ドレッドノートはいかに建造されたか
フィシャーが世紀が変わる1901年ごろからドレッドノートの構想をもっていたことは確実である。初め「All Big Gun」と呼ばれた構想は、いくつかの技術革新が根拠となっていた。すなわちハーベイ鋼の発明とタービンエンジンの実用化である。
これにより速度を落さず、大型艦を実現できると想像することは、造船知識のあるものは誰でもわかる。問題は何を積載するのか、装甲をどの程度にするか、また艦全体の形状に影響する速度をどこに設定するか、という点である。
フィシャーは1904年5月、地中海艦隊司令長官から海相セルボーンに買われ、軍令部長に就任した。そして、その年の12月に自ら主宰した「設計委員会」で、新大型艦の仕様が決定されることになる。
大きなヒントは日露戦争(1904〜05)から得られた。
フィシャーは、その傲岸不遜な、しかし夢を持ち続けることができる性格からドレッドノートの建造を事実上一人で推進した。そして、それを引き継いだ弩級戦艦が二〇世紀前半の世界を決定した。
魚雷と機雷
イギリス海軍はクリミヤ戦争以来、海戦の経験がなかった。そして1848年のクリミア戦争で起きたのは木造船の海戦であり、衝角で敵船に体当たりするか、飛び乗り白兵戦で船を乗っ取る戦いだった。
そして日露戦争である。この間に「普墺戦争」「太平洋の戦争」「日清戦争」「米西戦争」があったわけだが、様相はこの四つともかなり異なっている。ただ砲戦が徐々に海戦の中心となっていった。
米西戦争以降の重要な発明は魚雷と機雷である。ただし、機雷とは無差別に、すなわち敵も味方も襲うわけであって、魚雷や大砲とは性格が違う。要は船に乗せる武器としては魚雷となる。
また、魚雷は大砲よりも射程距離が短く、反面、威力があるものと想定された。その結果、魚雷をもつ魚雷艇や駆逐艦は敵艦に肉薄せねばならない。
1904年2月9日から11日にかけて、仁川海戦と旅順口沖海戦が発生したが、魚雷の戦績は芳しいものではなかった。
観戦武官
日露戦争勃発時、イギリス海軍は二人の駐在武官を東京においていた。トロウブリッジ(Troubridge)大佐(トルコ参戦参照)とリカルド(Ricardo)大佐である。戦争勃発の知らせをきき、海軍省はただちにパケナム(Pakenham)大佐(ビーティ(Beatty)の後任の巡洋戦艦隊司令官)を追加派遣することを決定した。
三人とものちの役職をみてもわかる通り、イギリス海軍のエース的存在であり、かつ当時の海軍大佐は戦艦の艦長の階級である。
イギリス海軍は、このうち二人を三笠に乗船させ、一人は東京に残り連絡に当たらせる考えだったようだ。ところが、リカルドは連合艦隊司令部と何らかの理由でトラブルを起こし帰国してしまった。のちのリカルドの報告によると、パケナムが後任として来る予定とカン違いし、帰った、としているが・・・。
とにかくトロウブリッジ一人となり、仁川海戦から黄海海戦の直前まで、イギリス士官としてはただ一人三笠に乗船することになった。またパケナムの来日は遅れ、1904年7月になりトロウブリッジと交代した。
パケナムは黄海海戦を実見し報告書を書いた。イギリス海軍の建艦政策に影響を与えたのはこの二人の報告である。
その後、トロウブリッジとリカルドの後任として、ジャクソン(Jackson)とハッチソン(Hutchson)が任命され、この二人が、日本海海戦を見ることになる。
1903年9月の実弾射撃演習
イギリス海軍は砲術を軽蔑するのが一般的だった。当時、艦長は実弾射撃演習はペンキに傷がつくので、嫌うという風潮があったという。日本海海戦で鹵獲したロシア戦艦アリヨールを受領しに行った帝国海軍士官が士官食堂をみて「なんと汚穢な」と、記述しているが、軍艦の真鍮を反射するまで磨くというのは、イギリス海軍の伝統であって、それが日本に伝播したものである。
イギリスの提督は実弾射撃訓練のとき、下船するのが一般的だった。もし、砲術将校がそれに不満を洩らせば、そちらの方が変人扱いされただろう。
海軍砲術の進歩
そして、砲術コンテストの内容といえば、距離1600ヤード、動かない目標にすぎなかった。そして、なぜコンテストをやるかと言えば、冷静に裸眼で見つめられる距離で、精神を集中し、命中させることができる能力に賞を与えることだとされた。
しかし、長距離射撃の可能性も指摘されていた。1900年、フィシャーが地中海艦隊司令官だったころ、5600ヤードから7000ヤードの距離で実弾演習を行い、「満足すべき結果」を得たと報告している。
海軍省は1903年9月、イギリス海軍の伝統に従い、二つの戦艦、地中海艦隊のベネラブルと海峡艦隊のビクトリアスに長距離射撃について、実弾演習のうえ報告書にまとめるよう指示した。ところが、ベネラブルとビクトリアスの報告は全く正反対のものだった。
すなわち、ベネラブルの砲術将校はプラサ島における実弾演習の結論だとして次のように書いている。
「数百回の斉射(Salvo)実験を行い、大量の弾薬と石炭と備品を消費したうえで自明の結論が導かれた。すなわち、弾は好きなところに飛んでゆく。近代人が編み出した方法では、強力で効果的な長距離射撃は不可能だということだ」
だが、これらの実弾演習の結果がさまざまに検討されているうちに、トロウブリッジの仁川海戦(1904年2/9)と旅順口沖海戦(2/17)の報告が5月頃到着した。
「2月9日、仁川では日本艦隊は8000ヤードから射撃を開始した。旅順沖では1万2000ヤードの距離から発射された弾丸が港内に到達したのは確実である。決定的な要因は大口径砲によるものだった。いかなる国もまだ実験としても8000メートルの距離で実弾射撃を行ったか疑わしい。だが、この射撃により三隻のロシア艦が港内に遁走したのは事実である」
日露戦争の前まで、大口径砲は重要視されていなかった。大口径砲は6インチ以下の砲と比較して速射性がなく、実戦では役にたたないのではないかと疑われていた。その結果、イギリス海軍には主砲のない装甲巡洋艦があった。トロウブリッジの報告はこういった考え方について十分な疑いを生じさせた。なぜならば、第一に日本海軍の大型艦は全てイギリスの造船所でつくられたものである。
そして、パケナムの黄海海戦(8/10)の報告書が、大分遅れて10月に到着した。その中の「記念碑的な一節」は次の通りである。
「平時の演習からすれば、1万メートルとか1万2000メートルとは出鱈目(Preposterous)に聞こえるかもしれない。しかし実際に起きたのだ。射撃は2万メートルから開始され、1万4000メートルで有効となった。1万メートルは近距離というべきで、5000メートルは最早舷を接するといっていい位だ」
更にパケナムは「ロシア人も1万8000メートルで応戦し、一弾は乗船した艦(三笠)の218ヤード手前に着弾した、三笠は1万3000ヤードの距離で12インチの命中弾を浴びた」、と続けている。
フィシャーの設計委員会
1904年12月、主力艦のデザインを決定する設計委員会がフィシャーの主宰のもと発足した。それまでにフィシャーが「AllBigGun」と呼ばれる艦の構想をもっていたことは、確実だが、トロウブリッジとパケナムの報告が、それに確信を与えた。
そして、その報告は設計委員会のメンバーの考え方をかえ、委員会で採択された新型艦に自信をうえつけた。
ただ、黄海海戦についてのパケナムの「記念碑的な一節」はどうも史実に合致していない。連合艦隊は、この時1万メートルから射撃を開始したのであって2万メートルではない。三笠にあった測距儀は、4.5フィートの長さにすぎず、正確な距離は4000ヤードまでしか測定できなかった。
パケナムはどうやら、測距儀が利用できないため、距離については全て想像によったらしい。実際の戦闘では安保砲術長は主砲の試射の弾着点で距離を確認し、それを伝声管で各砲塔に通知していた。これはパケナムのいた、指令所にも聞こえたはずだが、日本語を理解しないため、報告は架空のものになったようだ。
もちろん、距離は1万メートルからの射撃開始にしても、従来の考え方を変えるのには十分であり、またパケナムが従来の砲戦より遥かに長距離から始まった、と感じたことも事実である。
ドレッドノートの基本設計はいつ完成したか?
時間の経過からみてドレッドノートの基本設計は1905年5月の日本海海戦以前に終了したものと思われる。また、日本海海戦は黄海海戦とは異なり、中口径砲がそれなりに活躍し、また魚雷艇や駆逐艦も活躍した。こういった要素はドレッドノートからはむしろ外されていることにも注意すべきだろう。
それと平行してドレッドノートには後世となって修正された、いくつかの点がある。
そしてフィシャーは当初、10インチの主砲を主唱していた。そして、連合艦隊が黄海海戦で実施した「斉射」=砲術の中央管制について理解していなかったふしがある。
つまり、装甲の問題を除いて、ドレッドノートの欠陥は、全てこの中央管制の無知から生じている。おそらくフィシャーが10インチを主張した理由も、他の主力艦と弾丸を共通なものとして、予算を節約することにあったと思われる。
フィシャーが10インチから12インチへ「改宗」した理由はベイコン(ReginaldBacon)に影響されたといわれる。
1906年艤装終了直後に撮影されたドレッドノート
第一マストのすぐ前に煙突があり、マスト上にある砲術観測所が煙にまかれることがよくわかる
大口径砲重視と魚雷艇からの脅威
また、ドレッドノートの設計にあたり、魚雷艇からの脅威をどの程度念頭においたかは、長い間論争されている。
フィシャーは1902年にセルボーン(Selborne)に次のようにアドバイスしている。
「敵より4000ヤード内側に入ってはならない。なぜならば魚雷に捕まってしまう」
しかし、当時の魚雷はとても戦艦にとり脅威とするに足りなかった。ジャイロスコープは前の世紀の終わりに開発されていたが、その射程距離は800ヤードに過ぎなかった。そして1904年までに2000ヤードまで伸びたと推定される。それでも魚雷の速度は最大20ノットであったに過ぎない。
要するに命中させるためには、敵艦の進行方向を正確に読んで、ほぼ90度で命中させるように、架空の位置を予想し発射せねばならない。発見されれば敵艦はジグザグ運動のため、取り舵または面舵を一杯に切ることは確実で、隠密にかつ退避行動を考慮し接近するわけである。
ただ1906年ごろ、ウェイマスで魚雷につける加熱機の実験が行われた。加熱機を装備すると、速度を35ノットまであげることができた。しかし、この発明も射程距離とはトレードオフにあり、射程距離を4000ヤードとするには、速度は28ノットで我慢せねばならなかった。
魚雷が、戦艦にとり脅威となったのは1909年のことである。ハードカースル(Hardcastle)は31ノットで進む、有効射程距離7000ヤードの魚雷を試作・成功させた。
フィシャーが試作委員会を主宰していたころ、魚雷の脅威が実際にはなかったことは確実である。ところがフィシャーは魚雷艇を4000ヤードの距離で捕捉するため、長距離精密射撃ができる実質を備えるよう要求した。
いずれにせよ、魚雷艇への対抗は大口径砲による長距離射撃が必要だという点に収斂していった。
速度重視
ドレッドノートの大口径砲重視と別の重要な特徴は速度である。
この速度を飛躍的に向上させたことは、巡洋戦艦の建造とともに後世に大きな論争点を残した。当時、速度と防御・砲力・後続距離とはトレード・オフの関係にあるとみなされいた。
シプリアン・ブリッジ(CyprianBridge)提督は、「1904年の戦例は、速度を重視する人々を落胆さえるものだ」「なぜならば黄海の海戦で連合艦隊は、15ノットの低速でしか動けなかった。そして、ロシア人はそれより以下にすぎなかった」と書いている。
パケナムが、この速度の実態について報告したのだが、結語は異なっている。すなわち、常にウラジオなり旅順に逃げ込もうとするロシア艦隊に追いつくには、速度は重要な武器となったとした。そして東郷提督がもし、一層の速度を出すことができれば、戦術的に有利な位置を占めることができ、あるいは旅順に逃げられることもなかっただろうと・・・。
しかし、フィシャーは両者の意見のうち、パケナムの結語だけを引用し、速度の有利性を強調した。フィシャーは従来から速度重視であり、このとき巡洋戦艦のインビンシブルを建造も主張していたのだから、これは当然のことだろう。
設計委員会は「インビンシブル級は装甲巡洋艦というより、高速戦艦とみなされねばならない」と結論づけた。
ドレッドノートはイギリス海軍に優位性を与えただろうか?
ドレッドノート建造は、建艦技術的な面はおいて、イギリスの従来あった優位性を崩すことになるのではないか、という点は当初から問題となっていた。
すなわち、ドイツとの比較では旧式戦艦でイギリス52隻対ドイツ28隻と圧倒的であったが、新型艦をゼロから造るとなると、いままでの優位性は崩れてしまう。
ただ、この設問は「もしドイツがドレッドノートを造ったならば?」という質問にたいして、無力である。
ドイツはドレッドノートが完成した、1906年には「混合口径搭載型」戦艦建造の計画をもっていた。ティルピッツは、「この計画が実現すればイギリス艦隊に追いつき、外交上のテコとして使えるレベルに持ち上げることができる」と議会で説明している。
ドイツはドレッドノートの完工をみて、すぐさま1906年建艦計画を破棄した。
フィシャーは建艦計画に「質」という要素を加えたわけだが、更にこのように言っている。
「ドイツ海軍省は、18ヶ月くらいこの問題と格闘し、その期間何もできないだろう。なぜならば、キール運河を拡幅するには12.5百万ポンドかかるうえに、全ての港湾をを浚渫しなければならない」
ドイツはナッソウ級戦艦(11.1インチ砲×12)を1907年に進水させたが、エンジンはレシプロ式にすぎず、ドレッドノートより2ノット劣った。ドイツはタービンエンジンの設計能力がなかったのだ。ティルピッツはパルソン社よりタービンエンジンを購入する計画をたてたが、パルソン社はドイツにはやや性能が劣ったものしか供給しないという噂が流れた。
それでもティルピッツは、選択がなくインビンシブル級と対抗するための装甲巡洋艦のため、パルソン社よりタービンエンジンを購入せざるるを得なかった。
巡洋戦艦
フィシャーは、ドレッドノートより巡洋戦艦インビンシブルをより重視していた。1906年9月、軍令部長のトィードマウス(Tweedmouth)に「インビンシブルはドレッドノートよりも優れている」と語っている。

インビンシブル
もしかすると、フィシャーはインビンシブルを造りたいがために、ドレッドノートをもちあげた可能性がある。そして、「よく考えたとはいえないにしても、建艦思想は良好だ」というのが当時の最大公約数的な見方だった。
巡洋艦の進歩は1890年代から急速となった。ハーベイ鋼の製造方法の確立と、クルップ鋼への進歩が要素として大きい。すなわち、バイタルパート(重要部分)の保護が可能となったことである。1897年クルップ鋼の改良により、サイズを巨大化させることなく、6インチ砲弾にたいする耐弾性が確保できるようになった。
当時、巡洋艦の用途としては通商破壊戦(防御戦)と主力艦の先行索敵が考えられた。
第一期のそのような両用思想で建造された巡洋艦はクレッシー(Cressy)級である。ただ、この艦の砲力は9インチで、主力艦と対抗できるものとはされなかった。当時の戦艦は12インチ砲弾に耐えることができた。クレッシーの目標は当時ドイツで建造されつつあった9.4インチ砲力しかもたないカイザー級戦艦だった。
クレッシー級のあと建造されたのは1902年から03年にかけての、エジンバラ公級、および03年から04年にかけてのウォリア級である。そして04年から05年にかけては、ミノタウル級3隻が建造された。ミノタウル級は1万4600トンあり、9.2インチ砲4門、7.5インチ砲10門を備えていた。そして23ノットの高速を出す。
ただ、巡洋艦は高くつく。ミノタウル1隻の建造費は140万ポンドである。ところが1万6500トンの戦艦ネルソンは、18ノットにすぎないが、価格は154万ポンドである。すなわち、値段はほとんど変わらない。ミノタウルは装甲、砲力などは戦艦に劣るが、唯一速度が速いわけである。更に、ミノタウルのような大型巡洋艦の乗組員数は、戦艦とほとんど変わらない。
日本海海戦の教訓
ドレッドノートに動機を与えたものは、黄海海戦であるが、巡洋戦艦=インビンシブルに動機を与えたのは日本海海戦である。
1905年5月の対馬において東郷平八郎は、4隻の戦艦と8隻の装甲巡洋艦を率いた。東郷は短い第一海戦のあと、巡洋戦艦隊をさしむけ、ロシア・バルチック艦隊に止めの一撃(Coup de grace)を与えたとされた。
これは装甲巡洋艦の使用法に新たな章を加えるものだった。つまり主力並列艦としての任務である。
そして、日本は1904年末に薩摩以下4隻の建艦計画を発表した。12インチ砲4門で19ノットの高速艦であり、従来の戦艦の枠を越える設計だった。薩摩がフィシャーにインビンシブルの動機を与えたのは疑いない。つまり、通商破壊と主力艦との両用性が発揮できる万能艦建造という動機である。
ドレッドノートと薩摩
ミノタウルがこのような万能艦ではないことは明らかで、いわば戦艦ができないことをやる艦だった。つまり、ミノタウルは同時期に建造されたネルソンを補完する艦だった。これで行けば巡洋戦艦=インビンシブルはドレッドノートを補完することになる。
ところがフィシャーは戦艦を「時代遅れ」として、巡洋戦艦で代替できるのではないかと考えた。これは突飛に聞こえるかもしれないが、薩摩を建造したときに帝国海軍はそのように考えたふしがある。そして実際にも第一次大戦中は、金剛以下4隻の巡洋戦艦だけで、残りは旧式戦艦でしかなかった。
フィシャーは巡洋戦艦を「偽装戦艦」だと述べた。おそらくフィシャーの頭には普通の巡洋艦の外見をさせ、海戦が始まったら突如高速を発揮し、砲力も戦艦に匹敵するという構想があったに違いない。イギリス海軍の巡洋戦艦の位置付けは、第一次大戦勃発時まで混乱した。
そして巡洋戦艦の問題は「金」がからむ。これは弩級戦艦によって旧式戦艦を置き換えねばならないことに加え、巡洋戦艦自体が極めて高価なのである。インビンシブルは旧式戦艦の三倍の建造費がかかった。それでも、フィシャーの巡洋戦艦策は3隻の先行建造として結実した。インビンシブル・インドミタブル・インフレキブルである。
1905年12月、フィシャーは設計委員会の結論として「X4」計画を打ち出した。内容は、25ノットの高速・12インチ砲10門・戦艦と同等の装甲の巡洋戦艦を主力艦とすべきだとした。
だが、1906年における海軍省の次年度計画は、そのような野心的なものではなく、「砲力を増強させる」目的をもつとされただけだった。おそらく、自由党の政権獲得とともに予算節約の要請がでてきたに違いない。
従来のままの併用策、ドレッドノートとインビンシブルの組み合わせは、第一次大戦終了まで続くことになる。
ドイツ海軍
巡洋戦艦というのは極めて高価であるうえ、速度が速いことは操艦を難しくさせると同時に、運用には極めて広い水面を要求する。つまり、原理的には日英米の艦隊しかこれを必要としないはずである。
実際に、第一次大戦以前に巡洋戦艦をもった国は、日英独の三ヶ国に過ぎなかった。そして、ドイツが「なぜ」という疑問が生じる。
ドイツが巡洋戦艦を艦隊に加えたのは1910年のフォンダータンが初めてである。これはインビンシブルに対抗しようとしたものである。だが、その時イギリスはインデファティガブルを運用開始しており、フォンダータンは見劣りする。
このため、すぐさまモルトケ級を進水させた。この級は3隻が1912年8月から試用されたが、イギリスはこれを上回るライオン級を完成させた。ライオン級は13.5インチを備え、それまでの巡洋戦艦の域を大幅に越えた。
そして、1913年には日本の金剛が完成した。この艦は14インチをもち、かつ主砲配置が全部中央線にあった。この艦は、それ以降建造される全ての戦艦の原型をなすものである。
このようにドイツの巡洋戦艦は常に日英の巡洋戦艦に一世代遅れたものであり、なぜドイツが巡洋戦艦をもって巡洋戦艦に対抗しようとしたのか謎である。ただ、これは「建艦競争」のもつ本質かもしれない。

Jon Tetsuro Sumida, Inventing Grand Strategy and Teaching
Command: The Classic Works of Alfred Thayer Mahan Reconsidered,
Woodrow Wilson Center, 2000
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