上海決戦は日露戦争以降最大の陸戦だった。そしてきっかけは1937年8月13日の蒋介石の上陸(シャンリク)への攻撃であり、10月28日、大場鎮突破その後の掃討戦成功そして国府軍殲滅により12月初頭、帝国陸軍は未曾有の大勝利を得た。
通常和平交渉は戦局が一段落せねば成り立たない。これは自明のことで、それより以前和平がもし成立するようであれば、戦闘自体が中断されるはずだ。一方このような悲惨な戦いを中止するため為政者がなぜ話合いをしないのか不思議と思うだろう。だが、戦争とはその為政者(片方)が開戦を決意したため起きているのだから、これは不思議ではない。この辺りの事情は大衆には全く知らされない。そして戦争を引き起こした片方の指導者は戦局の悪化を簡単には認めない。蒋介石も例外ではない。なぜならば、認めることは、自身の政治的破滅につながるからだ。
ところが勝利した側は楽であって、単純に占領地にいすわり相手が和平を乞うのを待てばよい。そのためには時間が必要で、まず現地軍同士で休戦ラインを設定、占領地で軍政を敷き待機することになる。この時日本の文民政府は軍事面について知識がなく、そして戦局すら知らされなかった。だが文民政府は、8・13上海決戦開始時、陸軍が逡巡する反撃、動員・派兵を支持したため、比較優越感をもっていた。つまり攻撃にたいし反撃すべきだ、友軍の孤立は救援すべきだ、との常識論が勝利したための優越感である。これが、この後の展開に意外な影響を及ぼした。
トラウトマン工作のきっかけ
トラウトマン工作は、日華事変における唯一、双方が外交ルートに乗せた和平交渉だった。きっかけは10月28日大場鎮陥落時、外相広田弘毅の指示により外務次官堀内謙介がドイツ駐日大使ディルクセンに仲介を依頼したことから始まる。おそらく、この依頼は広田の私心から出たものと推定される。広田は蒋介石と親しく、また日独防共協定を成立させた立役者でもあったため何か気負いがあったのだろう。
広田は11月3日から開始され15日に終了したブラッセル会議に対する考慮を忘れていた。蒋介石はブラッセル会議で顧維均の弁舌がなにかなしうると期待した。この戦いは蒋介石が始めたものだから、当然英米仏の態度は満州事変の時と異なった。会議では各国は中立を表明し、一切の介入を避けた。蒋は侵略戦争と防衛戦争を混同していた。また広田の外交カンの悪さはこの時だけに止まらない。
広田はいわゆる第1条件を提示した。近衛がこの動きを承認したと現在のところ確認されていない。ただ参謀本部は承知していた。この第1条件は実は7月29日の閣議で承認されたもので、開戦前の事態収拾案である。参謀本部はこの戦争を局地戦と考えていた。戦果による条件の改変を考えていなかったし外交に属することは関与を避けた。ただこの時参謀本部の情報部はかなり正確に国府軍の暗号を解読していたとみられ、国民党政府内部の情況についてよく把握していた。蒋介石が日本側和平提案やブラッセル会議へ関心をもったため国府軍の全面退却はやや遅巡しており結果としての混乱を歓迎する面もあった。
11月2日広田は第1条件をディルクセンに手渡した。
第1条件
- 内蒙古に自治政府を置き、外蒙と同様の国際法上の地位を与える。
- 華北に非武装地帯を設け、北平と天津以南とする。華北全体の行政は南京政府があたり親日役人を任命する。
- 上海はこれまでより大規模の国際的警察の管理下にある非武装地帯を設置する。
- 教科書問題などで反日政策を修正する。
- 中ソ不可侵条約と矛盾しない形での反共協力。
- 日本製品にたいする関税引き下げ
- 中国における外国人の権利の尊重
以上であるが、これでは戦争による戦果についての考慮がなされていない。これは好戦的な意見のようだがそうではなく、和平交渉は戦局が安定した所でなくては全く成功しないばかりでなく、本格的な交渉すら阻害する。この交渉はその典型的なケースである。また外交技術的には占領地、揚子江デルタ地帯と北京(北平)・天津線以南の暫定統治方法が含まれる必要がある。
また広田は戦闘勝利がもたらす国内の高揚した気分を予測できなかった。日本の外務官僚によく見られる視野狭窄である。つまり国民感情のようなものを一刀両断に切り捨てる。そもそも勝者の側から条件を出す危険性についてあまりにも無頓着だった。
第1条件についての蒋介石の反応
蒋介石は11月5日第1条件を入手した。ところが蒋は大場鎮陥落をもって敗北とみなすファルケンハウゼンの進言を容れず、また英米などの干渉により日本が国府軍の殲滅に乗り出さず、戦線を維持できると観測した。広田への回答はせず引き延ばしを図った。これにより広田も幾許か蒋への信頼を失ったに違いない。
壊走した国府軍への日本軍の網は締まりつつあった。国民党政府要人誰もが11月中旬には破滅的な事態となりつつあることを認識し始めた。11月28日から蒋介石は第1条件受諾の根回しを開始した。12月2日午後4時南京にて、蒋介石は徐永昌、唐生智、白崇喜、顧祝同、銭大鈞らを招集し日本側条件についての意見を求めた(馮玉祥『我が義弟蒋介石』)。
白崇喜は「こんな条件ならなぜ戦争するのか」、徐は「これだけの条件なら承認してよい」と述べた。顧は受諾に賛成、最後に唐が「みなが賛成なら賛成でいい」といったという。最後に蒋介石は「ドイツの調停は拒否すべきでない」「華北の政権は保持しなければならない」と言明した。
12月2日、蒋介石は第1条件を交渉の基礎として受け入れることを駐南京ドイツ大使トラウトマンに伝達した。付帯条件は即時停戦と秘密外交だった。(この伝達は東京では12月1日に知られていた。暗号解読のためと思われる。)
国府外交部の秘密電報
日本側の反応
この返事を受けても広田は回答を出すことができない。元々、参謀本部とだけ組んだ私的外交だから閣議の承認がなければならない。仲介に当ったドイツ外務省は12月7日日本側の回答を求めた。広田は「戦局が動いたので以前の条件では難しい」と回答した。これを言うならば、開戦前の条件にすぎないと初めから明らかにすべきだった。
また参謀本部の和平提案による軍事上の有利性確保は謀略として味のあるものではない。このような手段は長期的には有利に運ばない。
閣内では広田・参謀本部の勇み足を咎める声が強まった。内相末次信正(海軍大将:艦隊派)が軽易なる条件では認めがたいとした。これは海軍の声を代表するもので、上海で上陸(シャンリク)が常に矢面に立たされてきたことにより発言権を有すると考えたのだろう。そして南京の陥落を見た軍事オンチの近衛はここぞ出番と、強硬な条件を要求した。
そして広田はこの軽忽な人間の常として、参謀本部に見切りをつけ強硬条件派に寝返った。
12月21日の閣議で新条件を決定した。
第2条件
- 支那は容共抗日満政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力する。
- 所要地域に非武装地帯をもうけ特殊の機構を設定する。
- 日満支三国間に緊密な経済協定を締結する。
- 支那は帝国にたいして所要の賠償をする。
以上の他口頭説明として細目を次のように付加した
- 支那は満州国を承認する。
- 支那は排日反満政策を放棄する。
- 北支・内蒙古に非武装地帯を設定する。
- 北支は支那主権の下において、日満支三国の共存共栄を実現するに適当な機構を設定しこれに広汎な権限を与え日満支経済合作の実をあげる。
- 内蒙古に防共自治政府を設定する。
- 支那は防共政策を確立し、日満両国の防共政策遂行に協力する。
- 日本軍の中支占拠地域に非武装地帯を設定して、特殊機構を設ける。また上海市には租界外に特殊政権をもうけ日支協力して治安維持と経済発展にあたる。
- 日満支三国は資源開発、関税、交易、航空、通信に関し協定を締結する。
- 支那は帝国にたいし所要の賠償をする。
付記
- 北支・内蒙古・中支の一定地域に必要な期間、日本軍の保障駐屯することを認める。
- 前諸項に関する日支間の協定成立後に停戦する
イニシアチブをとったのは末次内相と考えられる。つまり防共などのイデオロギー項目が増加している。また停戦を協定後とするなど停戦交渉を先とする先例を無視、更に賠償要求を行うなど実行後の履行が難しいものまで出している。これを要求するのであれば旧清国・袁世凱政権に対する旧債の支払いを要求すべきだろう。この時、すでに日本は貸し金を踏み倒されており賠償を確約させたところで新たに債権を増加させるだけである。米・英・仏より有利になろうとしたか国内世論を優先し屈辱を与えようとする悪意があるのだろう。
また停戦の実施を協定後とするのと絡むが、保障占領の要求を出している。これは協定履行のための保障であるが、日本軍は占領地をもっているのだから、この要求はそこを「攻撃するな」の意味と解しうる。これは停戦をしたくないという日本の要求に反することになる。すなわち内部撞着も甚だしい。これがために口頭や付記の形をとったと思われるが、蒋介石が無制限の要求と見なしたのは当然である。
広田は回答期限を1月5日として、12月22日にこれをディルクセンに提出した。広田はわざわざ前文を作り「帝国に和を乞うの態度を示す」のが前提だとした。これも近衛が「言辞が敗者として無礼」だと主張したため付け加えたとされる。そもそも交渉による和平とは相手が敗北を認めないところから始まるのであって、敗北を認めさせるのは無条件降伏を求める以外手立てはない。そしてマルクスを齧り、論語を語るだけの教養の青年貴公子では国際政治は無理ということだろう。この人物が国民の人気を集め国を誤らせることになるが、これが手始めでもちろん最後ではない。
第2条件にたいする蒋介石の反応
トラウトマン(Oscar
P. Trautmann 1877-1950)
12月26日、トラウトマンは行政院副院長孔祥煕と蒋介石夫人宋美齢に会い第2条件を手渡した。昭和天皇の独白録にこの提案が宋美齢により握りつぶされたと書かれているのは、この突然の登場のためである。ただ広田が上奏の際宋美齢の影響を誇大に報告したのに影響されたのだろう。外務省が上奏にあたり意図した誤訳を含めて、虚偽の報告をなすことは現在でも常套手段である。
この段階で蒋介石は各級の意見を集めた。精神的徹底抗戦の意見が多数を占めたが日本に拒絶回答する意欲もなかった。第2条件の詳細を照会しようという意見が大勢だった。蒋介石は11月5日に受け取った第1条件からの日本側変化がどうしても理解できなかった。この時すでに国府軍は壊走状態に陥っており、期待はブラッセル会議に過ぎずこのように賠償まで加わる条件悪化は蒋介石の政治的立場を危うくする。つまり受諾はブラッセル会議に拘泥した蒋に批判が集まることになる。
更に12月下旬に国府軍は全面崩壊の形勢に追い込まれていた。中国は多くの地方で近代的徴税制度がなく租税収入は主に江蘇・浙江両省に依存していた。日本軍の占領地域はその中心部だった。しかし、それでもヨーロッパ諸国が中国植民地化を諦めた原因から日本が免れていたわけではない。
中国との戦争に勝利できても、全土に軍隊を駐留させることは不可能である。
もちろん蒋介石はこの時日本との戦争に勝てると考えたのではない。つまり第2条件のようなどうとでもとれる内容では、協定にならずまた第1条件を幹部に諮り、受諾を決めそのうえ過酷なものを受け入れるのでは政治的立場を失うと悟ったに過ぎない。つまり蒋介石を拒否に追いやったのは広田の無定見と参謀本部の外交オンチである。
蒋介石の第2条件照会に対する日本側の反応
蒋介石の照会にも前文があった。それは「11月5日の日本側和平の依頼について…」から始まるものだった。実際条件が変われば誰でも事情は聞きたくなる。これは広田の尾を踏むものだった。広田の犯した手続き上の失敗はこの土壇場で破局となって現れた。広田は前文に反発し、蒋介石との交渉打ち切りを進言した。閣議で交渉打ち切りが決定された。
参謀本部はこの段階で破局を食い止めねばならないと考えた。中国と長期戦となることは同時に大軍を中国に貼り付けることを意味する。そしてこれは戦争に勝利すればするほど勝者により過酷な形で現れる。占領地域が拡大するためである。参謀本部は中国全土占領のために65個師団、その後も同数を駐留さえねばならないと考えた。これによる結論は誰にでもわかる。日本には平時で充足されていない17個師団があるだけだ。実際には3単位の後備兵からなる独混32個師団で終戦時までカバーすることになった。
多田 駿「はやお」 (1882−1948)陸士15期・陸大
北支方面軍司令官の頃
参謀本部次長のとき日華事変非拡大を主張した。この方針をめぐって多田は昭和天皇に忌避されたのではないかとその後生涯悩んだと言う。これは陸相推薦にあがらなかったためであるが、そこは誤解である。多田は政治を中心とする陸相には向かないむしろ生粋の軍人だった。東條の手で1941年予備役に編入された。ただ多田の論は軍事のみに偏った理解にみえる。昭和天皇はこの時中国大陸でいくら事を起こそうとも、アメリカ・ソ連は介入しないと見切っておられたようだ。アメリカは日本が直接米国領ハワイもしくはフィリピン(あるいはタイ)に手を出さなければ日本との戦争を望まなかっただろう。もちろん反面アメリカが日本による軍事的成果を相手国政府が認めない限り、認証することはない。イギリスはこういった方針についてアメリカに追随していた。ソ連はこの点不明だが2正面作戦はなんとしても避けたかった。天皇は主として外交上、上海戦が可能と見切ったのだ。
同時に発生した張鼓峰事件では朝鮮軍の劣勢に鑑みて、防衛戦に徹し4倍のソ連軍を撃退した。これは多田の功績である。スターリンは攻勢作戦に踏み切らせたソ連極東軍司令官ブルーヒャーの責任を問い処刑した。多田は防禦する野戦軍司令官に向いていた。多田はその後も第3軍司令官に転じたとき、ノモンハン事件の直前、血気に走る植田関東軍司令官を諌めている。予備役編入後郷里に戻り営農生活に入った。極東軍事裁判では屈することなく、堂々たる上海決戦についての所感を述べた。旧軍の将軍のなかで記憶に留められてよい人物である。
参謀本部は上海決戦を大勝利のうち短期で終息させた。これの見返りは戦争の時間的・空間的縮小でなければならない。ところが文民が、この当然すぎる事態を全くわかろうとしなかった。近世以降の戦争勝利による勝者の利益はあまりにも少ない。近衛らはこの単純な事実を国民に説明しようとしなかった。占領地拡大と領土拡大は同一ではない。現住者が大勢いる地区の併合は、すでにいる国民を財政支出増大により苦境に陥れる。それを避ける方法は住民の追放か、殺戮しかない。20世紀の歴史でこれをやったのは、大国中、ソ連のみである。しかもソ連のやった地区は東プロイセンや国後・択捉など住民が希薄な地帯である。
近衛は照会への回答をせず1月15日を期日として交渉打ち切りを決めた。参謀本部はこの期限の理由が帝国議会が1月20日から開催されるため、近衛が格好の良い演説をしたいためだと知って激怒した。
近衛言行録
参謀本部は大本営連絡会議の開催を要求し、1月15日開催された。出席した多田参謀本部次長は蒋介石の照会要請に応えるべきだと主張した。会議は午前9時30分から午後7時30分に及んだ。閣議で交渉打ち切りを決めた近衛は強硬で一切の妥協を拒んだ。さらに海軍大臣の米内光政は「それでは内閣が総辞職する」と脅迫的言辞を吐いた。多田は泣きながら、「明治天皇は朕に辞職することは許されていない、と仰せられた。この国家の重大な秋になぜそのような軽率なことを言うか」と反論した。多田はしかし孤軍であり押し切られた。
それでも夕刻気を取り直し、昭和天皇に帷幄上奏を行うことを決意した。1月15日午後9時20分、参謀総長閑院宮は帷幄上奏を行ったが昭和天皇はとりあげることがなかった。1月16日、日本は蒋介石に交渉を打ち切り以降交渉相手としないことを通告した。
これ自体は蒋介石の交渉遅延化または煮え切らない態度が原因ともいえる。ただこうして「交渉相手としない」宣言を行ったことにより世界は停戦交渉を日本から打ち切ったとみなした。すると爾後の軍事作戦はこれまでのものと異なり、日本が第1弾を撃って始めたものとみなされた。
トラウトマン工作の評価
この外交は日本にとり致命的な失敗となった。軍事的な面を言えば中国戦線の深入りが日本に大きなダメージを与えたことはない。上海決戦から1945年8月の終戦まで、中国戦線における戦没者は戦闘がわずか1年に満たないフィリピン戦線より少ない。人口1億人の帝国にとり戦時における32個師団の駐留が大きな意味をもったとはいえない。
影響は意外な所に現れた。陸軍は不満を内向させ文民政府へ不信感をたぎらせた。また文民政府によって日華事変の解決は不可能であると思い始めた。一つは外務省をはずして独自の私的外交をすることにつながった。桐工作などはすべてその結果である。またドイツのポーランド侵攻以降、日独同盟締結による一挙打開の策を模索した。
そして陸軍内部では事態の本質を考えることなく、ただ私的なロマンなどで好戦的な態度を示すことが、むしろ軍人に相応しいと見なされるようになった。すなわち、この時の参謀本部の態度が「ソフト」だとみなされた。この変化は徐々に進行し東條・田中らの威勢のよい掛け声だけの人物が重用されるようになった。
第2条件をどう考えるべきだろうか。実は賠償を除いて重大な変化は第1条件からあまりない。あるのは裁量行政の言葉で示されるような警察官僚的思い上がりである。国内政治でもこのようなことは避けるべきなのに、国家間でこのような要求の仕方をしてはならない。蒋介石が第2条件では内部を固めることができないと考えた。そして賠償をデフォルト国家に要求することの愚かさは当事者だから当然わかっていた。しかし日本側は賠償について戦費であるのか民間賠償であるのかすら照会に答えなかった。
それでは中国側はどうだろうか。蒋介石はこのトラウトマン工作失敗により最も打撃を受けた。つまり蒋介石はドイツの支持を失い、国際的孤児となった。アメリカが蒋介石支援に乗り出すのは1943年以降である。その時のアメリカ軍代表スティムウェルスは国府軍の問題は装備・士気の問題ではなく、食料が届かねば兵士のうち栄養失調死が著増することだと報告書を送った。
そして真剣に考えねばならないのは広田的人間の存在である。この人間は悪い人間ではない。しかし悪くない人間が最悪の事態を招くことはしばしばある。和平の提案を行うことも悪いことではない。しかし外交でタイミングの悪い「良い提案」はしばしば最悪の結果を招く。勝利者が決戦で未曾有の大勝利をあげつつある過程で、敗者に提案を行えば必ず失敗する。勝者も敗者も戦局が確定した段階では以前とは必ず違う戦争目的をもつためだ。
日本側の問題はその意思決定方法と個人の野心である。外交と統帥が分断されていたため、全体からタイミングや蒋介石の置かれた情況を判断する組織・政治家がいなかった。そして外交が個人の野心家に任された。第一の野心家石原莞爾が船津工作という見当違いな和平打診を行い挫折した。これから刀を振り下ろそうとしている人間に和平を説いても無駄である。そして第二の野心家、広田弘毅が勝者から敗者に和平提案を行った。個人の社交と国家の外交は異なる。何年も外交をやっている人間の所業ではない。そして結果として両国に甚大な被害を与えた。両人とも存在しないとして、何も行われなかったことを考えればすぐわかることだ。
国家と個人は異なる。防衛戦争は迅速に、交渉は遅延を覚悟してもタイミングを計ることが重要である。

堀場一雄 支那事変戦争指導史 原書房 1973
大杉一雄 日中戦争十五年戦争史 なぜ戦争は長期化したか 中公新書 1996
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