コーカサス戦線


ロシアは1914年10月31日に、先週黒海沿岸が旧ドイツ海軍艦艇ゲーベン・ブレスラウに艦砲射撃をうけたため、トルコに宣戦を布告した。しかし実際にはコーカサスで両軍はすでに戦闘開始を前提に展開を終わっていた。ロシアはコーカサス軍管区の軍団を大部分ガリシアに送っていたため、兵力的にトルコがまさっていた。

この戦線で重要なのは両国をコーカサス山脈が隔てており、ロシア・トルコを通過しうるのはエルゼルム−カルス線1本しかないことである。戦闘はすべてこの道に沿ったかまたは迂回作戦ということになる。

また黒海を押し渡り敵地に上陸も考えられるが、黒海に面するバツーミ(ロシア領)とトレビゾンド(トルコ領)の2都市とも急峻な岩山を背景とする港湾都市で上陸に成功してもそこで立ち枯れてしまう公算が強かった。

コーカサスにあるトルコ軍(第3軍)を指揮したのはエンベルパシャで、青年トルコ党の領袖であるとともに新生トルコの進行方向はカスピ海からトルキスタンにありとの夢をもっていた。その第一関門がコーカサス山脈だった。

イスタンブールでのトルコ軍の動員。

トルコ軍はここに第9軍団、第10軍団と第11軍団を集め、一方ロシア・コーカサス軍(ウォンツォフ・ダシュコフ−後半:ニコライ・ユデニッシ)はコーカサス第1軍団とタジキスタン第2軍団のみと劣勢だった。更にトルコの1個軍団は3個師団編制だがロシアは西ヨーロッパ諸国と同じく2個師団編制で数としてはトルコの半分とみられる。

始めはロシアがこの道をエルゼルムに進み、トルコに阻止された。これはトルコの攻勢を誘う高等戦術だと言う説とアルメニア人にたいするポーズだという説(旧軍参謀本部はこの説をとる。)に分かれる。ともかく標高2000メートルを越える山岳地帯でかつ谷もV字状で地形をとれば攻勢に出た方が必敗だった。

ここでエンベルは第10軍団全力での山中迂回作戦を計画した。トルコ軍の騎兵部隊はクルド第1騎兵軍団で、相当数ロシア軍に気脈を通じていた。このためロシア軍はエンベルの作戦を察知していたが。道正面の防戦に力を注ぎ迂回軍は放置した。

MAP

第10軍団は標高2700メートルの峠を越え、サリカミッシ北方に出ようとしたが、これは冬山登山に他ならず、サリカミッシ(道のロシア側)に着いたときには全員凍傷でロシア軍の治療とする状態で、そのまま捕虜または保護された。
エンベルに軍を指揮させてはいけないというのがドイツ観戦武官の評だが当然だろう。1個軍団が全滅し、数量で等しくなると戦闘は低調になった。だが辻政信(大本営陸軍部作戦班長)が独断で強行した東ニューギニア打通作戦(ポートモレスビーに到達せんと標高5000メートルを越えるオーエンスタンレイ山稜を突破しようとし、失敗した。)を想起するとエンベルを笑えない。

このトルコ迂回軍の崩壊を見てエルゼルム−カルス道をロシア軍は速くないスピードで進んだがすぐトルコ軍の抵抗にあい頓挫した。

アルメニア人の虐殺

春となり両軍は狭い谷間の道沿いで対峙したが、開始されたのはアルメニア人への迫害だった。この戦場の両側、ロシア側もトルコ側もアルメニア人が古くから住む土地だった。ところがアルメニア人はキリスト教徒で、トルコのイスラム教と異なっていた。このためロシア軍に従軍するものも多く、トルコ軍はアルメニア人のロシア軍内通を疑った。しかし作戦の失敗は地形を無視したことにありまた最近の帝政ロシア軍の研究によれば情報はクルド人騎兵部隊から洩れていたようだ。

迫害は1915年4月8日から始まった。数万人のアルメニア人男子が捕縛され、前線の背後で無差別に射殺された。数十万人の女子・子供・老人は強制的に立ち退きを命じられ、山岳地帯を徒歩でシリアに追放された。前線近くのバン周辺だけでも5万人が虐殺された。中心都市のバンでは3万人の人口のうち1300人が銃をとりトルコ軍に抵抗した。

抵抗は1ヶ月続き最後にロシア軍の前進とともに救助された。ニコライU世は前線視察でバンを訪れ、奇跡のアルメニア人生存者に祝福を贈ることになる。

しかしアルメニア人の住む中心都市のエルゼルムでは無差別の捕縛と虐殺が続いた。アルメニア聖教会の首長カトリコス・ケボルクは直接中立国のアメリカに窮状を訴えたが、大統領ウィルソンは打つ手がなかった。

バクーに到着したアルメニア人難民、女・子供しかいない

1915年4月25日、ガリポリ半島に英仏軍が上陸を開始した。これは虐殺の規模をさらに拡大させることになった。アルメニア人の迫害は前線地帯に止まらず全オスマン帝国領内で繰り広げられた。5月24日、ロシア政府が発起人となり英仏両国と共同で正式にキリスト教徒への迫害を停止するように訴えた。

だがトルコ政府は連合国政府による革命運動の扇動がアルメニア人による反乱と結びついたもので、責任は連合国政府にあると回答するだけだった。迫害はキリスト教徒のうちネストリウス派やヤコブ教会派にも及び始めた。
7月にはいるとゴルリッツでの突破成功がロシア軍の士気に影響し、トルコ軍が反攻に出てロシア軍を旧国境まで押し返し始めた。そして黒海の沿海都市トレビゾンド(現トラブゾン)ではアルメニア人全員13000人が虐殺された。

アルメニア人の虐殺

エンベルは首都に戻り、代わりにアブドゥル・ケリムが司令官となった。7月16日ケリムはエルゼルム前面のマラツギルトでロシア軍を穿間突破し、8月上旬までにバンを奪回した。

1915年9月ニコライ大公がコーカサス軍の司令官として着任した。ニコライ・ユデニッシは野戦軍の司令官の資格でそのまま指揮をとった。ユデニッシは帝政ロシア軍のなかでは数少ない優秀な司令官だった。

ロシア軍の反攻

1916年1月ニコライ大公は海陸にわたる総反攻を命令した。黒海に巡洋戦艦インペラトリツァ・マリアが就航し、ゲーベン(元ドイツ巡洋戦艦)を圧倒し始めた。1916年1月18日、ケプルコイでトルコ軍を撃破し、エルゼルムを2月15日占領した。海では4月18日トレビゾンドに上陸占領した。

インペラトリツァ・マリアと同型艦のアレクサンドルV世。

ロシア艦には珍しい流線的な艦形美を誇る。12インチ12門で同時期に就航した日本の金剛14インチ8門より見劣りする。ただこれと同型艦を黒海に3隻1915年までに就航させた。また稼動率に問題があり、この艦は戦時中ほとんど活躍しなかった。

この危機に再度エンベルが前線に戻った。エンベルはトレビゾンドの奪回を計画し、新たに組成した第2軍を指揮し山岳地帯を突破陸路で向かい、陽動作戦としてケリムの第3軍をロシアコーカサス軍に攻勢に出ることを命令した。しかしこれは山岳地帯の走行距離を無視した暴挙だった。本道を直線的に進むユデニッシのロシア軍は早く、エンベルの第2軍が山中を行軍している間に第3軍を急襲、敗北させた。(7月25日エルチンジャンの戦い)

エンベルは軍を戻したが間に合わず、そのまま首都に戻り第2軍の指揮はムスタファー・ケマルに委譲した。ムスタファーは戦線の立て直しに成功しそのままユデニッシと対峙し、1916年のキャンペーンシーズンは終了した。

トルコ軍のロシア領への乱入

1917年2月から始まったロシア革命はコーカサス軍にもっとも厳しい打撃を与えた。元来大軍を支えるのは補給路からみて困難な地形であるに加え、革命により補給自体が断たれ始めた。ユデニッシは3月一杯かけ補給が確保されている、クリミア方面への撤退を命令した。
トルコ軍は4月にはいり旧国境を突破し、カルスを経て、アレクサンドロポル(現ギュムリュ)を5月15日占領した。この周辺はトルコ領内と同じくアルメニア人の土地で、トルコ軍の侵攻にたいし武器をとり抵抗を開始した。

軍はすぐに万を越える規模となったが、近代装備のトルコ軍に抗すべくもなく、5月26日カラキリッセの戦いで惨敗を喫した。5月28日この混乱のなかでアルメニア人は独立を宣言した。しかしできた政府の首班以下はティフリス(現トビリシ)南方でアゼルバイジャン在住のトルコ人に殲滅されてしまう。

トルコ軍の機関銃隊。1917年頃メソポタミア戦線。独特のヘルメットにマキシム重機関銃をかまえている。

トルコ軍はそのままカスピ海方面に進出した。そしてバクー、ティフリスからバツーミ以南を占領した。この間アルメニア人狩りをまたしても行い、40万人が殺されたという。そしてシリア方面に追放されたアルメニア人の大半は途中で行き倒れた。大戦中脱出できたアルメニア人で地中海沿岸の各都市はあふれたという。この状態では詳細把握が困難で何人虐殺されたかは諸説あるが、50万人から160万人と言われている。トルコ領内のアルメニア人の人口もアルメニア聖教会の250万人という発表からトルコ政府の110万人まであり把握困難だ。

それにしてもなぜエンベルは山岳地帯を平野と同じように行軍できると考えたのだろうか。
エンベルだけでなく青年トルコ党はなぜアルメニア人に厳しかったのだろうか。青年トルコ党3巨頭、エンベル・ジェマル・タラートは戦後トルコ政府から死刑を宣告された。タラートはベルリンに亡命したが、1921年3月アルメニア人に暗殺された。ワイマール共和国の裁判官はこの事件の犯人にタラートが本国で死刑宣告を受けていることを理由に無罪判決を言い渡している。

厳密に言えばイスラム、カトリック、プロテスタントに改宗したアルメニア人は迫害にあっていない。虐殺されたのはアルメニア聖教会派の人々だった。これから推定すれば宗教が関係していることは疑いない。推定しうるのはアルメニア人の居住する地区が大トルコ主義の進行方向に衝突するため、除去を狙ったことが考えられる。またアルメニア人が敵国のロシアに多数居住していたことも理由の一つだろう。

青年トルコ党はカフカスから北イラン、アフガニスタン、インドまで要員を派遣しており、構想として各地のイスラム教徒を独立させる計画を保有していた。その障害とみなされた可能性もある。

トルコは1918年3月ブレストリトウスク条約によりロシアにこの露土戦争での失地を放棄させた。そしてバクーに至る広大な地域を占領した。

それも長く続かずサロニカでの中央同盟諸国の戦況悪化を受け1918年10月トルコと連合国の間で休戦協定が結ばれた。連合国というより英仏は、パリにいるトルコ代表団に圧力をかけ1920年8月、セーブル条約に調印させた。

だがこの2年の空白に様々なことが起きた。英仏が進出できたのはエーゲ海と海峡だけだった。赤軍はロシア南部で白軍と死闘をくりひろげた。ドイツ軍の撤退はここでも完璧で、遠く黒海沿岸から約1年かけロシアを横断し、武装解除することなく自国へ粛々と復員した。そして青年トルコ党の首領達もドイツ軍とともにベルリンに向かった。そしてセーブル条約は決して履行されることがなかった。なぜだろうか。

セーブル条約とローザンヌ条約



Hagopian,A.P., Armenia and the War, London, !917
Toynbee,A.J., Armenian Atrocities: the Murder of a Nation, Lodon, 1915
Emin, Ahamed, Turkey in the World War, Yale, 1930

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