうち3人が戦死、1人が重傷を負った。ヒトラーの与えられた伝令兵という任務は相当に危険なものだった。ただ将校は三分の一が失われており、この時分、ドイツ軍は将校が先頭にたち密集して突撃する方法を用いていたことがわかる。

この戦いでヒトラーは功2級鉄十字勲章を授与された。そして終戦までに功1級鉄十字勲章を始めとして、5個の勲章を授章することになる。また11月に伍長補(Gefreiter)に昇進した。奇妙なことにこのあと5年半伍長補のまま据え置かれた。

大戦中における士官と下士官の欠乏を考えると、これは興味を引く事実である。すでにドイツのマスコミはヒトラーが権力につく1932年以前からこのことの調査を行っている。しかしはっきりとした結論はないようだ。事実として明らかなのは士官どころか下士官への登用申請すら上官から出ていないこと、および本人からの予備試験受験申請がなかったことである。

なぜヒトラーは伍長補で止められたか?

ニュルンベルグ裁判で連隊付き士官フリッツ・ビーデマンは「下士官として必要な指導者としての素質がなかった。」と証言した。また別の場所で、ビーデマンはヒトラーが昇進する気がなかった、とも言っている。おそらくヒトラーは自ら昇進する意思がないことを上官に明らかにしていたのではないか。

フリッツ・ビーデマン(Fritz Wiedemann)は、1928年ヒトラーに接近し、その副官(個人秘書)となった。一時は相当の権勢を振るい、ドイツ労働銀行から多額の借財を得ていたとも言うが、はっきりしない。

1930年代はヒトラーの面会者を選別する権力があったようだ。当時のヒトラーの個人生活を知るうえで貴重な証言を残した。首相就任後、各省からの決裁書類を全廃したなどは、それである。

1938年、アメリカとの協調を主張し対立、サンフランシスコ総領事に左遷された。本人にとり好運なことだったのかもしれない。

これは戦場での勇気とあわせて考えれば矛盾する態度のようだが、当時このように兵卒のまま前線勤務を希望する人間は結構いたようである。それだけドイツ軍は古参兵を大切にする気風があったのではないか。このあたりは旧軍と共通するところがある。

またヒトラーの任務、伝令兵の勤務体系は3日毎の交代勤務で、少なくとも3日連続での読書や思索の時間があった。ヒトラーはショウペンハウエルの5巻本を戦時中持ち運んだと後になっても主張したが不可能なことではない。

1915年リスト連隊はヌフシャペラの戦いに参加したが、またもイギリス軍相手だがそれ以外激戦はなかった。しかし西部戦線では連日砲撃とその応射があり、年中犠牲者が絶えることはなかった。

1916年リスト連隊は後半期のソンムの戦いに参加した。ヒトラーはバポームで足に軽傷を負い、10月7日後方に送還された。この時ヒトラーは「そんなに悪い事でもない。中尉殿、あなたとも一緒だしこれで連隊にも残れるでしょう。」と言ったという。これもビーデマンの記述だが、ヒトラーの強烈な連隊への帰属意識が覗える。

ベルリン近郊のベーリッツの病院で過ごした後、再び、ミュンヘンで編成されていたリスト連隊予備大隊に戻った。1917年3月5日、前線勤務に復帰した。

ソンム戦の直前フランスのフォルネで撮影された集合写真。

下、左はしがヒトラー。上左はしが友人のシュミット。この写真と同一の場所で撮影された写真も残っており非番の兵士の溜まり場だったのだろう。

ソンム初日のイギリス軍兵士

下、右から二人目はつば付きの軍帽をかぶり長靴をはいており、将校とみられる。その間にいる犬はヒトラーの愛犬フォクスル。この写真が撮られたときは、西部戦線は比較的穏やかだった。それでも髪や髭は各人ともしっかりしており、また服装にも乱れがない。ドイツ軍の兵站が安定していたことを示す。

ソンムの戦いまでは比較的平穏な時だったがヒトラーはどのような兵士だったのか。まわりからは奇妙なヤツと思われていたようだ。リスト連隊の同僚のハンス・メンデ(*)は「いつも溜まり場にいるときは両手で頭を抱え考え込んでいる様子だった。そして突然立ち上がり『いくら重砲でまさっていても、この戦争には勝てない。ドイツ国民の見えざる内部の敵は、連合国の最大の砲にまさる。』と叫び出す。誰もこのものうげなやり方を邪魔しようとはしなかった。」と証言した。ただこのような批判的な見方を残したのはメンデ以下数人だけで、残りの戦友は後年ヒトラー運動に積極的に参加しておりヒトラーについて好意的な発言しか残していない。

(*注)ハンス・メンデはローテンブルグ・オプ・デア・タウバー出身の中農の息子で、戦時中伝令騎兵として名をあげた。メンデ文書という記録を残した。この中でメンデはヒトラーの功1級鉄十字受勲が不正になされたものだと指摘している。

ところがこの指摘は、現在の調査では当たっていない。

メンデはこの文書の保管を友人のシュミット・ネル教授に依頼した。ところがネル教授によると、メンデとミュンヘンを歩行中、突然ゲシュタポに捕縛され以降メンデは行方不明となった。第3帝国の記録によると、メンデは収監されていたが1938年12月24日釈放された。この後メンデの行方は絶えた。消されたかについても確証がない。

…この注は全てウエルナー・マーザーによる。ただこの見解に反する意見もある。その説によると1940年頃再度収監され、直後収容所で死亡したとされる。

またバルタザール・ブランドマイヤーはヒトラーの伝令兵仲間で、戦後「1914−1918の伝令兵ヒトラー」:1933という著作を残した。ただ引用以外原本が確認されていない。ブランドマイヤーも喋りすぎということで1939年首相府から警告をうけている。またコルビニアン・ルッツという人物も1930年代前半ヒトラーについて語っているが、以降の消息は明らかでない。

要するにリスト連隊でヒトラーを識るもののなかで士官を除いてナチス(NSDAP)に参加しなかったのはこの3人だけだ。ただメンデとルッツは伝令兵仲間でやや勤務熱心でないグループを作っていたらしく割り引いて考える必要はある。またゲオルグ・シュネルという人物が1952年頃ヒトラーの受勲手続きを問題とする証言をしているがウエルナー・マーザーによれば、事実相違があるという。

いずれにしてもヒトラーの権力獲得前のワイマール共和国には完全な言論の自由がありまたドイツ人の性格からして疑問を残したままつきつめることをしないことはないだろう。ヒトラー自身も毎月のように根拠のない誹謗中傷を原因として裁判を起こしている。ヒトラーが兵士として勇敢でなかった証拠は見出せない。

ヒトラーの思想形成には諸説あるが、この見えざる敵は社会主義者やユダヤ人を指すようにみえる。だがこの大戦期間中およびそれ以前にユダヤ人について触れた記述は全く残されていない。

閑なときはスケッチブック片手に、水彩画を描いていたようだ。野戦包帯所、宿舎、廃墟と化した修道院、地下壕などの作品が残されている。以前からの細部にこだわる写実的な作風は影をひそめ、大胆な色使いがみられむしろ精神的には闊達さが覗える。

戦後だいぶ経ってから、ヒトラーは戦争によって形成された偉大な経験とは「個人の自我が集団の利害に従属することを知りまた国民の英雄的な闘争が圧倒的な形で示された。」ことだと述べている。ヒトラーは周囲から孤立はしていたが、同志愛には共感したようだ。

1917年夏ヒトラーは再びイギリス人相手の戦い、第3次イープル戦に参加した。

その後リスト連隊は秋、アルサスのホッフシュタットに移動し、エーヌ川方面リッツィで越冬した。そして1918年3月カイザー戦ではルプレヒト軍に属し、第1次攻勢では強襲部隊ではないが直協部隊として参加した。

そして1918年8月功1級鉄十字勲章を授与された。後になってヒトラーは一人で12人のイギリス兵を捕虜にしたとほのめかしたらしいが、連隊の記録にはない。10人以上の捕虜を得たことは記されているので、根拠のない自慢話だろう。この勲章は勤務精励にたいする上官からのプレゼントではないのか。

10月14日にイープル付近コミネでマスタードガスと推定されるガス攻撃により、パゼバルクの衛戍病院に収容された。

ヒトラーは兵士のとき何を考えていたのだろうか。ビーデマンや同僚の記述は第2次大戦後ニュールンベルグ裁判に付せられたもので、連合国の歓心を買おうとした可能性がある。同時代のものとしては1915年頃の連隊長エンゲルハルト中佐のものがある。それによると勇敢で上官に素直な性格だったという。またヒトラーもエンゲルハルトを誉めた手紙を残している。

ただこの連隊長というのは3000人以上の兵士の長だ。兵士は中隊長以上知らないのが一般的だ。職務が伝令兵だから当然よく知られる立場にはあったろうが、記憶にのこるというのは相当に平均以上なのだろう。そしてヒトラーは大戦期間中、銃後にたいする批判は行ったが、ユダヤ人や社会主義者を名指しでとりあげたように見えない。

要するに政治的関心が強い人物とはされたが、政治的にマークされる人物ではなかったことは間違いない。そして勇敢な兵士だが上官の命令を絶対とする、上官のペット的存在だった可能性が強い。

ではこのような兵士がなぜ政治家となる決心をしたのだろうか。ヒトラー自身はポンメルンのパゼバルクの衛戍病院を退院した時1918年11月13日だとしている。有名な『私は政治家になる決心をした』というのがそれである。ドイツ軍の記録ではミュンヘンに帰り11月21日バイエルン第2歩兵連隊予備第7大隊に属した。『わが闘争』では1月にオーストリア国境に近いトラウエンシュタインの捕虜収容所に行きそしてミュンヘンには1918年3月に帰ったという。しかし最近の研究では1月にはミュンヘンに戻ったようである。このミュンヘンに帰った時期を遅らせたのは何か意図があるのだろうか。

ヒトラーは第1次大戦中詩を残した。この詩は愛国的なものが大部分だが、フランス兵へ同じ兵士としての共感をしめすなど人間性に欠けるわけではない。イェーケルとクーンは共著で1980年に、1905年から1925年まで全部のヒトラーの文章と演説を集めて出版した。

ところが1918年12月と1919年1月に書かれた詩には、ナチス党からの付属書類がついており真偽が疑われ削除された。それについてイェーケルとクーンは丁重な断り書きを記した。これは何を物語るのだろうか。ヒトラーは1919年1月に至っても、ドイツの敗戦で格段のショックは受けずいままで通りの詩を書いていたのではないか。このため権力を握ったとき自分のシナリオと会わず、何らかの改竄を図ったのではないか。

残念なことにこの詩を受け取った人々とその子孫はいまだに匿名を希望しており、真偽を確かめる方法はまだない。

このあとヒトラーはミュンヘン革命に遭遇した。この時の行動も謎である。暗殺された独立社会民主党アイスナーの葬儀に赤い腕章をして2月26日会葬者として参加したことがあるようだ。ただしこの葬儀は極端に豪儀なものでこの時ミュンヘンにいた軍人・兵士はほとんど参加したとみられる。その他レーテ選挙で大隊代表代理となった以外行動の軌跡は残されていない。

仮説が許されるとするなら、ヒトラーは第1次大戦でのドイツの敗北にショックを受けたのではなく、ミュンヘン革命の失敗にショックを受けたのではないか。すなわちヒトラーは左翼からの転向者なのではないか。

ミュンヘン革命

ヒトラーを保守主義者としてみた場合、社会にたいしあくまで能動的に働きかけるという意思が強すぎるようにみえる。この意思は反動的・保守的なものではなく革命を行おうとするものではないだろうか。一般に転向者は思想を全面的に変えるのではなく、一部を改変し折衷する。

そしてテーブルトークの中で示されるように、ブルジョワに対する極端な反感がヒトラーの心のなかにある。もちろんヒトラーがしばしばブルジョワと親しくし、また企業の国有化に反対したことは知られている。だがそれは献金とか一時しのぎの策ではなかったか。ヒトラーの社会主義への賛意は、ミュンヘン革命で形成された以外契機がない。

ヒトラーの経済学

またこの時までのヒトラーの確信は反ハプスブルグ、従って反帝国=反国際主義だった。ところがミュンヘン革命の大立者アイスナーはこの逆、バイエルンの分離場合によれば旧オーストリアとのカトリック合併を掲げていた。これはヒトラーにとり許し難いものだったろう。旧オーストリアはもちろんバイエルンも大ドイツに属すべきだというのがヒトラーの根本思想だった。この時期は統一主義、分離主義、社会主義、共産主義、無政府主義の間を揺れ動いた時期だったのではないか。

ミュンヘン革命は他のヨーロッパの革命と異なり、左翼指導者が反対者に武力を行使する、または投獄・殺害することがあまりなかった。終始お祭り気分で進められた。弾圧にまわったグレーナー参謀本部はもちろんそうではない。これが革命ゴッコなのかどうかはわからない。だが左翼指導者が他国とりわけボルシェビキやベルリンのスパルタキストとあまり連絡がなかったことは事実のようだ。また初期ナチス指導者に同様な経験をしたものは多かったのではないか。ヒトラーは権力掌握後この時の指導者を見逃さず弾圧した。



Jaeckel,E und Kuhn, A., Hitler: Samtliche Aufzeichnungen 1905-1924 ,Munchen, 1980

なぜヒトラーは伍長補で止められたのか?

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