騎兵の終焉

 ナポレオンの三兵戦術−歩兵・砲兵・騎兵を一体として活用する−以来騎兵の活躍は勝敗の帰趨を決めるものとして、日本では長篠の合戦以降、戦術の中軸から後退したにも拘わらずヨーロッパのどこの軍でも尊重された。

遊底をもつボルト−アクション・ライフルが歩兵のもつ武器となり、さらに機関銃が配備されると騎兵は移動体として強力な武器であった槍が当然無力となり、戦場では無価値となった。
発射速度の向上と射程距離の拡大が決定的であり、騎兵が目標に到着する前に弾幕射撃でなぎたおされてしまう。

マスケット銃と騎兵

日露戦争で既に騎兵は無力であった。
イギリスの観戦武官イアン・ハミルトン(ガリポリ作戦での英陸軍司令官)は本国に次のような報告を送っている。
「騎兵隊が、防御陣地にこもった機関銃に直面したときできることは歩兵のために米を炊くことだけだった。」 

これを見た陸軍省の幹部の見解はハミルトンも東洋に長くいすぎて頭がおかしくなったのではないか、というものだった。

またドイツの観戦武官マックス・ホフマン(タンネンベルク包囲殲滅戦のドイツ第8軍の作戦参謀)もハミルトンと同様の機関銃の威力について語っている。
これに対し小モルトケは戦争でそんなやり方はなかった、と述べたと伝えられる。

各国とも士官学校では騎兵が独立した兵科として取り扱われていたし、当然のこととして騎兵人脈も存在した。なかでもイギリス、ロシアとフランスが最後まで騎兵に固執した。ソンムの戦いでイギリス騎兵が突破を期して待機している写真が今にものこっている。

その後、馬上の歩兵という位置付けがなされ、敵前まで馬で疾駆し、降りて歩兵となって戦うという方法が大戦末期とられた。これは東部戦線では有効であるが、西部戦線では戦場がすでに荒廃していて、泥濘と砲弾孔に足をとられ、無効だった。また騎銃は射程距離が短く、そのままでは歩く歩兵に不利だった。また糧秣の運搬が負担となった。とにかく兵站で最大の量を占めたのは糧秣(フォレージ)だった。

ドイツはいち早く騎兵に見切りをつけ、斥候とスクリーンの役以外させていない。スクリーンは威力偵察のようなもので、敵の斥侯を撃退し内部の隠蔽と自軍のプレゼンスを計るものでそれなりに成功させている。

ヒトラーの1939・9からのポーランド侵攻にたいし、集結したポーランド陸軍騎兵旅団。

第二次大戦のポーランド騎兵装備は第1次大戦とほとんど変わらずアドリアンヘルメットと1890式カービン銃とフランスの胸甲騎兵に似たユニフォームを着ている。ただし第1次大戦のフランス騎兵の多くは馬の首に弾帯をまきつけているがそれはない。

第1次大戦以降、さすがに騎兵は独立した兵科とはみなされなくなった。(直後のフランスを除く)。しかし第2次大戦の初期、1939年9月ポーランド陸軍の槍騎兵がドイツ機甲師団に騎乗のまま攻撃したとされるが、史実だろうか。写真で見る範囲では指揮官しか槍をもたず、おそらく指揮棒のかわりだったのではないか。これも第2次大戦中のドイツのポーランド軍にたいする宣伝だろう。もちろん馬上の歩兵という考えをポーランド軍はとっていた。


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