バーデンバーデンの密約

1921年10月27日、陸士16期の逸材といわれる3人の同期生が南ドイツのバーデンバーデンで集まった。欧州出張中の岡村寧次とスイス公使官付き武官永田鉄山、ロシア大使館付き武官小畑敏四郎が迎えた。そして翌日東條英機も加わった。

これが世上に名高いバーデンバーデンに密約と言われるものである。なぜ有名かは単純で極東(国際軍事)裁判で検察側がとりあげ、日本のその後の陸軍独裁の端緒になった事件としているためである。結果として派閥分析歴史学者が必ずとりあげるイベントとなった。陸軍で派閥がありそれで動いたのも事実だが多くは人事にからんだ官僚らしい抗争で、それで政策や作戦が決まったとは思えない。

しかも密約というのだから紙に書かれた資料は乏しく、岡村の日記で

  • 派閥の解消
  • 人事刷新
  • 軍制改革
  • 総動員体制

について密約す。とあるだけである。後日の行動から派閥解消というのは当時有力だった田中義一を中心とする長州閥をたたくという意味だ。小畑はのち皇道派のリーダーになるのだから、永田・東條らの統制派の結成宣言だとするのは無理がある。人事刷新は長州閥に絡んだこと、および陸士・陸軍大学の成績重視を主張したものだろう。

次の軍制改革は何を意味するのだろうか。小畑を除く3人は一応ドイツ語を専攻していたからルーデンドルフの総力戦論に感銘したのではないか、とされる。ルーデンドルフのこのときの総力戦論というのは、同年出版された『KRIEGSFURUNG UND POLITIK』のことで、参謀本部はあとで「統帥と政略」という訳を与えている。1939年にダイジェスト版の邦訳が出て国家総力戦とされた。しかし参謀本部では早くからこの言葉を与え邦訳していたと推定される。

しかし同年10月では未刊だろう。この事を論拠にこの話は全て岡村の創作ではないかとする説もある。

また永田を除いて、岡村・東條のドイツ語はスクールボーイ・ジャーマンらしく読破は無理ではないのか。ルーデンドルフの所説を半知半解で言葉だけに酔った可能性がある。またこの本の内容は政治にたいする統帥の優先を説くもので軍人には魅力があったろう。

それでも不思議なことに、この4人とも統帥または作戦(=軍事 ルーデンドルフの定義)ではなく政治にのめりこんでいった。たぶん人事への関心のもちすぎだろう。それとも軍人が政治をやれば、政治が作戦に転換してしまうのか。またルーデンドルフは戦時について優先を説いたにすぎず、平時については言久していない。(その意味でKRIEGSFURUNGは戦争統帥でドイツ語では戦時作戦をさす。日本語の統帥は平時も含むらしいのでそもそも訳を意図して違えている。)

当然、ルーデンドルフの総力戦論は総動員後(それをドイツ軍事学では戦時と認識、それ以外は植民地戦または警察活動)を論じている。それゆえ別名国家総動員で、日本のように軍隊は総動員ができるようになっておらずまた必要もないとすれば、国家予算のみ軍事に傾斜させることになる。要は官僚の縄張り争いにすぎない。またヒトラーはルーデンドルフの主張と違う方向をとり、総動員による徴兵軍よりプロフェッショナルな専門集団を中軸とする軍とした。

最後に岡村が総動員(体制)をあげるのは不思議である。総動員というのは敵に脅威をあたえるのが目的(そこで外交手段として止めるか、または攻勢に出るにしても)で相手より早いスピードで完了させるのが眼目だ。スピードを競うためには国境が陸続きでないとあまり意味がない。また仮想敵・作戦が必要で自国国境にただ並べても意味がない。分かりやすく言えば島国は敵がいきなり国境を越えることはないから必要ないのだ。攻勢に出るとしても、島から大陸に送るより、大陸の兵が大陸にいる島国の兵を襲う方が早い。総動員をかけているうちに大陸にいる島国の兵は全滅してしまう。

このため実際に昭和陸軍がやったように即応体制をしいた方がよい。関東軍と朝鮮軍は常時戦時体制にあった。関東軍は満州事変以前から1個師団半の即応体制だが植民地軍としては異例の巨大さである。イギリスのインドとフランスのアルジェリアを除けばどの国も植民地に巨大な軍は平時にいない。満州経営、満鉄と鉄鉱山がどの程度かわからないが、3万人の軍を常駐させられるほど収益があがるはずもない。要するに満州は人口が多すぎて治安維持にコストがかかりすぎるのだ。その後上海に3個師団派遣し真珠湾直前では27個師団になるのだから、大陸での紛争関与は恐ろしい。

ただし島国の防御の方は航空兵器の発達で従来型では無理になった。すなわち航空兵力だけの突進で、主力艦が全滅することが実証された。真珠湾である。だがこの4人とも政治的軍人(または軍人政治屋)でこのような発展を予期する力も経綸もなかったと思われる。

この3人とも特徴は幼年学校卒業の事実上第1期生のエリートという点である。日本の環境からは軍事はイギリスの方が参考になると思われるし、そのうえ戦勝国かつ同盟国である。だが幼年学校組みはドイツに傾斜して行く。幼年学校はドイツのまねだからだろうか。ドイツの幼年学校は没落ユンカーのためであるが、日本では派閥の温床になってしまう。ドイツのユンカーは非政治的で軍事にしか関心を示さない。ルーデンドルフの主張は平時まで幅をひろげて日本では受け入れられたが、政治ごとき演説や論説を必要とする程度の低いものに関心がないユンカーは政治家になろうとしない。また武人としてそれが誇りだった。そしてルーデンドルフはユンカーではない。

もちろんドイツの方がいびつであるが、この没落ユンカーになにか壮快さを感じる。最後にヒトラーの暗殺を計り失敗、階級として絶滅しまたソ連にもイギリスからも敵視され故地プロイセンは地図から抹殺された。だがドイツに軍事上の貢献を最もしたのもユンカーであり、ルーデンドルフグレーナー・シュライヒャーの成績組み(軍人政治屋)よりファルケンハインヒンデンブルグマッケンゼンのユンカー組みの方がドイツ人に今尚愛されているのではないか。またどうして成績組みはできもしないのに政治に首を突っ込むのか。

ただ残念なことに昭和の陸軍は前者に傾斜したようだ。そして統帥の政治にたいする優越を主張(作戦が外交など政治に影響されてはならない。)した後に軍人政治屋に転向してしまう。人事統帥との批判をあびたが、軍功に興味なく役所の肩書きや栄達だけに興味をもってそれで軍人だろうか。

軍人が政治家から作戦に容喙されるのは腹立たしいとしても戦争を国家間でやる以上外交から逃れられない。それで軍人が外交を自分でやったとして、せめて作戦はきちんと立てるべきではないか。また軍制もヨーロッパの大陸軍に憧れるのでなく自国の環境に合わせて考えるべきだろう。すると参考はドイツでなくイギリスとなる。陸軍が海軍と作戦をめぐっては論争にもならず惨敗するのは当然だろう。

また作戦立案力の低下は作戦要務令など軍令にしばられ、自由に討論できなかった結果との所説があるがとらなかった。理由は参謀本部(作戦課)はオールマイティで振舞っており、公開論争はともかく課内の議論は自由にできたと思われる。また軍令についての論争は砲兵重視か否かで大正年間続いたが、当時の情報が主として連合国サイドに立脚したためヘイグ流の火力万能主義とフランスのエイランにあてられ歩兵戦術については理解が浅かった。

その後歩兵・軽戦車共同による突破、広正面での散兵戦術・分隊突撃が紹介されるに及び自然消滅した。しかしこれもドイツ機甲師団が活躍すると意味が薄れる。また機甲師団が、ブルシロフ流の縦深陣地の築城・広正面での浸透戦術がソ連軍によって試され、阻止されるとドイツ軍は止めるものがない総撤退を余儀なくされる。

政治は戦争の開始を決めるから重要だが作戦が戦闘の勝敗を決めその後の歴史を決めて行くこともあるのだ。もちろんルーデンドルフの主張する総力戦の根拠『戦争に勝てば相手国を全て自由にできる』というのも誤りであろう。

しかしなぜ将来陸軍を背負うと目された4人が揃ってルーデンドルフに参ってしまったのか。しかも、この時ドイツは敗戦の混乱にありルーデンドルフは本の印税で暮らしていた。本自体も注目を集めず日本以外は訳されていない。



Asprey, Robert B., The German High Command at War : Hindenburg and Ludendorff Conduct World War T, New York, 1991

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