スナイドル銃

スナイドル銃はマスケットとマルティニ・ヘンリーのつなぎとしてわずか10年間制式銃として使われた。ただ採用当時はもちろんつなぎという意識はない。イギリス政府はこの銃を1866年に採用した。ところが日本にはいち早く導入され明治11年(1877年)には西南戦争で政府軍の制式銃として採用されかつ支給された。SNIDERが英語の綴りであるがおそらくオランダ式の読み方だろうか、日本ではスナイドルと呼ばれた。

マスケット銃など先込め式の小銃は1700年代から騎兵によって改善が求められていた。騎兵にとり馬上で停止し先込めすることは容易ではなかったためである。始めに考えられたのは、弾丸や火薬をそのままにして尾栓を折りたたむ、ネジで簡単に開けられるようにする、一部に穴を空けフタをするなどの手段で、いずれも実用化された。ただ軍用とはならず馬による狩猟の際使われたのが主だった。これは製品バラツキのため均一品を供給することが難しいこと、耐久性が確保できなかったこと、また発射時のガス漏洩が完璧には防止できなかったためである。

M41とミニエ銃

後装式の軍用小銃をもっとも早く導入したのはプロイセン陸軍である。

1838年ドレイゼ(Johann Nikolaus von Dreyse)がその原型を発明した。認可されたのはその2年後であり製造は1841年から始められた。M41として知られるが、兵士には1848年まで支給されなかった。当時、ある程度の生産が完了されねば支給しない方針をとっていたようだ。またM41の生産は1869年で打ち切られている。この小銃は巨大なもので全長56インチ(142.24センチ)、91ポンド(4.12キロ)あった。

ただ近代的な軍用小銃の要素は備えていた。つまり撃針は80度つまり垂直に近い角度で打ち下ろされたが、撃針の操作と尾栓の開閉は一体化されていた。実包が装填されれば閉める過程で内部の軸さやによりバネがかかるまで前方に押し出された。口径は0.607インチ(154ミリ)で4条の条が銃身内部に刻まれていた。ただ実包はまだ完成の領域に達していなかった。実包の構造は弾底に圧縮紙をはり、火薬はそれと一体となって紙で包まれていた。発火装置は細い針(従ってこのタイプの銃 は針式=needle-gunと呼ばれた。日本語の撃針の用語はここから来ていると思われる。戊辰戦争で薩長軍の一部で使用された仏製ミニエ銃がそれにあたる。)で薬包の基部を叩くことで発火させた。針の先は水銀化合物が塗布されていた。壊れやすく、兵士は針のスペアを携帯した。

ただこの方法では尾栓からのガス漏洩を防ぐことができず、また前方へのガス拡散も一定していない。このため命中率となると疑わしく、その複雑な照尺方法にもかかわらず有効射程距離は250メートル程度だった。

アメリカ南北戦争が小銃の発展に大きな刺激を与えた。とりわけ1861年から北軍は相次いで新型銃を送り出し、様々な形式が試された。そして1864年の丁普戦争でのプロイセンの圧倒的な勝利は後装式の小銃の導入が必須だと思わせた。

スナイドル銃

イギリスは結局ミニエ銃の形式は制式銃としなかった。だが後装式への流れを必至と受けとめ、動きに遅れまいと1864年に陸軍省は後装式(元込め)新型銃の購入のため公開試験することを公告した。ウールウィッチ武器庫で応札があった50種類の新型銃がテストされアメリカ人ヤコブ・スナイダーの提出したものが採用された。スナイドル銃はほぼ同時にアメリカとデンマークでも採用が決定されている。

この銃が優れていた秘密は、銃そのものよりも実包(カートリッジ;弾丸と薬包の組み合わせ)にある。この銃のための実包はボクサー・カートリッジ(武器研究所のBoxer大佐から由来する)と呼ばれ薬莢は真鍮でできていた。後装式小銃の技術上の最大の難関は尾栓(ブリーチ)から発射時、ガスの漏洩を防ぐことにある。それまで防止する方法として開詮部分の密閉度を高めることが考えられていたが、それでは漏洩を完全に防止することは難しかった。このため薬莢の基部に(図の右側)にリング状の突起物をつけ、更に真鍮が爆発時均等に拡大することによりそれを防止した。

それ以外にもこの実包にはさまざまの工夫がこらされていた。撃針が当ると火薬が爆発する雷管(Primer;これはそれ以前から発明されていたが完全密閉し耐水性をもたせた)、弾丸部分の条(銃身に4条の螺旋が刻まれていた)、火薬形状、弾丸と薬莢の接合方法(薬莢と弾丸が螺旋で組まれている)、火薬と弾丸の間のコットン、軽量化のための弾丸後部中心の空洞などである。

当時このように小さな金属物を加工する精密工作機械がなく、イギリス陸軍は戦死した兵士の孤児となった子供を集め、その小さな指で実包を作らせた。欧州陸軍国はイタリーを除き小銃の小口径化がなかなか進まなかった。この一つの原因が実包の小型化が困難だったことは容易に想像できる。

イギリス陸軍の小銃の名称

小銃の正式名称は「発明者+製造工場(Enfield)+Mark番号」である。従ってスナイドル銃の初めの型式は、「スナイダー・エンフィールド・マークT」となる。エンフィールドはロンドン北西部の地名で、そこに陸軍小火器工廠があった。ところがマスケット銃の発明者は知られていないから、1866年のスナイドル銃制定の前は例えばP63エンフィールド(プロダクション1863年)と呼ばれた。すなわち1863年以前製造され、スナイドル銃に改造されなかった銃は全てエンフィールド銃と呼ばれた。

ただこれらのオリジナルのアイデアは既にアメリカで開発されており、いわばそれを集大成させたものだった。

スナイドル銃は1866年9月18日に製造承認された。しかしこの銃の噂はそれ以前から広まっていた。カナダ政府はアメリカに住むアイルランド人の侵攻計画が進んでいることをおそれていた。アイルランド人は1866年3月その団体フェニアン協会総会をニューヨークで開催しカナダを攻撃することを宣言した。スナイドル銃3万丁が1867年春船積みされた。しかしアイルランド人の侵攻は1866年5月だから間に合わなかったことになる。この事実は当時ヨーロッパよりアメリカの方が小火器の進歩が早かったことを示す。

1868年から量産体制が取られたが標準とされた0.33インチ(8.382ミリ)の他各種の口径のもの銃身を切り詰めたものなど多種が作られた。これはマスケット銃の名残で口径の統一が重要だとまだ認識されていなかったためである。一応0.45インチは越えない指示が出された。

従来のマスケット銃が普通の射手が1分間に4発しか発射できなかったのと比較してこの銃は12発が可能だった。そして腔内の掃除は300発まで必要がなかった。更に当時の利点として既存のマスケット銃に穴を開けることにより容易に改造が可能だった。ところが軍人が最も期待するもの、命中率にあまり改善が見られなかった。

マスケットもスナイドルも施条は4から5条されているのが普通で、これは影響しない。弾丸の材質は鉛から銅をかぶせた鉄に変えられた。これは弾丸の重量を軽くするためだった。しかし先端部分は丸く、飛行中の弾丸は音速を超えることを考えればまだ適切ではない。(初速は秒速1100メートル)そして火薬は黒色火薬のままで、爆発力の向上は期しがたい。

射程距離はもし45度の角度で発射すれば1500メートルあるが、これでは命中させることができない。要するにボクサー式実包が発明されライフルが施されてからは命中率とは弾丸の低伸性の問題となった。つまり弾が飛行中にお辞儀をしては命中させることは難しい。スナイドル銃で人間に狙いをつけ命中させる距離は180メートルに過ぎなかった。この当時の段階でこれを向上させるには初速をあげるか口径を小さくするしかない。この事実は知られており、製作も可能だったが前述の実包製作上のネックから量産が難しかった。

武器とは単に性能が優れていても採用は難しい。量産が可能で耐久性、使い勝手がよくなければならない。現在の軍用ライフルは1000メートル前後まで人間に狙いをつけることができる。これは火薬の発達と口径が5.5ミリ前後と小口径となったためである。

これら本質的な問題は解決が難しく、イギリス陸軍はこの銃を12年で廃銃としてしまい、マルティニ・ヘンリー銃に乗り換えた。


第二次アフガン戦争に戻る


マルティニ・ヘンリー銃
マスケット銃
リー・エンフィールドライフル