セルビア人はどこから来たか


バルカン半島全域は、紀元前1世紀にはローマ帝国の領域に属した。そして6世紀初頭までは、ここはギリシャ人とローマ人が混住していた。スラブ人の到着は始めは、盗賊としてのものだったが、7世紀には定住するようになった。

ただ定住のしかたは、はっきりしない。この当時この地域で最も有力だったのはマジャール人で、現在のハンガリーに定住したが、その前後にギリシャ系とみられる先住民を駆逐した。このため6世紀には広範囲に無住の地区があったとされる。

経路については、ローマの史書はサロニカから移動したとしているが、ポーランド・チェコ経由だと言う説も有力であり、チェコには現在でも取り残されたと見られるサーブ=クロアチア語を喋る人々がいる。また原住地はどこかと言う点は更に難しい。紀元前2世紀頃、ギリシャ人史家によればドン河周辺にセルブまたはセルボイと称されるイラン系の部族がいたと言う。これがセルビア人の源流だという説が有力である。

またクロアチア人は、セルビア人とは別のルートで現在のクロアチアとダルマシアに居住したと主張するが言語の点で疑わしい。言語学的には、サーブ・クロアチア語は現代イラン語の特色も有している。ただロシア語を含む、スラブ語族はイラン語と共通する点が多くこれをもってセルビア人の祖先がイラン人と共通だったとするには、やや足りない。

そして9世紀頃、セルビア人は東ローマ帝国の宣教師により、ギリシャ正教に改宗した。この当時セルビア人はラシュカと呼ばれる地域に住んでいた。その結果、当時はラシュカンとも呼ばれていた。ラシュカは、サンジャック(この呼び名はトルコ語でノビパサール周辺の意味。セルビア人はラシュカという地名の普及に努力しているが現在のところ成功しているとは言えない。)地方の別名である。そしてほぼ同時に、北部に住む現在のクロアチア人はカトリックに改宗した。

コソボのペッチャにある、ギリシャ正教の教区修道院

遅くとも11世紀には、基礎を置いた。少なくとも数世紀に亘って、ここがコソボ全域のギリシャ正教徒を管轄しており、またそれがセルビア全体だったとも言われる

1036年頃ステファン・ウォイスラフは東ローマ帝国からの独立を宣言した。そしてコンスタンチン・ボディンが1077年ゼタ王国を名乗り、現在のモンテネグロとサンジャックの地域のセルビア人を支配下に置いた。ボディンの死後、この王国は内乱状態に陥り、1160年ネマンンジャによるギリシャ正教を基礎の王国を待つことになる。


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