ルテニア人はハプスブルグ帝国のガリシアに住む、ロシア語(方言)を喋る人々である。ルテニア人は自分たちのことをルシン(Rusin)と呼んだ。これがハンガリー語のなかでラテン語化(正式ではなくヘボである)されルテーン(Ruthene)と変化した。これが英語に伝わりルテニアン(Ruthenian)となり、明治の日本人がルテニア人とした。
ルテニア人はその後ロシア人と区別するために、ウクライナと自分たちの住む領域を呼んだ。このウクライナとはロシア語で辺境の意味であり、許より国家の名前ではなかった。そして(本当の)ロシア人は自分たちを大ロシア人と呼ぶようになり、ウクライナ人を自称する人々を小ロシア人と呼んだ。
これが、日本語や英語の小ロシア人・Little Russiansの謂われだがルテニア人が自分たちを小ロシア人と呼ぶことはない。
ガリシアに住むルテニア人はユニアテ教会を信仰した。これはカトリックとギリシャ正教の合一を説く。この点で他の地区に住むロシア人とは異なる。むしろロシア人のなかで唯一正教を信仰しない人々であるかもしれない。
ユニアテ教会はソ連共産党の弾圧により、ウクライナでは原型が保たれないくらいに消滅した。現在残っているのはビザンチン・カトリック教会としてオレゴン州ポートランドで復興されているもの位だろう。
これもルテニア人の白軍将校が極東経由でアメリカに脱出し細々と名脈を伝えているにすぎない。最近、ウクライナで復興の動きがあると伝えられている。
ビザンチン・カトリック教会のロゴマーク
教会の形は正教風だが十字架はカトリックである。
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ところが、キエフの近辺に住む人々も同じくウクライナ人だと、ロシア革命の前後主張するようになった。これは多分にこの地を占領したドイツ軍が使嗾した面もあるがむしろ、モスクワ大公国と対抗した過去のキエフ大公国またギリシャ正教のキエフ大主教の偉大な歴史があるのかもしれない。ただ、この運動とルテニア人とはまだ関係がない。
ウクライナ独立運動はボルシェビキに対抗する目的で、キエフ中心に発生しており、ルテニア人はこの頃温順に新生ポーランドの支配下に入っていた。これの理由はポーランド人とルテニア人が比較的長期間ガリシアで共存していたためとルテニア人には常に政治的リーダーが不在だったことがあげられる。
ハプスブルグ帝国はドイツやロシアと異なりポーランド人にガリシアでの自治を許していた。独自の議会Dietも許した。人口ではルテニア人は多数を占めていたが議会多数を占めることがなく、ポーランド人に譲った。そしてポーランド人もルテニア人に独自の学校、独自の新聞発行を認め決して弾圧的な態度を取らなかった。(ただ1902年ルテニア人学生による反ポーランド暴動、1908年ガリシア総督の暗殺事件が起きた。また1912年帝国議会でルテニア人は議長にインク壷を投げつけた。それでも、この時期ルテニア人文学者の活躍も目立った。)
これは東ヨーロッパの民族相克の歴史から見れば特異なケースである。
一つの原因はルテニア人のリーダー不在だが、両方とももっと強大な敵をかかえていたためだろう。またハプスブルグ帝国では普通のことだったが、レンベルグやクラカウで話される言葉はドイツ語だった。これは都市住人にドイツ人が多かったことも事実だが、農村から都市に移り住んだ人々は、元がポーランド人やルテニア人でも数世代を経過するとドイツ人(ドイツ語を母国語とする人)となってしまうことが大きい。これは奇怪と思われるが東ヨーロッパでは広汎な事実であり、キエフからベオグラードまでオーストリア=ハンガリー領域外でも発生した。
一つは商業のため統一した言語が必要だったこと、二つにはハプスブルグ帝国で公用語がドイツ語とされたためだが、他に中世ドイツ語を母語とするユダヤ人の存在がある。反グローバリズムの根は深い。
ガリシアではポーランド人大貴族が土地を所有し、小作人としてポーランド人やルテニア人を雇う場合が多かった。一方ルテニア人は古くから小規模な自作農も多く、経済的な対立があまりないとも言えた。ポーランド人貴族はウィーンに伺候することも多かったが、決して自己のポーランド人としてのアイデンティティを失うことがなかった。また経済的に小作人から大規模な搾取や隷属を強いることも決してなかった。
第2次大戦でこの関係が一変した。ドイツ人はポーランド人に対してもルテニア人に対しても狂気の圧政を敷いた。ガリシアに住む住人全員がなんらかの被害を蒙った。そしてそれが5年の長きにわたって続いた。その後ソ連軍が東から入りポーランド人を東部ガリシアから追放した。しかしその時ポーランドの成年男子はほとんどいなかったと言われる。このドイツの第2次大戦における住民にたいする迫害はおそらくモンゴル人の征服以来のものだった。
もちろんその後のスターリンの圧政も、その前の百年からみて相当に過酷なものだった。しかし1992年ソ連の崩壊とともに突然ウクライナの独立が実現した。(1990年独立宣言。1991年共産党を非合法化)大ロシア人もウクライナを属国としても経済的に引き合わないことをようやく悟ったのだろう。ルテニア人はこの時もリーダーが不在だった。それでもルテニア人は少なくとも800年間別の国に属していた東ウクライナ人とうまくやっているようだ。19世紀の前700年間、ポーランド人とうまくやっていたように。
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