戦争の原因
アルゼンチンは独立後1819年に南米大陸初の憲法を採択した。これはアメリカの独立後の動きに触発されたものだが、その中で共和政の採用とともに新国家としてブエノスアイレスを首都とすることが定められた。
当時、アルゼンチンの輸出入のほとんどがブエノスアイレス経由であり経済の中心地だったが、他の地方は反発した。この動きは地方の反乱から始まり、中央政局の連邦主義者と統一主義者の対立に発展していった。この対立を調停する動きがなかったわけではなく1826年憲法を修正することにより中央集権がやや緩められた。しかし連邦主義者の抵抗は続き1826年から1828年内戦となって拡大した。この内戦を収めたのが、1929年新大統領に選ばれたフアン・ロサスだった。ロサスは連邦主義者よりの政策をとり、地方の不満を宥めるのにある程度成功した。
フアン ロサス(Juan
Manuel de Rosas ; 1793-1877)
1829年3年任期のアルゼンチン大統領に選出された。その後1935年に大統領に再選されたが政治手法は一変し秘密警察を用いて反対派を弾圧した。ロペツ戦争の立役者ミトレもこの時亡命を余儀なくされている。ロサスの治世はまた戦争に彩られた。自身の名が冠せられるロサス戦争の他英仏とも戦争となった。1852年戦いに敗れると、イギリスに亡命した。
1932年ロサスは南部で非スペイン系住民の反乱鎮圧のため大統領職を辞した。しかしこれは中央での権力の空白を生み、連邦主義者と統一主義者の政争が再度蒸し返された。1935年この調停のため、ロサスはその国民的人気により大統領に呼び戻された。ロサスはこの前は連邦主義者であったが、この時統一主義者に変身していた。ロサスは外交に目を転じ始めた。一説によればロサスは初めからウルグァイをアルゼンチンの不可分の領土だと考えていたという。ロサスはウルグァイのブランコ派(保守)とコロラド派(自由)の対立に介入した。ブランコ派の頭目、マニュエル・オライブに武器を供給するとともに、1943年開始された両派のモンテビデオ攻防戦にもブランコ派に肩入れした。これは、コロラド派の怒りをかうとともに、コロラド派を支持するブラジルの警戒心をさました。
ブラジルはロサスがラプラタ地方の覇権を狙っているのではないかと疑った。そして1851年に入るとフスト・ホセ・ウルキザに率いられたコリエンテスとアントレリオス州の人々が叛旗をひるがした。ブラジルとコロラド派は、密かにウルキザと同盟を結んだ。
この同盟の始めの動きはモンテビデオを囲むブランコ派を放逐することで1851年ブラジル海軍がラプラタ河口を封鎖し、アルゼンチンとブランコ派の連絡を断った。そしてウルキザ反乱軍はモンテビデオに向かった。9月6日、ブラジル軍は国境を突破しウルグァイに侵攻した。10月4日、完全に包囲されオライブは降伏した。
ウルグァイはホアキン・スアレツに率いられたコロラド党の天下となった。
ウルキザは、この機会を利してロサス政権の転覆が可能だと考えた。だがウルキザにとり重大な不安は反乱軍がブラジルと組んでいることが判明すればアルゼンチン国内での支持が一挙に失われることだった。ウルキザは自己の軍を自由軍と名づけ、またブラジル軍の領内への進入を拒否、ウルグァイで総予備として控えてもらうことにした。自由軍は2万7000人の兵力をもったが、そのうち2万1000人がアルゼンチン人だったという。
1851年12月23日、自由軍は進軍を開始した。しかしロサスはなんら反応しなかった。この理由は不明である。ウルキザはこれはロサスの部下の忠誠心が疑わしいと理解した。1852年2月1日、自由軍はブエノスアイレス近郊に到着した。
ロサスは首都駐留部隊のみ動員をかけ、翌2月2日カセロス高地に陣取った。兵力は2万2000人でそのうち1万3000人が騎兵だった。ロサスは自ら軍を率いて先頭にたった。対するウルキザの軍は2万5000人でうち1万6000人が騎兵だった。この日から戦いは始まった。ロサスが高地を占めた分、有利ともいえたが戦いが騎兵を中心とする機動戦が予想され広大な地形を考慮すれば大きな利点とはならない。まず両軍の兵力は拮抗していたと理解すべきだろう。
カセロスの戦いに続く
ロペツ戦争に戻る