チャーチルはガリポリ作戦の責任を問われて1915年5月海相を辞任、その後与えられた無任所大臣(ランカスター公領国璽尚書)の職務にあきたらず、野に下った。5ヶ月間第9スコットランド人師団の大隊長をつとめたあと、再度政界に復帰した。大隊長の経験は、西部戦線の実態についての把握とともに近代戦の知識をあたえたようである。
その後、1916年後半から西部戦線での無意味な攻勢に批判的な論陣をはった。ドイツ軍の西部戦線における比較優位はその防御姿勢にあるという主張で、妥当なものだった。しかしガリポリの件もあって、タイムスを中心とする言論界のうけが悪くまた終生つきまとったが、保守党のバックベンチャー(陣笠議員)からの警戒と嫌悪で、復帰には時間がかかった。最後はロイドジョージの支持で、1917年7月軍需相として閣内に復帰した。
1918年2月戦線が安定したかに見えたため、タンクの生産方針をフランスおよび前線の司令官と打ち合わせのため、フランスにわたった。始めに訪れたイープルで妻のクレメンタインに2月23日次ぎのように手紙を書いた。
「ここでぼくの友人や知人が大勢倒れた。死は当たり前すぎて、誰の注意も引かない。この巨大な戦没者の墓地の埋葬された名誉の死者におきたことは、いつでも誰にでも当たり前のように起きるのだ。」3月5日、ロイドジョージに1919年の4月までの13ヶ月計画でタンクを4000台生産すべきだ、との経過報告をおくった。なかで「西部戦線の勝利はドイツより優れた陸軍を英仏がもつことによってのみ、得られる。そして1919年度中にそれが達成できないことは、ないはずだ。」と書いた。このとき、ロイドジョージとチャーチルは現状で、陸軍はドイツが英仏より劣っていることを認めているかのようだ。
3月19日、チャーチルはBEFの本営にヘイグをたずねた。チャーチルはタンクの4000台生産計画を説明し、機械力が大量の兵士に代わる可能性を示唆した。そして、ヘイグに交渉による和平の条件について意見を打診した。ヘイグは次ぎのように回答した。
「イギリスは要求を高く設定すべきでない。イギリスの影響力と強さは今が一番高いのではないか。平和が遅くなれば、世界的な事象でのイギリスの地位はアメリカにとってかわられると思う。」ヘイグは作戦面でも近代戦の認識でもドイツやフランスの将軍より優れていたとは思えない。しかし、世界を地理的にまた歴史的に見る能力は上回っていたことがわかる。ドイツの将軍は全員ヨーロッパから離れられない。だがアメリカの参戦で世界に直面することになる。
3月21日カイザー戦の始まった未明、チャーチルは古巣の第9スコットラド人師団の司令部のある地下壕でドイツ軍の猛砲撃とともに目をさました。踏みとどまって戦うことも考えたらしいが、思い直し10時半車で司令部を後にした。
その夜から、フランス軍の大本営で宿泊した。司令官ペタンとともにいた訳だが、この夜のことを、1940年6月11日再び同じ状況でペタンと会話する。このときドイツ軍は1918年に突破できなかったアミアンを機甲師団を先頭に占領、大西洋に達した。そしてダンケルクでイギリス軍を海に追い落としパリの目前に迫っていた。第2次世界大戦回顧録の会話の抜粋から。
「7時になり私達がはいるなり会議が始まった。非難も中傷もなかった。みな厳しい現実が分かっていた。会話は次のようだった。私(チャーチル)はパリの軍事的吸収能力を強調し、パリを極力防衛すべきだと強調した。侵入してくる軍にたいし市街戦で挑戦すべきと。ペタン元帥に1918年のイギリス第5軍の崩壊の夜、一緒に泊まったボーボワの鉄道車両を想い出させた。そしてフォシュについては触れずに、ペタン元帥がいかにその難しい局面を打開したのかを。またクレマンソーの『パリの前で、パリの中で、パリを後にしても戦い続ける』という言葉も元帥に想い出させた。ペタン元帥は静かにしかし誇りをもって、『あのときは60個師団の戦略予備があった。いまはゼロだ。そしてイギリス軍はフランスに60個師団展開していた。パリを破壊することが、最終的結果に影響するとは思えない。』と答えた」
ペタンはカイザー戦と最終攻勢でフォシュと並び連合国に最大の貢献をしたことは疑いない。第1次大戦を最終的に勝利に導いた、攻勢防御−攻勢移転の作戦計画は明らかにペタンがベルダンで着想を得たものだろう。不敗のドイツ軍が攻勢で得た土地を防御できず失地回復戦であっさり退却したことは深い印象を与えたに違いない。実はチャーチルは触れてないがこの後、ペタンはウェイガンと協力して面防御という機甲師団にたいする防御法を編み出し、フランス軍は最後の大抵抗をみせた。
その時までフランス軍は三分の一に及ぶ損害を受け、戦いは絶望だった。ペタンはまたマジノ線の延引に反対し、セダン突破の原因を作ったといわれるがこれも、正しいとは言えない。ドイツ機甲師団は正面からマジノ線を突破できた公算もある。もともとマジノ線に無理があった。しかし点防御と線防御でペタンは線防御を支持しマジノ線建設につながった。結果はどちらでも同じだったのかもしれない。ヒトラーのタンクと急降下爆撃機の用兵法が優れていたのだろう。
第2次大戦のこの時イギリス軍は10個師団をダンケルクから撤退させ、1個師団半しか残留していなかった。第2次大戦のときの方が双方とも兵力配備が薄かったことがわかる。戦間期英独は人口が15%増えていた。しかしフランスは横ばいだった。そしてドイツの徴兵対象年齢の人口は英仏合計を上回っていた。
4月9日、チャーチルは戦局の悪化をうけて、秘密報告を閣議に提出した。「ロシアの戦線への復帰を図るための方法を提案;ちょうどパリにいる、セオドア・ルーズベルトを連合国の特使としてモスクワに派遣し、東部戦線の再開のための方策を討論する。
我々が革命の結果を承認し、ドイツの理不尽な圧力を脱することができれば、再度戦うことがあるはずだ。レーニンとトロツキーは首に縄を巻いて戦っている。今の地位を去ることは死を意味している。もし革命が達成されたと承認されるなら、反革命の報復からある程度保護が得られたことになる。これが分からないほど非人間的でもあるまい。」これと同時に政府のボルシェビキ承認の手はずの検討開始を提案した。また東部戦線再開のため、他の手段アメリカ、日本、ルーマニアの参入も検討せよとした。
この時点で、イギリス政界は戦局にかなり悲観的だったことが伺える。またアメリカの参戦があっても東部戦線の再開がなければドイツを屈服させることはできない、とチャーチルは考えた。この判断は第2次大戦では的中したが、この時は間違えていた。