戦艦ドレッドノート

戦艦ドレッドノートは海軍軍令部総長フィシャーにより発案された。1905年10月から1906年12月までかけポーツマス海軍工廠で建造された。これは当時普通戦艦の建造には3年以上かかったのに比べ超短期間だった。排水量トンは17500トンである。
プリドレッドノート

ドレッドノートはいかに建造されたか

ドレッドノート

ドレッドノートは12インチ(30.5センチ)砲10門をもち、旧式戦艦の定番12インチ4門を圧倒的に塗り替えた。補助砲として3インチ砲24門の他、魚雷発射管を5基そなえていた。喫水線以上の装甲は28センチでこれは当時のどの戦艦より厚かった。

主砲配置

ドレッドノートと薩摩

エンジンはパルソン社製蒸気タービンで、はじめて軍艦に設置された。出力は24700馬力で21ノットの速力を可能とした。全長は160.1メートルと従来の戦艦より40%程長い。乗組員は800人である。

ドレッドノートは1907年から1912年の間、本国艦隊の旗艦をつとめた。第一次大戦大戦の初めの二年間、北海の第4戦艦隊に所属した。この期間中、フォース河口でU29に体当たりさせ撃沈している。

1916年5月から、テムズ河口にあった第3戦艦隊の旗艦となった。1919年に退役した。1922年、ワシントン条約にもとづき、廃棄された。

1910年ドレッドノート号事件が起きた。これは作家のバージニア=ウルフも加わったが、若者の一団が変装し、アビシニア(エチオピア)王国海軍代表団になりすました事件だった。この一団は黒い墨を体中に塗り、ドレッドノート号にいた士官に表敬訪問を申し込み、まんまと昼食の接待にありついたというものだ。

バージニア=ウルフらは建艦競争の愚かさを示したかった、とこの行動を説明した。

1915年イギリスはクイーンエリザベスを就航させた。この艦は超ド級戦艦と呼ばれた。15インチ砲8門を搭載し、その弾丸の射程は30kmに達する。この姉妹艦としてウォースパイト、バーハム、ベイリアント、マラヤが建造された。いずれも第1次大戦を生き延び、第2次大戦まで活躍した。


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ドレッドノートと薩摩
1909年春の建艦競争