エドガー・スノウは現在では秘密裏にアメリカ共産党に入党していたことが知られ、またその記述が正確な情報に基づいていなかったこと、多くは創作または捏造であることが知られている。しかし当時アジアにいるジャーナリストとして、あまり一流でない雑誌に寄稿しておりその影響力はかなりあった。日華事変について何冊かの本を書いているが下はその一節である。
「1937年の中頃までは日本は軍需品についてイタリー程の自給・自足すら確立していなかった。当時の日本の工場では、1年間に3000台の戦車と4000台の自動車しか製造できなかった。」
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スノウは自動車と戦車の生産を同列に置いている。年間3000台もの戦車を製造できた国は1937年には存在しない。更に日本は軍需品の全部ではないが大半自製していた。ただし輸出を好まなかった。これは他国人には理解が難しかっただろう。
「日本軍は戦争開始当時には召集可能のかなりの予備兵がいた。この点では中国軍をはるかに凌駕していた。」
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これも事実と反する。開戦と同時に従来型の選抜制を維持していた日本軍はたちまち特設師団の派遣にまで追い込まれた。
「日本の有していた最高スピードの飛行機はドイツ製、アメリカ製、フランス製であった。1937年の6月まで完全な日本製爆撃機はまだ出現していなかった。」
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こうなると、まともな教育を受けた人間かと疑わしくなる。中攻は1936年就役だが、スノウは上海に来た爆撃機を見て、日本は直前に発明したと思ったのだろうか。真珠湾攻撃の時点で大半のアメリカ人が日本機はドイツ製でドイツ人が操縦していると信じたというが、これもスノウらのデマゴーグの仕業だろうか。もちろん記録によるとアメリカの諜報部門はこの時でも日本機の性能諸元を抑えており、これ自体は民間報道の問題である。
「どの日本人も朝鮮人と中国人に知的にも肉体的にも個人的に劣っているのを潜在的に感ずいているのである。ある日本人にとっては聳え立つような中国農民を銃剣をもってひざまづかせること以上に大きな満足を与えるものはないのである」
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中国農民の平均身長は当時現在より高かったのだろうか。スノウはおそらくこの時から中国共産党のシンパとなっていたことは容易に想像できる。しかし、あまり高尚な趣味をもっていないことも明らかであり、現在でも左翼の学者などにより一部が引用されていることは残念なことである。この一節のような考えの持ち主だと付記すべきだろう。本質は醜いレーシストである。
また、スノウは一応高名なジャーナリストだから、アメリカ・太平洋艦隊司令長官ヤーネル提督と面会でき、松井石根上海派遣軍司令官との会談を記録している。
松井大将は一見実に気持ちの良さそうな老紳士だったので僕もそのお道楽がなにかをちょっと尋ねたくなった。松井が予備役から現役に戻されたことは知っていたから、絵をかくとか、菊づくりをやるとか、鳩を飼うとか、そういったことの方が良かったのじゃないかと思ったんだ。ところがこの質問にどう答えたと思う?松井大将は5尺(1メートル50)の威厳にみちた体をピンと伸ばして、まばたきもせず言ったもんだ。「提督、長年の私の道楽は日本と中国の間の誠意ある友好関係をすすめることでした。」とね。
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さすがに、ヤーネルは松井の答えの意味の重大さを理解しスノウに伝えようとしている。しかしスノウは日本帝国主義は西洋帝国主義と比較して文明をもたらすことを知らず破壊しかもたらさないと、低俗西洋人趣味と日本人への軽蔑観を露にする。
一方ヤーネルはおそらく、松井の信念が日中兄弟意識であり、日本が兄であると思っていることを見抜いたに違いない。反面、中国人は兄弟と思うことがなく、仮にそれを認めても自分が兄だと主張することを。そして兄弟は戦争をしてならず、たとえそうなっても一刻も早く和解すべきことも。そして軍関係の日本理解の中心だった「菊と刀」(ルース・ベネディクト;この時まだ出版されていないが論文が軍に提出されていた。)を読んでいたと思われる。他国の理解について、専門家の分析したものを、将校に配布し、荒唐無稽でない外国人への理解を共有することは必要である。スノウのような人物が軍人であったとするならば、アメリカは悲劇と言わねばならない。
松井の大アジア主義はたとえ中国古典だけに裏打ちされていたとしても、国際法(条約)を前提とする国家間の紛争に適用しうるものではなかった。もちろん、これが日本の外交政策の中心だったと言うこともない。
松井は軍人として優秀だった。上海攻防戦の攻撃のタイミングのとり方は名将のそれである。しかし、大アジア主義の内包する危険、「戦場ルールの中国化」に警戒的だったとは思えない。また松井の指揮はフランス軍事学に裏打ちされたものであり、それ自体は西洋のものである。日本人は常に誤解しがちである。「4000年の歴史をもつ中国はたとえ貧しくても古典や歴史を大切にし、精神的な向上を求めている。」と。おそらくスノウも松井もこの意見に賛成だろう。しかし大多数の中国人は物質的近代化=西洋化を求めているのではないか。
この上海攻防戦と南京事件の日中関係に落とす影は長く暗い。
上海攻防戦のような一方的な勝利は、いかなる二国間関係にも深刻な影響を及ぼす。そのうえ、捕虜の大量虐殺を伴った。中国(共産)政府はこの虐殺事件を民間人の虐殺事件だとして、捕虜の虐殺だと言う見解をとっていない。理由は敗残兵や便衣兵は兵士ではなく民間人だと言うものである。もともと捕虜の虐殺は条約から責められるので民間人の問題とは直接が関係がない。中国政府の主張は戦争犯罪が戦時国際法ではなく中国法もしくは共産党の指令にもとづくべきだと主張しているに過ぎず到底受け入れることができないだろう。
そして日本国内にも中国兵は捕虜をとらなかったのだから、日本側も当然の処置をとったまでであり戦時国際法は適用されないとの声がある。これは誤りである。
また中国兵の規律が悪いもしくは戦意が低かったという声も存在する。これも誤りで中国兵は国家の危機に直面し立派に戦った。同じく日本兵がこのときだけ軍律を無視したというのも証拠がない。兵士は予備役が過半数を占め町にいる普通の青年であることを忘れてはならない。
兵士が当時アジア征服を学校で教育されたわけでなく、中国人を劣等意識または優越意識でみたわけではない。単純に国の要請に従ったのだ。軍部にしても長期間準備していた形跡は全くない。全て即興で行われ、捕虜の処遇ですら事前に検討されなかった。
繰り返すが、中国兵の南京城外の死者に捕虜となり殺害された人間が含まれていない、と言うのは無理がある。そして残虐さでソ連軍のカチンの森でのポーランド将校の虐殺、ドイツ国防軍とSSによる政治将校の虐殺と並び程度において劣ることはない。むごい事だったと表現するより仕方がない。そして責任者はおそらく中堅将校だが東京にも上海にもいた。そして捕虜殺害が全ての部隊に広がっていたことを考慮すれば東京に最終責任者がいたのではないか。おそらく戦犯容疑ともならず、その後アメリカ機関に雇われた人物だろう。
松井大将はA級戦犯容疑に問われ、刑死した。花山老師への最後の言葉は南京での犠牲者に詫びるものだった。死の床での悔恨は必ずしも真実ではない。しかし、日本が幸運にも得た稀代の作戦家をこのような形で失ったことは残念なことである。松井は道楽は別にして生粋の軍人であり、名誉をもって銃殺される形はとれなかったのだろうか。
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