昭和天皇の責任追及は主として左翼歴史学者によって行われた。そして注意せねばならないのは、左翼でもマルクス・レーニン主義を主張する共産党系の人々の追及はそれ程厳しくなくむしろ社会民主主義に根拠を置く人々の方が厳しい。
これは当然で共産系の人々にとり、君主制度は前資本主義、封建主義の制度的一部であり、君主は資本家という最大の敵に劣後する。(終戦直後、高倉テルらにより天皇は地主で資本家だという主張がなされたが、党中央から撤回されている。)
一方社会民主主義者は国家による労働者への福祉と大企業の国有化を主張する。この点からは君主制度は経費のムダ使いという事になる。
これらの観点は驚くに値しない。また2・26事件の首謀者により支持された北一輝、また大アジア主義かつ農本主義の石原莞爾は実質的に大きな政府を要求する社会民主主義だから反君主制となるのは無理はない。
ところがこれらの系列の他に文民、旧軍人の良識派とされる人々が昭和天皇を批判している。逐次に取り上げてみよう。
高木惣吉(元海軍少将、東條内閣打倒に奔走)
「ただ開戦、終戦というような重大な関連=むしろ主動(ママ)的立場にあった参謀総長、軍令部総長の地位は、天皇の伝達機関であって、国務各大臣のような責任機関でなかった。しかも総理以下各国務大臣は、統帥に関して一切関与できなくて、国務と統帥の調節は憲法上、天皇以外にこれを裁決される地位は存在しなかったのである。…」
「一国国政の最高責任者(=天皇)は国民民福のためには、危難にのぞんで憲法違反の責を負うて断頭台に登る覚悟と勇気とを願うものである。」
後段は相当に厳しい。ただ天皇に憲法違反を勧めているから、論旨としては矛盾だろう。国民の福祉はあらゆる政策の根拠として持ち出される。継戦論ですらその例外ではない。天皇が憲法や法律に違反することは選択でなく直接国家にとり重大だろう。
高木惣吉(1893−1979)終戦時海軍省教育局長
ただ高木にとりこれは筆の走りすぎで本当の意見は前段だろう。問題は日本では天皇の代理者が存在しなかったことである。ドイツ第二帝国も統帥権は独立していたが、その統帥権の行使者は(陸軍)参謀総長である。つまり戦争中は参謀総長が皇帝の名前で命令を発する。
ところが日本ではこうなっていない。第一に陸海軍が並列である。第二に参謀総長と軍令部総長は作戦上の権能を有していなかった。陸軍参謀本部は軍編成を考えるだけで実際は、現地軍が作戦を決定した。実際は外交や予算の制約があるから現地軍の判断では限界がある。
すると参謀本部の若手が口を挟む。これが幕僚統制である。
海軍では連合艦隊司令部である。つまり現地案を照合し一致した場合のみ陸海軍の統合作戦が実施された。これでうまく行くはずがない。要するに権限が分散されすぎたのである。しかしだからといって統合する責任を天皇が果たしていない、というのは言いがかりではないだろうか。
ところがこれと同様の批判を近衛文麿が行っている。
近衛文麿(公爵、三次に亘って内閣を組閣)
「統帥権の問題は政府に全然発言権がなく、政府と統帥部との両方を抑えうるものは、陛下ただお一人である。しかるに陛下が消極的であらせられることは平時には結構であるが、和戦いずれかというが如き、国家が生死の関頭に立った場合には障碍が起こり得る場合なしとしない。
英国流に、陛下がただ激励とか注意を与えられるとかいうだけでは、軍事と政治外交とが協力一致して進みえないことを、今度の日米交渉(昭和16年)においてことに痛感した。」
この発言は自決前(昭和20年12月)に令息に与えたとされる。
ところがこの発言を聞いた昭和天皇の発言は激烈で、「どうも近衛は自分の都合のよいことばかり言っているね。」というものだった。
この話し自体有名だが、天皇の発言とかみ合っているのだろうか。また近衛の発言と高木(海軍良識派として取り上げられることが多い人物である。)のが期せずして一致しているのはなぜだろうか。
近衛の発言は、日華事変の北支作戦について、永野陸相が作戦の詳細を閣議で説明することを拒否したことへの不満がきっかけと思われる。この時近衛は昭和天皇に直訴したが「総理は統帥権に絡むことができないのが憲法の建前だ。」と斥けられた。
この時実は昭和天皇は拡大方針だった公算が強い。ところが近衛は不拡大を訴えていた。(上海戦の直後逆転する。)昭和天皇は日本の外交方針は英米ソとの関係において把握されるべきで中国について外交上の考慮の必要を認めなかった。おそらくこの考えは終生変わらなかったのではないか。
昭和天皇は中国本土で多少事を構えてもソ連はともかく、英米は軍事上または経済的制裁を加えることはないと判断していた。こういった力による均衡的な外交は現在では避けるべきと考えられている。ところが戦間期はそれが現実だったのだ。
そして昭和天皇の判断は妥当している。すなわち1941年の南部仏印進駐までは、英米ソは日本の中国での軍事行動になんら掣肘を加えていない。これをイタリーのアビシニア侵攻時の国際連盟による制裁と比較すれば驚異だろう。
昭和天皇は上海で一撃を加え、あとは何の条件でも良いから、蒋と和平を講じるべきだとした。ところが近衛と広田が外交で点数を稼ごうとする一方、南京を陥落させるなど、日本陸軍は強すぎた。もちろんこういった武力による問題解決は今では許されない。
では当時どうすればよかったのか。満州について言えば国民と陸軍は領土併合を主張しておりまた蒋は租借権譲与を認めるつもりでいた。ただ一方で上海租界から上納金を得ようとしていた。陸軍は、満州縁辺部の保障占領、駐兵を要求したが、これは際限のない要求にすぎず東條・板垣さえいなくなれば妥協の道はあった。
ところが上海はそうはゆかない。そして陸軍すらも上海を含む江浙地区を領土化して駐兵させることは経済的に引き合う事業とみていなかった。要するに蒋の考えの通り、上海は金の卵で生かさねば意味がないのだ。無人地帯で開拓する場所とは違う。
上海での軍事的勝利による英米の承認のもとでの蒋との和解は決して絵空事ではなかった。近衛、広田がやはり大アジア主義的なロマンと国民の熱望にかられ現実的な政治・外交方針を樹立できなかったのだろう。
それでは陸軍の主流はどう考えていたのだろうか。
沢田茂(米内内閣倒閣運動を首謀、参謀本部次長)
「大正の末期になると事情は全く変化し、天皇の国軍親率は全く形骸化した。それは畏れながら(昭和)天皇のご資性が国軍親率に適しなかった。軍の実権は天皇御親率の名のもとに、軍首脳部に帰した。
天皇親率制を実際に具現するためには、天皇がさらに軍隊に親炙接近されるべきであり、また親補職以上の人事は御自ら掌握遊ばさるべきであったと思う。」
沢田は憲法の構成が天皇親率制だと言いきっている。そしてそれはできたが昭和天皇の資質または適性がかなわなかった、と主張する。
沢田 茂(1887−1980)第2次大戦開戦時、参謀本部次長
そして昭和天皇は「満州事変、日華事変、ノモンハン事件、日独軍事同盟、太平洋戦争開戦すべてに反対だった。」と言う。
現代に生きる人々は、これらの軍事・外交政策に昭和天皇が反対だったのは当然と考えるだろう。しかし当時は反対する方が少数で、天皇は少数の方に属していたのだ。これでは、立憲君主として、政府・軍部と対立することは避けられない。
つまりこれら全ての発言は自分が当時考えていた政策に昭和天皇が賛成しないので、不満を表明しているのだ。そして戦後に至るもその政策は誤りではなかった、と考えている。
天皇が反対の開戦案をなんとかゴーサインを出させてしまう政治体制とその実行担当者に問題があったのだ。
昭和天皇の基本的な外交政策は英米と協調し、その承認または黙認のもとで中国本土で合法利権の維持をはかるべきで、ソ連とは対峙を続けざるを得ない。ドイツ、フランスとは直接利害を共有しないと言うものだった。そして政策自体は中国を除いて基調として戦後全般と変わらない。
上にあげた三人は文官、陸・海軍人のなかの論客である。もちろん心底では天皇への忠節より、国家の方が重要と考えていた。また自分の方が昭和天皇より優秀であり自分であれば昭和天皇のような失敗はしないという自信にもあふれていた。そして太平洋戦争の失敗も昭和天皇のせいだとする。
果たしてそうだろうか?
これらの主張の根拠は戦時における政治に対する統帥(戦争指導)の優越を前提にしている。この延長線上には本来陸軍参謀本部の独裁がある。第1次大戦末期のドイツではルーデンドルフによりそれが起きた。この当時の陸軍軍人もそれを信奉した。ところが日本には海軍があり、それは望めない。そこで陸海軍の上にたつ天皇と言う発想が出て天皇の政治責任を追求する形となる。
しかし戦時における統帥が、政治に優越するという結論は明治憲法から自明ではない。統帥権の独立とは個々の作戦を立案するに当たって、政治が過度に介入すべきではない、という意味であって緊急避難の有用性を説くにすぎないのではないか。
当然敵の首都を攻略する、奇襲により戦争を開始する、などの重大行為はこの統帥権の独立とは関係がない。南京攻略や満州事変を現地軍が決定したことは統帥権の独立とは本来関係がない、国軍の私兵化にすぎない。
上海で孤立した海軍陸戦隊を救出するまたはそこで攻勢が可能な陸軍を編成することで政治と独立することはあるかもしれない。そこで蒋介石の主力軍を撃滅するとなれば政治と独立は不可かもしれない。しかしそこまでだろう。すなわち上海−南京戦で敵野戦軍の殲滅を目的として現地軍が独断専行=追撃戦の実行をすることは当時の列強の陸軍であればいずれもやったと思われる。ただ首都を包囲するに止め、攻略戦に出るか否かはやはり外交=政治からの判断を重視するだろう。当然、それを担保として蒋介石と交渉が出来るからである。
松井は包囲し1日降伏の使節を待ち、そして攻略戦に出ている。この判断に東京が関与した形跡はない。多くの軍人にとりそれは簡単に落城させることができる好餌だった。
そして、陸軍軍人は本心からそのような種類の統帥権の独立を叫んだのだろうか。内心では人事の独立を叫んでいるだけではないのか。陸軍が恐れたのは政党政治家が人事権をもつ陸軍大臣となることだった。こうなると大正デモクラシーを実現した西園寺が豪腕だったならば、ワイマール共和国のゼークト独立参謀本部がなければ、軍人にもう少し良識があれば、と思いは尽きない。思想的には西園寺が親炙したクレマンソーの社会民主主義(サンシモン主義)がマルクス主義より有力であったならば形は変わっただろう。クレマンソーこそがフォシュを使いこなし文民優位を築き、フランスを勝利に導いたのだから。
そして、恐ろしいことに現在の日本でもこの官僚の互選による人事の壟断は依然として残っている。自衛隊の人事は内局に握られており、制服組みはそれを生涯の不満としている。他の省庁の職員が内部詮衡で選ばれているのと比較して劣位にあると感じるのだろう。これは他の省庁がおかしいのだ。行政府・高級官僚が中立というのが幻想であり実際には政党、政治家の色がつくのが普通である。その方法を採用している国の方が行政的に誤りが少ないではないか。
矢部貞治、『近衛文麿』弘文堂、1952