エムデン

ミュッケ少尉の8月1日から11月9日までの記録

本文は膨大なものでごく一部の抄訳である。当初版がフランス語に訳されその後英訳された。本文は斜字。

8月1日(日本時間8月2日)黄海を航行中、ミュラー艦長が電報を手に持ち、船尾に現れた。600の目が艦長が何を喋るか待ちうけていた。青島から次のように無電が入った、と艦長は切り出した。
「皇帝陛下は8月1日陸海軍の動員を命令した。ロシア軍のドイツ領への侵入の結果、帝国はロシアとフランス両国と交戦状態に入った。―略― 通商破壊戦は我々にとり重要な任務である。知る限りにおいては、ロシアとフランスの軍艦はウラジオストック近辺に集結している。それゆえ我々はその軍艦と接触する可能性がある。」「その場合私は全面的に諸君に期待することになる。」「皇帝陛下に万歳三唱」

黄海に叫び声がこだますると、そうか戦争になったか、と納得した。

対馬海峡に15ノットで進み、夕闇が落ちるとともに夜間哨戒員が配置された。―略― 左舷哨戒の任務から午前4時解放され大尉と交代した。夜が白白と明け、自室に戻り仮眠をとろうとした瞬間警戒ベルがけたたましく鳴り、ベッドから飛び起きた。「戦闘準備」の指令が各室をとびかった。全員が即座に戦闘配置についた。一体開戦初日にしてフランス人かロシア人に遭遇するのは一体幸運なのだろうか。報告によると彼らはウラジオストック近辺にいるはずだが。

灰色の朝靄のなかから巨大な船体が我々の直前にいた。電灯を消さずまるで戦場にいる歩兵のようにみえた。全速で追跡に移ったが、その船は直前になるまで我々に気づかなかった。接近するにつれて黒い煙が突然煙突からあがり、エンジンを全速までかけたのがわかった。追跡をうけた船は約15海里離れた日本領内に方向を転じた。煙はすぐに厚く水面にたちこめ、我々を完全に包み込んでしまった。マストの頂点しか見えなくなり、船の識別は難しくなった。だが船の行動は明らかに中立船舶ではないことを示していた。

だんだん明るくなった。前部マストに「直ちに停止せよ」の信号が掲げられた。しばらくの間信号に従わず前進を続けたので、空砲を発射した。それでも従わず数発実弾を発射した。最早、日本の領海に突入することは不可能だった。弾丸が付近に命中すると船は停止し突然マストにロシア国旗を掲げた。こうして開戦第1日にして戦果を獲得することになった。もちろんドイツにとり第1号だろう。船はロシアの自用船リエサンだった。平時においてはシャンハイ―ウラジオストック間の定期船として使用され、戦時には武装され仮装巡洋艦となる予定だった。船は新造で、膠州湾のドイツの造船所で建造された。

ロシアの船長は船が拿捕されたことに激しく抗議した。船は平和的な商船で、それを拿捕することは不当であると。彼の戦時国際法の理解は十分とはいえない。またなぜ逃亡を図ったかは無言で答えなかった。船長には青島で処置が決定されることが知らされた。
―略―

無事に青島に到着した。−略―
艦長は青島で太平洋艦隊司令長官シュペー提督から命令を受け取った。重巡シャルンホルスト、グナイゼナウ、軽巡ニュールンベルグからなる艦隊は一旦北方に向かった後南洋群島を目指すことになった。エムデンは南洋群島の予め指定された場所で太平洋艦隊とおちあうよう指示された。―略―

晴天の日エムデンは構内をゆっくり進みながら出港した。艦内のバンドが「ラインの護り」(注)を演奏するのを聴きながら。エムデンは注意深く機雷原を通り外洋に出た。―略―

(注)ドイツ兵は、興奮するとこの軍歌を唄う。曲について問い合わせがあるのでそれについて答えると三番まであって結構長いものです。また実際の曲としては映画「カサブランカ」でドイツ軍将校がリッツの店で、フランス国歌「ラマルセエーズ」にかき消されるまで歌っているのがこの曲です。通常は映画にある通り片腕を振って唄うようです。

9月11日早朝、エムデンは第二の獲物に遭遇した。朝日が昇るのとともに進行方向前方に巨大な船舶を発見した。その船は我々の艦をイギリスの軍艦と思ったのかまだ相当距離があるにも拘わらず大きなイギリス国旗をマストに掲げた。我々がドイツの国旗を掲げ、停船し接舷するために平行して進むよう指示されたとき船長はどんな表情をしたのだろうか。この商船はカルカッタを出発し、コロンボ―フランス間の定期航路に就航する予定だった。そして完全に定期修理を終えていた。とりわけその船がイギリス人の清潔好きを失っていないのに感動した。もちろん我々の文化にも寄与すると思うが、我々乗員では1年かかっても使い切れない石鹸を積んでいた。また競争馬もあったが、死の苦しみを軽減するため、射殺のうえ水葬に付するしかなかった。また組み込みとなった数字を打たれた馬の保管所や砲の格納所はあまり感心するわけには行かなかった。数時間後には鮫がいずれにしても食欲を満たすだろう。

捕獲した船の乗員は、ラッキーバッグに移された。ラッキーバッグとは捕獲した船で空となったものだ。それゆえ価値はない。また中立国の貨物が積まれることもあった。中立国の貨物は沈めずに無事に届けなければいけない。さもなくば終戦時に賠償せねばならない。ラッキーバッグは捕獲した船舶の乗員で一杯になるまで常にエムデンに随伴した。一杯となった後は、離され近くの港に送られた。

9月22日エムデンはインドのマドラスを艦砲射撃、ビルマ石油会社の貯蔵タンクに命中させた。5万トンの石油が炎上した。
10月4日エムデンはディエゴガルシア島に到着した。そこの英国人は戦争が開始されたことを知らず、石炭を補給した。

10月28日マラヤのペナンを急襲、港湾内に突入しロシア軽巡ゼムチュークを撃沈した。更にフランス駆逐艦ムスケをも撃沈した。

船乗りは船が沈むのを見るときいつも奇妙な感情にかられる。我々ももう何度となく沈むのを見たがそのたびごと嫌な気分になった。船の破壊は次のような手順で行われる。機関室に行って、本バルブの覆いを取り除く。バルブを開くとすぐ人間の身長の2倍ほどの水が機関室にあふれる。隣接のボイラー室の防水扉を開ける。すると船の二つの大きな部分が水に占められる。場合によれば別の部分を浸水させることもあるが、それは爆発物を設置するか深夜砲撃によって実行した。そしてエムデンは別の獲物をみつけに出発する。

1914年11月9日、ココス島に到着した。そこで石炭船に邂逅するとともに、無線所を襲撃する計画だった。エムデンは四本煙突に偽装していたが、無線所の電信員はそれを見抜き、オーストラリア艦に連絡した。たまたま日本=オーストリラリア艦隊は55マイルしか離れていなかった。エムデンは無線所襲撃の上陸部隊を派遣し、石炭船を待っているところにオーストラリアの軽巡シドニーが殺到した。

始めエムデンは石炭船と誤認したが、すぐ敵と理解し砲撃に移った。しかしシドニーはエムデンより大口径砲をもちかつ優速だった。アウトレインジでの射撃でエムデンは圧倒され、さんご礁に擱座、活躍を終えた。戦死者は134名という。それにしてもシュペー艦隊といいなぜ無線所を執拗にねらうのだろうか。

無線所は海底電線の中継基地にすぎないし、長期間制圧しなければ破壊しても意味がない。技術的に可能か別にして、電線のみ切断することも考えられる気がするのだが。

  エムデン

  擱座後のエムデン

エムデンはこの間に21隻の商船と2隻の軍艦を撃沈するか拿捕し、インド洋のおける海運を一時マヒさせた。また拿捕撃沈した民間船の乗員を付近の港に送り返しており、タイムズ紙は「もしドイツ兵がミュラー艦長のように戦えば、かくのごとく憎まれることはなかっただろう。」と賞賛した。

ところがこの手記の語り手ミュッケ少尉はこのエムデン擱座のとき陸上の無線所破壊を命ぜられたため、艦に不在だった。このため島に残され、その後脱出を計った。

ミュッケ少尉のその後の冒険

この時連合国の対策はどうだったか。イギリスは戦前すでに太平洋艦隊から有力な巡洋艦を引抜き実際上有効な艦隊を保有していなかった。自治領のオーストラリア・カナダということになるが、戦力は巡洋戦艦オーストラリア(12インチ8門)1隻と軽巡3隻(シドニー・メルボルン・ブリスベーン)にすぎなかった。この艦隊でインド洋から太平洋を護衛するのは不可能だった。しかもドイツ東洋艦隊はエムデンを除き優速で、シュペー直率5隻の艦にたいし単艦で対抗できるのもオーストラリアだけだった。

そしてこの艦隊に対抗するには同型巡洋戦艦2隻が必要だが、それは日本の金剛・霧島(14インチ8門)に限られていた。そしてオーストラリアは第2次大戦のときと同様に本国艦隊を南太平洋に派遣せよと叫んだ。シュペー艦隊にたいしイギリスはコロネル沖海戦の敗北のあとすぐさま本国から巡洋戦艦2隻を派遣しフォークランド諸島海戦で勝利した。

しかしこの措置に伴って、ドイツ巡洋戦艦部隊は急遽出動、イギリス本土スカボローはドイツ外洋艦隊の艦砲射撃を浴びた。

この拮抗状態では永続的な巡洋戦艦の派遣は困難だ。ドイツの隆盛とともに大英帝国が三つの大洋を支配するというのはやはり不可能なのだろう。また日本の建艦政策、巡洋戦艦優先というのは当っていたのかもしれない。

戦後オーストラリアの海軍関係者が、日本海軍がイギリス海軍の指揮下にはいらないため統制に苦慮したと書いているが、漫画を通り越して苦笑せざるを得ない。オーストリア海軍というのはイギリス海軍の植民地軍にすぎずイギリス連合艦隊がオーストラリアの指揮下に入ってはならないだろう。シドニーが安全でもロンドンが危機にあったら意味がない。オーストラリア海軍はこの後太平洋の安全保障は自国周辺も含めてすべて日本海軍に委譲しスカパフローに移動した。そして1918年11月ドイツ外洋艦隊の降伏にたちあった。

またこのときエムデンを撃沈したシドニーは日本の戦艦伊吹(12インチ4門、18ノット)に率いられていた。ココス島の無線基地からの連絡はシドニーのみに伝達され、伊吹(艦長 加藤寛治)には連絡されなかったという。当時伊吹はANZAC軍団の兵員輸送船10隻をアデンまで護衛していた。このため護衛任務を優先したともいう。また伊吹の速度ではエムデンを取り逃がすと考えたのかもしれない。日本海軍の記録は黙して語らない。

エムデンを狂犬として描いた、日本の戦争宣伝絵画。犬の頭に載せたピッケルハオベが可愛いですが、なんともヘタな絵ですね。犬種はシェパードに見えます。

この後日本海軍のオーストラリア周辺の護衛任務は、南太平洋に出没するドイツの仮装巡洋艦ウルフの捜索に向けられた。しかし第1次大戦終了まで続いたこの任務はついに戦果をあげられなかっただけでなく、海軍軍人に深い傷を負わせたという。当時軽巡明石に乗り組んだ木惣吉(太平洋戦争について種々の本を残した。)は「長い植民地政策に麻痺した英海軍の神経はわが艦隊の少壮乗組員の感情をひどく傷つけた。」と記した。

この記述は太平洋戦後書かれたものだ。軍人が感情を傷つけられて戦意を喪失したり高揚させることはないと思うので割り引かねばならないが、反英意識に向かったと言う。明石の哨戒区域はインド洋から南太平洋に及び、大部分はオーストラリア海軍が通信の中枢を担っていた。豪州人が白豪主義を振りかざし日本人に無意味な嫌がらせをしたことは想像にかたくない。英海軍の責任も当然あるが、マルタ島に眠る地中海護衛作戦での海軍戦死者73名の墓地がいまだに整備され保存されているのを見ると好意を疑うことはできない。



Evans., A., The Royal Australian Navy, Sydney,1988
Franz Joseph, Prince of Hohenzollern, Emden, My Experiences in SMS Emden, London, 1928
Hoyt, E.P., The Last Cruise of the Emden, London, 1967
フレッド・マックレメント『軍艦エムデン死闘の記録』(訳)南波辰夫、朝日新聞社、1972

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