日華事変の直前に日中間における外交は存在したが、中国が戦争を企画しているにもかかわらず、日本側外交官はそれに対し全く認識しようとしなかった。蒋介石の戦争計画は上海のゼークト・ラインに日本軍を誘引し、そこで日本兵を鏖殺することである。
この計画の利点は、戦場が上海であり、日本軍は攻勢に出ており、外見上、日本軍が先制攻撃をかけたようにみえることである。だが、このような外見は軍事専門家であれば簡単に見抜くことができる。このため、日本軍に、なんらかの「第一弾」を撃たせねばならない。
日華事変の直前外交とは、中国の挑発のためのテロ事件について、事態を呑込めない日本の外交官が「大事に至らない」「日中の良好な関係を維持できる」ように中国側に要請するものだったに過ぎない。
そして、直前外交の中心にいたのは、反幣原喜重郎であり、かつ田中義一・内田康哉から買われた有田八郎だった。
有田・張群会談
張 群(1889-1990)
字は岳軍、四川省出身保定軍官学校から日本の振武学校に留学。その間、蒋介石と生涯の友人となった。また北一輝とつきあった。1911年帰国し、辛亥革命に参加。1927年、蒋介石の北伐には参謀長として参加した。1935年外相となり、以降は文官として活躍するようになった。1938年行政院副院長、1940年四川省主席などを歴任。1947年行政院院長。渡台後、1950年総統府資政、総統府秘書長などを歴任した。1960年以降も数度来日している。その時、「日本の軍国主義的傾向」について警鐘を鳴らしたが、すでに古惚けた人物としてしか扱われなかった。
1936年2月末、有田八郎が駐華大使の任命を受けた。外相は広田弘毅であり、有田はベルギー大使からの抜擢である。有田は広田の6歳年下であり、それまで外交官として業績をあげたことがない。ただし、広田は無能な人間を偏愛する。
有田は革新官僚の系列に属していた。
そのとき、2・26事件が勃発した。事件のあと斉藤内閣は瓦解、西園寺は後継首班として広田を指名した。そして、外相について吉田茂が予定されたが、軍部の「吉田は自由主義者だから」反対により阻止されたとされる。実際は広田が忌避したのだろう。
広田は、吉田の交代として有田を指名した。親任式が行われたのは4月1日であり、有田は駐華大使として張群外務部長(外相と同じ)と会談した。内容はこのようだとされる。
- (有田)私は今度日本に帰ると外務大臣になるかもしれない。そうすれば日中国交調整問題について、正しい観念をもっていなければならないから、お国を去る前に、しっかりあなた方と意見の交換しておきたい。それは旧知であるのを幸い、お互いに外交部長だとか大使だという資格を離れ、裃を脱いで友人間の話し合いをした方がよいと思う。一切危惧の念を去って自由に忌憚なく話そうじゃあありませんか」「華北問題は解決しなければならないが、今となってはあなた方に相当譲歩してもらわなければうまく行かない。というのは、この前(1928年)私が南京へ来てあなた(当時秘書長)の通訳で、蒋介石首席と話をしたとき、あの条件で満州問題を解決しておかれたら、その後満州国が出現するようなことはなくてすんだであろう。そうでなかったばかりに満州問題は非常に難しくなり、ついに爆発してしまったのだ。
有田のいう1928年の蒋介石との会議とは田中義一密書事件である。この時、田中は「満州における混住、日本人の土地所有を認めれば、治外法権の廃止(=租界の廃止)を認める」という提案を行った。だが蒋介石は一蹴した。満州は張作霖の施政権下にあるうえ、日本が租界を返還しても、他の外国が応じるかは予断を許さなかった。そのうえ、外国人の土地保有禁止は外国人には理解できないが、中国の国是である。
また、有田の話法には問題がある。というのは満州事変が日本による武力行使で開始されたことは明らかだ。有田もそれを前提として話をしている。ただ、日華外交交渉が不調だとすれば、武力行使を容認していうように聞こえる。
- (張群)実は自分らとしても、あの時問題を解決しておきたかったのだが、有力な方面(いわゆる欧米派のことであろう)に反対があって、思う通りにならなかった。まことに残念だ」
中国人が、言い訳に自国内反対派を持ち出すことは、いつものことである。日本人が対中問題となると、ありもしない欧米の介入を妄想することも計算に入れている。
- (有田)華北問題もこれと同じで、今のままにしておくと、また困難な事態が生じてくる恐れがある。率直にいうと、あなた方は事態がすでに五のところまで進んでいるのを四とか三とかのところまで逆戻りさせて、解決しようとしている。そんなことをしているうちに事態はさらに進んで五が六になり、七になってついに取り返しのつかないことになってしまう。中国側において、大所高所から見て、政治的に解決する用意があって欲しい。
この会談の前、有田は梅津・何応欽協定にもとづく冀東政権について解消せねばならない、と思った。これは当然のことで、冀東政権そのものが戦争の原因と化しているわけである。休戦協定の一部をなす野戦軍司令官同士の協定=梅津・何応欽協定は、双方の武力衝突を解消するため、満州と中国の間の軍事的中立地帯を設けたものである。
こういった休戦協定の当事者は、あくまでも野戦軍司令官であるが、中央政府とりわけ首相・外相の了解をとるのは当然である。ところが、外務省とりわけ広田弘毅は休戦協定について軍人の職掌であり、関与しない、という無責任な発表を行った。現在、外務省が「外交大権」を軍部から守るための措置だった、と解説されることがあるがそうではあるまい。広田特有の役人としての縄張り根性からの所産だろう。
総じて、国境が不分明だったり、なかったりすることによって戦争は発生するのであって、国境に両属地域など設ければ、武力衝突を期待するかの如き処置である。
冀東政権は陸軍支那通(大アジア主義者の巣窟)と宋哲元(第29路軍)のなれ合いの所産であるが、外交官が逃げ回ることは、果たして国益を理解してのことだろうか?
ところが一方有田は交渉テクニックからか、休戦協定として梅津・何応欽協定と土肥原・秦徳純協定が成立済みであり、それを前提とすべきと主張した。これにたいし張群は蒋介石の意向をうけて、華北の完全主権回復を要求した。華北における中国の主権制限は北清事変の結果であって、日本だけと交渉して解決がつく問題ではない。どの国の外交官でも、そういった複数国家にまたがる条約上の利権解消を主唱することは難しい。
有田は足して二で割るような解決策を追求したが、有田のような主張(五が六になり、七になってついに取り返しのつかないことになる)は「軍事的脅迫」にあるとしか思えないがどうだろうか?ここが日中交渉をやる日本の外交官の宿痾がある。外交交渉と友人同士の話し合い(裃を脱ぐ)を混同してしまうのだ。蒋介石が有田の発言を軍事的威嚇とうけとったことは確実である。
有田はこの種の会談を4回ほど張群としたとするが、当然前進はなかった。張群は日本から軍事的威嚇をうけた、と報告した。また、有田の政治的要求とは「混住」と「土地所有公認」の中国内治安維持の約束である。具体的には居留民保護であるが、蒋介石政府に能力があるかを測るべきであったろう。
有田は外相就任のため日本への帰途、満州に立ち寄り、関東軍首脳(植田司令官、板垣参謀長、田中隆吉、花谷正ら)と会議をもったが、そこで、板垣から「南京政府などと話しても駄目だ」といわれた。有田はこの発言に憤ったが、板垣の方が正鵠を得ていたのではないだろうか。
単に、「交渉上手」にかけるよりは、居留民保護に全力を注ぎ、蒋介石の好戦性に警鐘を鳴らすべきだった。
相次ぐテロ事件
蒋介石は有田の軍事的恐喝にたいし先手を打たねばならぬと考え、テロ事件を引きこした。
- 萱生事件 (1936.7.10)
- 成都事件 (1936.8.24)領事館の設置を聞きつけ事前報道を狙った大阪毎日新聞記者2名と雇員2名が集団暴行をうけ、うち2名が死亡。2名が重傷を負った。
- 北海事件 (1936.9.3) 広東省北海・珠海中路の日本人商店の店主が殺害された。海軍は北海に艦隊を派遣し、武力行使を視野に入れた調査を開始した。実力で抵抗するとした第19路軍(上海事変のさい登場した抗日意識の強い軍閥)は抗しえずとして撤退した。
- 漢口事件 (1936.9.19) 漢口の日本領事館付き巡査(吉岡庭二郎)が、日本租界の日信埠頭で中国人に後頭部を撃たれ即死した。海軍は陸戦隊を上陸させた。
- 出雲事件 (1936.9.23) 上海の路上で「出雲」乗り組みの水兵が襲撃され、一名死亡、二名重傷を負った。海軍は「対支時局処理方針」を決定し、武力行使・居留民の引き上げなどを考慮した。
川越・張群会談
川越・張群会談は、実質9月23日に開始された。この会談では、外務省はテロ事件の方針を訓令できず、事情を聴取するに止める積もりだった。だが、中国側の反応は驚くべきものだった。すなわち、以上のテロによって、自国の立場が、あたかも好転したように錯覚しているのだ。
張群は、あたかも訓令をそのまま朗読する調子で以下を読み上げた。中国側はテロを梃子にして既存の諸協定の解消を迫った。
- 塘沽停戦協定及び上海停戦協定の取り消し
これら協定は一時的のものにして今日すでに存続の必要なく、とくに今回北支辺防を協議せんとするさい、かかる軍事的束縛を支那に加える必要はないので、またこれの廃止により日本の侵略及び脅威にたいする支那国民の疑惑を解消できる
- 冀東政府の解消
冀東組織は日支両国にとり有害無益なること言うまでもなくこれを取り消すことが国交調整上必要である
- 華北自由飛行の停止
右は説明するまでもなく、日本側にて自発的にこれを停止すること最も望ましく、もし北支において民間航空連絡を希望するならば上海・福岡航空連絡の方法に照らし協議をとげ現在の事態を合理化することは考慮するを妨げず。
- 密輸停止
密輸が正常なる通商を妨げることは日本の商人も認めている。我が方で関税率引き下げを考慮する以上、日本においても公なる精神をもってこれが停止を考慮せられたい。支那側お取り締まりを妨害することをやめ、その自由を回復せらるるよう致したし
- 冀東及び綏遠における偽軍の解散
チャハルと綏遠も一部を撹乱している偽軍を解散することを希望する
一般的に停戦協定の取り消しとは再戦を意味する。ただこの時点で、中国政府に再戦の意図があったかは、はっきりしない。だが、1年後の蒋介石の方針をみれば、戦争を挑み勝利できると誤算していたのだろう。テロを実行しながら、それを反省するのではなく、逆に何か要求するという中国の高圧的かつ非道徳的な態度は、一貫して改まることがなかった。
また、上海停戦協定によって設定された非武装中立地帯に蒋介石はすでに1万個以上のトーチカを構築済みであり、その廃止は、事後承認を得る目的があった。すなわち、この時点で蒋介石は上海を主決戦場とすることを決意していた。すなわち、この高圧的態度は軍事的な自信が背景にある。
川越は混乱したと思われるが、これを本国に訓電し、返事を待った。だが東京の外務省は軍事には無関心であり、この中国の理不尽な要求について軍事的背景を読み取ろうとせず、軍部に通知することもなかった。外務省にとっては、停戦協定は軍部の所轄であり、関知しないことなのである。
10月2日、外務省は川越に蒋介石にたいする交渉方針を訓令した。
- (防共問題に関しては)日支軍事同盟にいたる一発端となるべき日支間の防共協定を北支五省につき締結し、
- 赤化しそうの侵攻防止を目的とする一般的協定を支那全般につき締結するほか、北支問題については南京政府をして北支の特殊性を認め、五省に特別の政治組織を創設せしむることを要求し、
- その他の懸案としては福岡上海航空連絡、関税引下、邦人顧問の招聘、不逞鮮人の逮捕引渡などの実行を要求し、
- また排日取締については今日まで予備的に話合が成立したことを即実行する
一目瞭然でわたる通り、外務省は停戦協定にわたることは巧に避けている。軍部の権限には容喙できないのである。また川越・張群会談と平行して、事務レベルの須磨弥吉郎総領事と高宗武外交部亜州司長との会合も開かれており、テロ事件の処理にあたっていた。ただし、上記事件の集中度合いまた日本の官吏や記者が集中して狙われており、政府の命令または使嗾によったことは明らかである。だが、当時の外交官に居留民保護の意識は低く、中国側の暴徒・跳ね上がり分子の行為という説明に、無理やりのろうとする傾向があった。
そして、蒋介石は上海で決戦に臨む意欲は強いにもかかわらず、日本から中国に同盟を申し込むという愚挙に出ていることに注目すべきだろう。こういったジャレ猫外交が、この時期の日本外交の特徴だった。
また、北支五省の「緩衝地帯」案は、日本側の唯一の積極的な提案であるが、中国人にしてみれば北宋時代の燕雲16州問題を想起させるものであり、なんとも語感の悪いものであったに違いない。地図で一目瞭然の通り、満州はともかく北支五省の喪失は中国の一体性にとり致命的である。これを持ち出すことは、中国人に統一の夢を棄てさせることであり、独立北支政権を支援し中国を決定的に分裂させることである。当時、蒋介石の権力基盤は、まだ十分ではなく張群ら職業外交官を説得せねばならない時期でもあった。
海軍の開戦方針
中国におけるテロ事件を、「不詳事件」だといって済ますことができたのは、有田八郎ら一握りの外交官であったに過ぎない。新聞論調はテロを厳しく批判していた。陸海軍が、こういったテロについて軍事力で解決せねばならない、と考えたのは当然である。また、それによって「第一弾」を撃たせることが蒋介石の目的でもあった。
初めに動いたのは海軍である。
テロ事件の発生は外交課題となった北支ではなく、揚子江流域と南支で発生していた。海軍はテロが蒋介石の指示にもとづいていることを見抜いていた。永野修身海相は、上海事件をうけて、9月28日、広田首相と有田外相にこのような廟議決定を要求した。
- このさい国家的決意の確立を要す
- 日支関係の是正は、わが方の北支にたいする態度が解決の鍵なりここにおいて次の二案を考慮することを要す
@わが方の要求を遮二無二貫徹し、彼、肯んぜねば武力行使に訴える
A北支にたいする我が要求に無理の点を反省自省し、公正なる態度をもって対支折衝にあたる
これは非常に筋の通った考え方であり、外務省批判である。
この時、陸軍は石原莞爾に牛耳られていた。石原は中国との戦争を恐れていた。そして、この戦争が長期にわたる塹壕戦になると考えていた。第一次大戦後期において発明された新戦法=浸透戦術について理解が浅く、日本軍は上海のトーチカ群を突破できない、と信じていた。
この結論に従えば、日本から開戦、すなわち先制攻撃をかけることはできず、反面、中国によるテロ攻撃を食い止められない以上、中国側要求に屈服するしかない。ところが、石原を中心とする陸軍中央はそのように考えても、関東軍や天津軍(支那派遣軍)、特務機関にいる陸軍支那通は、北支は軍閥操縦によって、ある程度治安維持に成功していると考えていた。すなわち。海軍は陸軍の本部と現地軍の相違をついてきたのだ。
陸軍は戦術、現地軍は北支、外務省は宥和政策しか頭になく、国論は分裂していた。
昭和天皇の決心
ところが、10月に入ると、中国は軟化した。そしてテロも急速に収まった。
川越・蒋介石会談
川越の本省あて報告はこのようである。
10月8日、政府の訓令を体し、蒋介石と会見した。
- (蒋介石)は成都事件およびその他の不詳事件について深甚なる遺憾の意を表明した。これら事件について1日も早く外交交渉によって解決し、かつ将来この種事件の絶滅を期す旨を述べた。
- (川越)このさい速やかに国交を調整し、事件によって生じたる暗翳を一掃せねばならない。国交調整のためには、両国共通の一大目標を掲げ、国民の意識をそちらに向け、防共問題を提議し、北支問題およびその他の我が方要求に言及した。
- (蒋介石)防共に異議はないが、国民には連ソを主張する向きも多い。まず空気の転換が先決問題で、この面で援助を期待したい。
北支問題については北支のみでなく、全国に亘る日本よの協力を希望する。これは主権の保持と行政の統一を妨げない前提で行うことが必要である。
今後の具体的判断は張外交部長との交渉を継続する中で行い、国交調整の発端となることを期待する。
川越は、テロ問題についての陳謝を了としたようである。蒋介石が自ら命令したテロ事件を、自ら陳謝したところで何か意味があると思われない。ただ川越は、このテロ犯に同盟の申し込みをするわけである。中国内におけるテロ事件は、大体のところ政府が命令しているのだが、当時の並の外交官は理解できなかった。
それでは、なぜ蒋介石は軟化したのだろうか?
日独防共協定締結のためである。この協定は11月28日に発表されたが、ヒトラーは事前に中国に連絡することを命じた。両国は、日本を仮想敵とする、ハプロ条約という秘密軍事条約を締結していた。蒋介石はドイツの離反により、早急な上海攻撃は難しいと判断した。
ハプロ条約
そして、12月12日、重大事件が発生した。西安事件である。この事件は、日本軍によって満州そして北支をおわれた張学良が「兵諫」を行ったものである。ある種のクーデターまたは軍閥抗争に過ぎなかったが、事件は極めて中国的な方法で解決された。すなわち、蒋介石の仇敵、共産党が間に入り、蒋介石救出に動いたのである。
それまで、蒋介石の権力基盤は十分ではなかったが、飛行機で張学良と一緒に南京でタラップを降りる姿が映画となると、全国における人気が急速に盛りあがった。蒋介石が国民党の中で磐石の権力基盤を築いたのはこの時からである。
10月8日以降も、川越・張群会談は続けられたが、中国側は冀東政権の解消と行政一体性の維持を譲らず、全く前進しなかった。ただ張群も「弱腰」であるとして、王寵恵と交代させられた。
風見章の中国旅行
林内閣の成立と佐藤尚武の平和外交
広田内閣は、第70議会における、浜田国松と寺内寿一陸相の「腹きり問答」で瓦解した。
その後、宇垣一成に組閣の大命が下ったが、阿南惟幾陸軍省兵務局長の画策により、現役の陸軍大臣を得ることができず、組閣に失敗した。阿南は米内内閣をもこの手で倒閣させている。だが、これは陸軍派閥抗争であって、外交面に影響を及ぼすことはなかった。代わって組閣したのは林銑十郎であって、これまた外交に見識のある人物ではなかった。
佐藤尚武(1882−1971)
津軽藩士田中坤六の次男として大阪で生まれた。1905年、東京高等商業学校在学中、外交官試験に合格した。同期に佐分利貞夫、1年前に松岡洋右、1年後に広田弘毅・吉田茂がいる。ロシア畑を歩む。1942年駐ソ大使となった。任期中にソ連により、日ソ中立条約に違反し、満州他を侵略された。それにもかかわらず、在任中の「厚遇」を感謝することをモロトフへの離任挨拶とした。最後まで戦争が何によって開始されるのか、わからなかったのだろう。戦後、参議院議長、伊勢神宮奉賛会会長を歴任。古きよき時代の無能外交官である。
すなわち日中外交は、西安事件もあったが、双方の国内事情により、1937年2月まで中断した。そして、林は短い間外相を兼摂していたが、3月佐藤尚武駐仏大使を外相に据えた。林は初め、小幡酉吉を起用したが、病気のためうけられず、代わりに外務大臣秘書官安藤義良の推薦と石原莞爾とにより就任したとされる。
ところが、佐藤尚武は3月8日の貴族院本会議、また捕捉を3月12日の衆議院本会議で予想外の「平和」演説を行った。
- 欧州政情に関して、(中略)欧州には果たして戦争が勃発するような危機が、其処に存在しておるのかどうなのかということにつきましては、私はあるいは楽観論者であるかもしれませぬが、(中略)私は多大の疑問をもっております。
- 私は帝国の対支根本政策については別段変更の要を認めている者ではありません。(中略)私は日本国のような国柄は、出来るだけ国民を落ち着けて、この焦燥気分をなくすということが最も必要なことと思います。(中略)本当の意味の危機、つまり戦争の勃発という意味の危機、日本がこれに直面するのも、しないのも、私は日本自体の考えいかんによって決まるのであるという風に考えるのであります。(中略)日本は危機を欲しない、そういう危機は全然避けて生きたいという気持ちであるならば、私は日本の考え一つでその危機はいつでも避け得ると確信いたします。
20世紀の大国の外相の演説のうちで最も愚かなものの一つだろう。
すなわち、この演説の2年半後、ヒトラーはポーランドに侵攻し、第二次大戦の火蓋がきられた。更に、この演説の半年後、蒋介石は上海の海軍陸戦隊を攻撃し、中国の考え一つで日華事変が開始されたのだ。
佐藤のような中国人が戦争を始める能力すらないという思い込みは、この当時、石原莞爾ら陸軍首脳にも共有されており、必ずしも常識はずれのものではない。だが、欧州政情に関して言えば、ヒトラーによるラインラント進駐やベルサイユ条約破棄はすでに開始されており、各国ともドイツを原因とする戦争の準備に入りつつあるときだった。能天気な人物が、国民に無意味な説教をたれ、現在にも及ぶ中国への無理解を広めたといってよいだろう。
問題はこれだけに止まらない。蒋介石がこの演説を聞いて、「日本は弱く、戦う力がない」といった感情を抱いたのは疑いない。
蒋介石は4月11日「日本の対外侵略はすでに極限に達している。物極まれば必ず反す。日本はまもなく失敗するであろう」と反撃の意図を明白にした内容を日記に書いている。
だが、林内閣も5月31日、4カ月足らずの短命で終了した。後継内閣首班は近衛文麿で、再び、広田弘毅が外相となった。広田も佐藤にならい、自己がうちだした「広田三原則」を取り下げ、経済優先であると宣言した。広田は原理・原則から遠い無原則な男であり、こういった譲歩が蒋介石にどのような印象を与えるのか、全く定見をもたなかった。
日中間の外交交渉が途絶えたことだけを憂え、再開を期し譲歩したものであるが、蒋介石の目はすでに上海に注がれ、日本が第一弾を撃った、と思わせる情況をつくりだすことだけが目標となりつつあった。

サンケイ新聞社 『蒋介石秘録』上下 サンケイ出版 1985
栗原 健 『佐藤尚武の面目』 原書房 1981
佐藤尚武 『回顧八十年』 時事通信社 1963
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