谷寿夫(1882〜1947)
岡山県出身。陸士15期、日露戦争に従軍。1909年陸大入校、1912年卒業、恩賜軍刀組。1915年から18年までイギリス駐在武官として西部戦線に従軍。1918年陸大兵学教官。1920年から23年、インド駐在武官。1924年から27年陸大兵学教官、『機密日露戦史』を著す。1935年第6師団長。1939年、予備役編入。BC級戦犯として蒋介石により処刑さる。
第6師団は、杭州湾に上陸し、その後崑山方面南方を迂回し、南京に到着し、城壁越え一番乗りを果たしたとして信じられている部隊である。都城・鹿児島・熊本連隊約3万人からなり、蒋介石をして「本当に強い」といわせしめた。
谷寿夫は『機密日露戦史』の著者としても有名であるが、軍略に関しては首をかしげざるを得ない。糧食について現地徴発したと自慢げに書いているが、これは補給が途絶えたことを意味しない。すなわち、弾薬・補充兵は十分到着しており、「補給全く絶えしため」ためは自らの後方部門把握不足を露呈したものにすぎない。また、夜間戦闘についても述べているが、夜間行軍を行ったことは事実だが、とりたてて夜襲を実行したわけではない。
また、「天佑」を感謝しているが、これは見当はずれである。すなわち、杭州湾方面は上海ー南京の迂回路であるから、元来防御施設はつくられなかった。
ただ、小銃27万丁は驚くべき数字である。上海ー南京間に国府軍は85万人を集中した。このうち銃兵は60万人を超えないだろう。すると第6師団は、そのうち半数の小銃を南京城内で鹵獲したことになる。他に第9師団と第16師団も南京に入ったから、相当数の戦利武器を獲得したことだろう。
これによってわかることは上海攻囲軍77万人の大部分が南京方面に敗走し、相当部分が実際に城内に入ったと考えられることである。また小銃を遺棄したことは完全に統制を失ったことを意味する。
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