第六師団長谷寿夫の軍状報告

軍状報告

第六師団は昨年七月二十七日動員を命ぜらる。八月一日より逐次出発朝鮮満洲を経て北京南方地区に集中し、此間一部の兵力を第五、第二十両師団中間の山地即ち板橋村附近に派遺し、北京平地進出を企図せし三師の敵を拒止せしめ、主力は九月十四日第一軍の最左翼師団として永定河を渡河、攻撃前進し、保定、正定城を陥れ、石家荘会戦後は直に敵を急追して内邸趙超縣に達せし時、十月十三日兵力の集結を命ぜられました。

爾後師団は、部隊の整頓整備を行ひ、鉄道次で船舶輸送により、先ず朝鮮八口浦に至り、第十軍に属せられ、十一月五日払暁抗州湾に奇襲上陸しまして、歩兵の主力、山砲数門、工兵聯隊のみにて直に北進、八日黄浦江北岸に進出しましたが、其時軍命令を受領しましたので、一部を水路平望鎭に派遺し、主力は翌払暁より上海戦線敵の背後より松江に向ひ当面の敵を撃破しつつ前進しました。

敵は松江西方地区に於て頑強に抵抗致しましたが、其兵力は甚たしく大ならず、且此頃友軍飛行機の通報に依り、上海方面の敵は逐次西方に大縦隊を以て退却しあることを知りましたので、独断北進敵の退路を遮断して余山鎭及青浦附近に於て三、四万の敵を迎撃、多大の損害を与へましたが、更に北進を続行、蘇州河を越え、上海ー崑山道上三家村附近に於ては、追撃隊たる歩兵第十三聯隊が、十一日夜大縦隊を迎撃して軍旗二旒、其他多数の兵器、弾薬を鹵獲し、数千の死体を遺棄せしめまして、師団は更に崑山に向ひ急進して十五日全く之を占領し、同日再び第十軍に復帰を命ぜられ転進を開始しました。

本会戦は、黄浦江南北の地形がクリーク地帯にして、全く馬を通ぜざるため、全部徒歩し、機関銃、歩兵砲は人力にて運搬し、又補給全く絶えしため、糧食は殆ど敵地に拠つたので御座います。又此間、兵の靴は破れ、靴下はなくなるものもあり、馬の落鉄せるものも尠なからざる情況でありました。此戦闘に於て、しばしば敵の寝込みを襲ひ、且敵兵団の戦闘計画を根底より破壊し、其組織を覆し得たるは、果敢なる追撃を反覆せると、夜間戦闘の効果大なるに因ることを痛感致しました。

次で十八日崑山出発南京に向ふ転進中の兵士の苦労は、更に大なるものがありましたが、凡そ六百粁の道も難なく踏破し、十二月八日南京要塞南方本防禦線を前日攻撃中であつた第十四師団の後方に到着、直に其左に併立戦闘に参与しまして、翌九日本防禦線を貫き、十日より内部防禦線たるトーチカ陳地を逐次奪取しまして、十二目には南門より城壁西南角に至る間を占領し、翌十三日午後二時までに完全に担任正面を占領しました。之より先、歩兵第四十五聯隊を十日夜揚子江岸に近く北進せしめましたが、南京より脱出せる万余の敵と各所に遭遇し、之に莫大の損害を与へ、河岸一面死体を以て、覆はれたる状態を生じたのであります。

南京占領後師団は、一部を以て城内、主カを以て城外に位蔵して居りましたが、軍命令に依り、二十一日出発南京西南方約八十粁の蕪湖を中心とする地域に移り、警傭の任につき今日に至ります。

抗州湾上睦以来敵に与へた損害は凡そ十万と信じます。

又南京に於て歯獲せる兵器のみにても、小銃二十七万余、機関銃約壱千五百、迫撃砲壱千参百余、軽重砲百二十門、小銃弾四十五万余、砲弾二十一万余を算しました。

今次の戦闘を通じ、敵が各種の防備施設を未だ完備しあらざりし情況を認め日支事変が両三年遅かりせば一層頑強なる抵抗をなせしたりしと思はれまして、交戦の時期は誠に天祐なりしと存じます。

之を要しまするに、第六師団の将兵は忠誠の念極めて強く、実に勇敢無比でありまして、今日も尚十分の戦闘力を保有して居ります。然しながら今次戦役間名誉の戦死傷を遂げました忠勇の士が四千百余人の多ぎに達しましたことは誠に申訳なく私の真に恐耀に堪へない所で御座います。

昭和十三年一月二十七日

陸軍中将谷寿夫

谷寿夫(1882〜1947)
岡山県出身。陸士15期、日露戦争に従軍。1909年陸大入校、1912年卒業、恩賜軍刀組。1915年から18年までイギリス駐在武官として西部戦線に従軍。1918年陸大兵学教官。1920年から23年、インド駐在武官。1924年から27年陸大兵学教官、『機密日露戦史』を著す。1935年第6師団長。1939年、予備役編入。BC級戦犯として蒋介石により処刑さる。

第6師団は、杭州湾に上陸し、その後崑山方面南方を迂回し、南京に到着し、城壁越え一番乗りを果たしたとして信じられている部隊である。都城・鹿児島・熊本連隊約3万人からなり、蒋介石をして「本当に強い」といわせしめた。

谷寿夫は『機密日露戦史』の著者としても有名であるが、軍略に関しては首をかしげざるを得ない。糧食について現地徴発したと自慢げに書いているが、これは補給が途絶えたことを意味しない。すなわち、弾薬・補充兵は十分到着しており、「補給全く絶えしため」ためは自らの後方部門把握不足を露呈したものにすぎない。また、夜間戦闘についても述べているが、夜間行軍を行ったことは事実だが、とりたてて夜襲を実行したわけではない。

また、「天佑」を感謝しているが、これは見当はずれである。すなわち、杭州湾方面は上海ー南京の迂回路であるから、元来防御施設はつくられなかった。

ただ、小銃27万丁は驚くべき数字である。上海ー南京間に国府軍は85万人を集中した。このうち銃兵は60万人を超えないだろう。すると第6師団は、そのうち半数の小銃を南京城内で鹵獲したことになる。他に第9師団と第16師団も南京に入ったから、相当数の戦利武器を獲得したことだろう。

これによってわかることは上海攻囲軍77万人の大部分が南京方面に敗走し、相当部分が実際に城内に入ったと考えられることである。また小銃を遺棄したことは完全に統制を失ったことを意味する。


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