総動員
しばしば後世の歴史家は「動員は開戦を意味する」と主張した。これは真実ではない。第1次大戦の開戦時、ドイツを除く各国は動員をしても、前線に兵をとどめておくことができた。すなわち、そのまま開戦に至らなければ、動員はあくまで外交の恫喝の一手段にすぎなくなる。
ニコライ二世が外交手段として動員を用いたことは疑問とされるが全く無理とするには難しい。また日本の真珠湾攻撃により陸軍の(総)動員によらず、敵に有効な損害を与えれることが立証され、陸軍の方法である総動員による戦争の開始は過去のものとなった。
ウィリー・ニッキー交換電報
総動員=攻勢作戦というのはシュリーフェンの独創である。ただシュリーフェンはドイツ伝統の事前作戦による敵領土への侵攻、包囲戦による敵野戦軍の殲滅と言う方法に忠実であったに過ぎない。つまり(大)モルトケにより開進(動員を終了した部隊を前線に配置すること)から攻勢作戦まで一連のものとする手法は完成されていたが、総動員の時点から通貫させることはされていなかった。これは当時ドイツは領邦に分かれており、開進後でなければ統一指揮が実施できなかったためである。
またシュリーフェンは部分動員の選択をなくし総動員のみとした。このやり方をフランスとロシアの軍部が模倣または自明のこととして受け入れた。すなわちこの3国は総動員しか方法をもっておらずかつ開進まで1種類しか保有していなかった。それも軍部とくに参謀本部が主導しており、政治家はその事実を知らないか理解できなかった。オーストリア=ハンガリーのみは部分動員や集中地を可変的にする方法を採用した。これはコンラートの独創であり、当時天才的戦術家と言われたが実際実行に移すとものの見事に失敗した。
なぜ動員計画が1種類かといえば鉄道ダイヤが1種類しかなくそうなっただけで他に理由はない。そして総動員が下令されても鉄道ダイヤは平時のものと変わらない。というより平時のダイヤが1種類の総動員に合せたものだった。
オーストリア=ハンガリーの総動員の失敗
オーストリア=ハンガリーの失敗は参謀総長コンラートの指示ミスによるもので、鉄道官吏無能説は再考の余地がある。フランスは戦線がドイツとしかないと予想されたから、それでもこの総動員1種類方式を首肯できるがドイツ・ロシアがなぜこのような方式を採用したのだろうか。実務として鉄道ダイヤを動員下令即日に全部変更することは可能だったようだ。ただこれはドイツの場合で非番の鉄道員にすぐ連絡できるか否かロシアのような広大な国でどうなるかは予断を許さない。
ロシアの場合はドイツまたはオーストリアと紛争が起きたときにどちらかのみの紛争に対応する部分動員が可能でなかった。しかしこれは露仏同盟の結果である。つまり同盟の責務によりフランスと同一時期にドイツ心臓部に攻勢をかける必要があった。ところがロシアはフランスと桁違いに国土が広く、これは至難の技である。この打開のため独露国境の軍は全て充足体制とする方式を採用した。しかしそれでも補充兵・専門兵・予備役将校や不足する野砲・馬・輜重部隊は輸送中心から運ばねばならず、このための鉄道ダイヤは特別のものが準備された。そしてもしオーストリアのみに部分動員をかけると、この鉄道ダイヤは使えずドイツ向けの動員が急速には不可能になってしまう。
やはり最大の疑問はドイツである。この国は実は鉄道の運営技術に最も優れまた平時にも軍の管轄下に置いていた。にもかかわらずシュリーフェンプランに基づく鉄道ダイヤしか用意されなかった。これはドイツ的思考=シュリーフェンプランが唯一・ベストとする硬直的な考え方に基づくものだろう。
当時は平和が長く続いており、戦時と平時はきちんと区分けされていた。準戦時というのは戦間期または第2次大戦以降のことである。総動員というのは第1次大戦直前の特殊な状況における方法とも言えるかもしれない。
軍事的には総動員が完了した軍にたいし、動員途中の軍が戦うのは不利である。逆にそれを狙うという方法がある。典型例はナチスドイツの1939年9月のポーランド侵攻だろう。この時ポーランド軍は動員が3分の2しか完了しない段階で、前線がほぼ全面にわたって崩壊してしまった。
ポーランドのケースではドイツ側は準戦時体制にあり部分動員完了後であったにすぎない。このためポーランドはドイツ側攻撃の意図を正しく見抜けなかった。ポーランド軍はドイツがポーランド回廊のみを攻撃するとみて、主力軍を国境地帯に配置し戦略予備を後方に保有しなかった。このため機甲師団が国境周辺の主力軍を突破すると内部に軍は存在せず1週間でワルシャワ後方まで達した。あとで動員された兵はワルシャワで戦略予備の役割を果たす予定が集結される前に到達され軍として機能しなかった。
しかもこのときドイツ軍は砲兵隊の機動力までは手が回らず、馬匹牽引によるスピードに制約されたにもかかわらずである。第1次大戦でのマッケンゼンのスピードより5倍以上の高速で侵攻した。おそらくタンクのスピード向上より機甲師団の設立によるのだろう。ポーランドのケースはドイツの科学技術にたいする対応力をより評価すべきかもしれない。
しかし大国間の戦争ではこうはいかない。第一に総動員をかければ敵は簡単に察知する。第1次大戦でドイツは8月1日に総動員令を発したが、翌朝にはロンドンの新聞に予備役の帰国命令を出している。大陸陸軍国の召集令状は後日送付であって、予備役・後備役は全員自分の連隊または集結地を承知しているのが普通だった。もちろん平服のまま連隊の宿営地に駆けつけても、あとに残された家族の生活保証、勤務先への連絡(法令で解雇はできず一定期間給与も支払われた。)、旅費などは全て国家が保証していた。もっとも将校の軍装は自費のためそうはいかないが。
このように大国同士は互いに相手が察知することを前提に動員のスピードを競った。またこの動員というのは演習がきかない。ドイツでもフランスでも普仏戦争以来総動員はない。また総動員は必ずしも戦争を意味しないと言ったが、理論上のことで感覚がはいると難しい。というのは総動員というのは前述の通りで相当に日常から離れた出来事である。
はたして総動員をかけられた兵士が前線に並び何もせずに帰ってきたというのが、許されるだろうか。国費の無駄遣いはさておき、出征の歓呼におくられた兵士にとっても恥ずかしいことではないか。このあたりの機微になるとなんとも言えない。独仏露で総動員がかけられて戦争が発生しなかったケースはまだない。また部分動員は第1次大戦の反省から生まれたもので、戦争に発展しなかったものは、1938年のズデーテン危機におけるフランスの部分動員がある。
動員を定義すれば陸軍を平時編制から戦時編制に切り替えることである。総動員とは計画に従って全部隊が戦時編制に切り替わることを意味する。ドイツ的思考では計画の存在と戦争決意が前提であり戦争へのステップである。
第1次大戦勃発とともにドイツは400万人84個師団フランスは300万人52個師団(その後すぐ予備師団18個を前線に配置)を総動員した。そしてこの動員師団の他に後備師団・補充部隊・憲兵、本部輜重隊、本部要員、また鉄道維持など軍事関連要員がほぼ同数必要である。このためには成人男子の約半数が関連部署に配属されねばならない。
要するに総動員自体が昭和陸軍が主張した国家総動員以上のものだ。またこのように高度に国民を動員する体制は実はこの時代でも独・仏以外は存在しなかった。またそれ以降でも仏・ソ連が実行しただけである。このようにみれば総動員は、強大な仮想敵国の存在による制度といえるかもしれない。またドイツの特殊な地理環境、両側に強力な仮想敵国がある、を無視してはならないだろう。
イギリス連絡将校のフランス軍動員の観察
また海軍と陸軍では根本的に異なる。海軍は年中動員体制なのであって、動員というのは基地への帰投と休暇の取り消しにすぎない。チャーチルは第1次大戦の直前、7月28日に海軍の動員令(出師準備発動)を発した。このため歴史家から戦争の原因を作ったと非難された。これは全くいわれのないことである。海軍の動員で、脅威を感じる程度は低いし、普通攻勢を意味しなかった。
陸軍では師団の編制が戦時と平時では完全に違う。1個師団で平時編制では5千人から12千人程度であるがこれが戦時だと18千人から3万人に膨れ上がる。また輜重部隊などは平時では準備されず、動員とともに後備旅団などで改めて編成するのが普通である。そのうえ総動員となれば常備師団のほかに新編師団を作らねばならず、途方もなく時間の限定されたなかでの重い仕事である。
実は、動員は演習がなりたたないと書いたが、日本が一度それを実施した。しかも秘密裏で。昭和16年(1941年)の関東軍特種演習(関特演)である。
動員の予行演習…関特演

オーストリア=ハンガリー総動員の失敗
フランス軍の当初展開
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