イギリスの対潜作戦
イギリスは大戦前、ドイツの潜水艦の性能諸元を把握していなかった。そしてドイツ海軍首脳部が自己の潜水艦の性能をよく理解していたようにもみえない。ドイツのUボート高性能の秘密はそのディーゼルエンジンにあった。このエンジンは潜水時間を5時間以上に伸ばした他、単独遠洋航海を可能にした。
当時は衛星もレーダーもないから水上艦艇ですら大洋のなかにいると発見は難しい。まして水中にいれば、発見の手段は潜望鏡をみつけるしかなかった。従ってこの段階で潜水艦はほぼ無敵だった。
Uボート内部ただし髭がよく剃られており実戦中ではない。
イギリスは1914年9月22日イギリス海峡で、U−9(ウェディンゲン)によって軽巡3隻を同時に撃沈されるという苦杯を喫した。このように第1次大戦では複数の水上艦艇が同一Uボートによって頻繁に撃沈された。ところがドイツ海軍は方針を単艦(または複数)で軍艦にあたるのか、単艦(または複数)で通商破壊に従事するのか、艦隊と共同し決戦に投入するのかついに明確な回答を出すことができなかった。
おそらく通商破壊より初期の段階で艦隊決戦に使用した方がドイツ有利と思われるが、これも推定にすぎない。結局、通商破壊−中断−地中海での兵員輸送船襲撃−通商破壊−護送船団への攻撃・失敗という系譜をたどった。全部から判断すれば最も好機であった初期での活躍が作戦の焦点がぼやけたため果たせず、後半ではイギリスの対潜作戦が効果を発揮したといえるだろう。また全期間でドイツが保有したUボートはピーク140隻で、交代・修理を考慮すれば海洋で攻撃体制にあったUボートはピーク30隻にすぎない。
イギリスの対潜作戦の初期はみじめなものだった。なんと初めは船体の両側のネットをとりつけ魚雷を防ごうとした。しかしこれは全く効果がなく速度を落とすだけですぐ取りやめた。
そして敵が水中にいるときの発見は不可能だから、浮上時を狙うしかなかった。Uボートは搭載可能な魚雷は最大5発と少なく、小型商業船舶には浮上し魚雷を節約、艦上の備砲で始末していた。
Uボート捜索に軍艦も使われたが主力は仮装巡洋艦だった。これには二通りあり商船を武装しそのまま武装した商船として使用したもののと、商船を徴用し武装したうえ軍艦として転換させたものがあった。後者は商船の護衛として使われUボートが浮上したとき戦った。
仮装巡洋艦と双方とも呼ばれたが、ドイツもイギリスより小規模に実施し、インド洋・太平洋にも進出し、通商破壊に従事した。メーベとウォルフと呼ばれる仮装巡洋艦は終戦時まで通商破壊に従事した。
そして漁船・小型沿岸貨物船を徴用したQシップと呼ばれる船があった。Qシップは1914年11月始めて導入されたが、表面は普通の商船・漁船を装い小口径砲を1門・魚雷を数発隠し持つ。そしてUボートがこの囮を撃沈しようと水上に現れたらその1門で戦うか随伴している潜水艦と共同して戦うというものだった。このため船長以下漁師の格好をするとか、場合によっては女装したという。
船体に砲を隠すQシップ
最初の成功は1915年7月、ヘブリデス沖でQシップ・プリンスチャールスが得たもので、U36を砲戦のすえ撃沈した。1917年末までQシップは活躍し、11隻を撃沈または自沈させている。末期はUボートも警戒し専ら魚雷で攻撃し、浮上しなくなったのでこの方法もとれなくなった。このような方法で浮上した潜水艦を終戦まで18隻破壊した。
しかしこれでは浮上しない限り攻撃できず、次に耐水性をもつ爆雷が開発された。時限信管により一定の時間後、爆発するものだが、水中にいる敵の発見ができず当初は余り有効でなかった。1917年までに9隻がこの方法で撃沈されたにすぎない。しかし1918年イギリス海軍は簡単な音響探査機の開発に成功、この1年で22隻撃沈した。
そして最も成功したのは古典的な機雷だった。第2次大戦と異なりドイツはUボート基地をビスケー湾にもてず、大西洋岸のドイツ港湾に基地が限定された。このため主要港湾の出口には何層にもわたる機雷線が敷設された。触雷によって破壊されたUボートは75隻に達した。
そして商船護衛で最も効果的だったのは護衛船団(コンボイ)方式だった。これは1917年2月、ドイツが無制限潜水艦戦を再開するのに伴い、首相のロイドジョージが主張したものである。これにたいし海軍はジェリコや連合艦隊司令長官ビーティを筆頭に反対、実施は1917年5月まで延期された。
護送船団方式はナポレオン時代も実施されたこともあり特段目新しいものではない。ビーティの反対理由はスピードの異なる商船をまとめて運用することは効率をそぎまた護衛にあたる軍艦も同様な困難に当たる、というものだった。しかしロイドジョージはおしきり実施すると効果は著しいものがあった。大洋中では散在する20隻を発見する方が、まとまった20隻を発見するより容易なのだ。
護衛の能率はアメリカ海軍が参加することにより更に向上した。下は大戦期間中の連合国の喪失船舶数である。
|
1914 |
1915 |
1916 |
1917 |
1918 |
|
潜水艦 |
3 |
396 |
964 |
2439 |
1035 |
|
水上艦 |
55 |
23 |
32 |
64 |
3 |
|
機雷 |
42 |
97 |
161 |
170 |
27 |
|
航空機 |
ー |
ー |
ー |
3 |
1 |
|
計 |
100 |
516 |
1157 |
2676 |
1066 |
第1次大戦と第2次大戦の両方でドイツ潜水艦隊を率いたデーニッツは「第2次大戦のドイツ潜水艦乗組員が第1次大戦とは比較にならないほど困難な、かつ激しい戦闘にたえねばならなかった。第1次大戦時代の乗組員はどれほど楽だったことか。またあらゆる点でとくに空軍について当時の敵の対潜防禦がいかに弱体で幼稚だったか、これは動かせない一つの事実である。」と記している。
ただしイギリスの第1次大戦の潜水艦による商船被害は4200隻を越えている。これにたいし第2次大戦は戦争期間が長いにもかかわらず2900隻の被害しか受けていない。第1次大戦のドイツの潜水艦戦が1917年に集中しそれなりの効果をあげたといえる。またイギリス海軍の防御も見事だった。
デーニッツは第1次大戦ではUB68の艦長として護送船団を攻撃中、事故に遭遇捕虜となった。第2次大戦では1942年に潜水艦隊司令官となった。1943年海軍長官。1945年国家元首。
潜水艦戦は近代戦争で最も人間が戦闘員として忍耐と苦痛を要求される戦闘のあり方の一つではないか。おそらく将来の海軍で最も有効な戦闘方法であり続けるのだろう。第1次大戦で開始された戦闘様式として一番息の長い方式であるのかもしれない。
最後の非原子力推進潜水艦による戦闘艦撃沈
第1次大戦で登場した潜水艦は、20世紀後半原子力潜水艦の登場により、海戦での決定的兵器となった。
それ以前の原子力推進でない潜水艦による最後の戦闘艦撃沈は日本のイ58潜による重巡インディアナポリス撃沈である。1945年7月28日のことだった。
艦長は橋本以行で、開戦当初からの生粋の潜水艦乗りだった。1914年から1945年までの潜水艦の活躍はほぼ艦長個人の力によっていた。すべての判断が艦長に集中しており、戦果も被害も艦長次第だった。
当時、イ58にも人間魚雷回天という特攻(自殺)兵器が装備されていた。これも潜水艦を知らない人間の創作物で、同じ鉄量で複数発射可能かつ帰投できる小型潜航艇が製作可能でこちらの方が戦果があがっただろう。当然のことながら、自殺しては経験は積めず、また経験のない者を自殺兵器に搭乗させるよりないから、二重の失敗作とも言えた。
インディアナポリス撃沈のさい、橋本は回天出動より自分の判断にかかる酸素魚雷による攻撃にかけた。
橋本は自殺兵器が失敗だと誰よりもわかっていたに違いない。それでも自著で回天乗組員の敢闘を讃え、決して安易な誹謗に組しない。
戦後、インディアナポリスの艦長は操艦ミスを問われ軍法会議にかけられた。橋本は証言にたつことを求められた。アメリカ海軍は橋本を海軍中佐として迎え、当番兵をつけ優遇した。争点は艦長が適切な待避行動(ジグザグ運動)をとったかにあった。橋本は「待避行動が適切であれば、魚雷を命中させることができたか?」と尋問された。
橋本は少しも屈従的にならず「あの情況では、いかなる待避行動をとっても、私は撃沈させることができたでしょう。」と答えた。この証言が決定的となり艦長は重大な過失という嫌疑から免れた。情況とはインディアナポリスは当時燃料消費節減から速度を15ノットに落としていたことを指す。そしてこの一節はアメリカの記録だけで自著には触れられていない。
レシプロ型潜水艦は、水中で10ノットを越える速度を出すことはできない。従って、攻撃のためには目標の艦船を待ち伏せするしかない。また水上艦の追跡を水中で速度によりかわすことはできない。対潜作戦はこの弱点をいかにつくかにかかっている。
|

Taffrail, Captain H., Swept Channels: Minesweepers in the
Great War, London,1938
Bacon, R.,Dover
Patrol 1915-1917, London,1919
Champbell,
Rear-Admiral G.,V.C.My Mystery Ships (Q ships),London,1928
封鎖作戦とUボート戦に戻る