特設師団


上海攻防戦では9個師団半が動員されたが、そのうち4個師団はいわゆる予備師団とも言うべき師団だった。復活師団は軍縮により削減されたナンバーを復活させたもので100番台師団と性格は同一である。(但し航空隊、輜重隊など除く)

現役師団 119、16、台湾守備隊
復活師団 1318
予備師団 101114

下線:上海派遣軍
斜線:第10軍(杭州湾上陸部隊)

ところが、日本軍の現役師団は当初から相当数の予備役が混入していた。これは日本の徴兵制度が陸軍の実情にあっていなかったためである。そしてこの体制は第2次大戦終了まで原則維持された。初めの原因は不明であり、のちの原因は予算だが、日本は徴兵率が著しく低い国だった。すなわち平時においては一つの世代にたいし最高で18%程度しか徴兵の対象にならなかった。これでは国民皆兵とは言えない。

この問題は日露戦争の時すでに現れており、日本は後備役まで動員しきって満州軍に送る兵力が末期存在しなかった。ところが日比谷公園で暴れる市民は存在した。

そして繰り上げ入営などの弾力措置もなく、また志願制度も特別な兵科を除き存在しなかった。この結果、内地にある常設師団は動員時から暫くの間、予備役しか編入させることができない。その後、補充兵役(短期1年の兵役)を召集するか、後備役を召集するかという事になる。補充兵役というのは、短期の将校養成制度に対応したもので、学歴で中学以上に限定されていたものを拡大し、短期訓練で予備役的な性格をもたせたものである。

特設師団は常設師団の戦時動員が終了したあとその地区の予備役と後備役に召集をかけて編成されたもので、平均年齢は30歳を越えたと言われる。特設師団の101、104、13、18師団は一部を除き、南京までは行くことがなかった。しかし第101師団は本部での懸念に反し呉淞クリーク突破、大場鎮攻略など大戦果をあげた。

この制度は、ある意味で18%の人間を以って専門的な軍隊を作ろうとしたのかもしれない。海軍の場合は訓練期間が長くまた専門性が高いので、この制度は有効と思われるが陸軍の場合は動員兵力の不足という危機に直面する。また極東ソ連軍は常時30個師団体制なので、日本の常備兵力17個師団が少なすぎたのかもしれない。これは宇垣軍縮による3個師団縮小も痛いが、植民地への駐兵部隊を常時戦時編制にするという負担が大きかったためもある。

すなわち駐兵部隊を国内師団をもって交代させたため、その時戦時編制に近づける反面、平時はその必要がないという問題が生じ、常時、員数などを増加させなければならない。要するに、将校が少ない反面下士官、兵が多く予算を食う結果となった。

しかも軍縮により老齢の士官を学校教員などに派遣したため予備役も含めた将校は老齢化する反面若手の養成は限られた。すなわち軍全体として老齢化が進んだ。ところがこの間、国全体の人口は急増し若返っているので、比較上老齢陸軍という妙な形となった。第101師団には58歳の中隊長がいたという。

老齢召集者への罵詈雑言

老齢召集者が南京事件の非行すなわち、軍刑法違反行為の主役だったという奇怪な説が存在する。そしてマルクス主義歴史学者(笠原一九司ら)と田中新一らのエリート参謀将校らが声を揃える。田中には陸軍省軍務課長という要職にいたため、捕虜虐殺に関する自分の責任を老齢召集者に被せるという卑怯な動機がある。

終戦後エリート参謀将校たちは不法行為(捕虜虐殺)を隠蔽するためいろいろなシナリオをでっち上げた。前線部隊に食料が行き渡らず、捕虜を虐殺せざるを得なくなった、もその一つである。ただこの時ショートグレーンの米以外が兵に給された記録はない。また前線部隊の行軍スピードが速すぎたため、給養不足が生じた事実はある。ただこれは前線部隊だけで、直協部隊には生じない。もちろん副食品や軍属への給養品を徴発することがあったが、この実行は更に後方の部隊である。田中は戦後、その後方部隊にいた後備役下士官の憲兵が悪かったと想像だけで責任転嫁をしているが、この人間の品性の卑しさを暴露しているだけだろう。

むしろ問題は憲兵の到着が遅れたことである。

この中隊長も短現による予備役の尉官と推定されるが、酷な話である。第1次大戦のフランス軍でも同じことが起きた。ドゴールの父親は1917年65歳だったが予備役中尉として再召集された。それでも開戦後3年経過しておりまた激戦の連続であった。上海戦の前日本は日露戦争まで大きな戦いを経験していない。これを反省した旧軍の省部将校がいないことにも驚かされる。召集を増やさないことが国民にとり良い事だと思ったのだろうか。

第1次大戦前のドイツの場合を例にとれば男子20歳の約60%は全員召集をうけ教育将校が3ヶ月の訓練を行う。入営期間は原則2年である。

この時点では入営ではなく、国民兵扱いである。その後入営となるが、そのまま戦闘序列にある連隊に編入されるのではなく必ず補充連隊に入営する。そして時局により本連隊にはいるか、補充連隊でそのまま終わるかという分かれとなる。

動員がかかった場合は、補充連隊を解体し現役に編入するとともに、最近除隊となった予備役を順次現役連隊に編入させる。さらに予備役、20歳以下などの志願兵、教育連隊からの繰り入れで予備連隊を作る。そして繰り上げ入営などの措置により、予備連隊、現役連隊ともに補充部隊を作る。このようにして動員後の軍は常備軍に十数倍する兵力となる。

ところが日本の陸軍は常設17個師団と特設13個師団(日華事変では特設6個までで終了)計30個師団を作ると、補充師団または補充連隊は後備兵部隊だけとなる。そして後備兵を出し切ると終わりとなってしまう。つまり召集が新規を除き再召集に限られているためだ。

この問題を回避するためにはドイツのように戦時動員とともに、現役年齢の甲種乙種の未召集者の召集、そして予備役年齢者・志願兵による三線級部隊(テリトリアルとか郷土防衛隊と呼ばれるもの)の設立または訓練を実施すればよい。このように本拠地での新兵募集を行わない限り老兵師団の問題は解決できない。ただ三線級でも制服、小銃程度は用意しないとキッチナー・アーミーのように入営したとたん落胆することになる。太平洋戦争末期本土決戦師団(300番台)でこの問題が起きた。

また、この掃討戦で中国軍の遺棄した小銃は50万丁を越えるといわれる。支那銃と称し国内で解体したらしいが、この時の米軍の所持していた小銃(エンフィールド銃)は250万丁で常備軍はうち80万丁にすぎず、いかに膨大なものかわかる。支那銃は小銃がモーゼルの模造であり性能が劣ったものではない。

軽機関銃はチェコスコダ製の模造、拳銃ははベルギーブローニング製の模造であった。いずれも解体せず解体せず、グリースに漬けておくことはできたのではないか?

また小火器の他にも大量の兵器を鹵獲した。加えて日本軍の戦死・戦傷者の背嚢や装備などが後方に残された。陸軍省はドイツ流にこれら資材の流用を考えたが、兵士から縁起は悪く武運が落ちると拒絶されたと言う。

とにかく旧陸軍は内務班での古参兵による新兵への暴行の頻発など古いしがらみから脱することができなかった。これが極東軍事裁判で言うように長年にわたり東アジア征服を計画した軍部のやることだろうか?

徴兵制度は各国によって微妙な違いがある。共和制のフランスは一切エリート師団がなく、反面現役・予備・後備の年齢による区別は厳重だった。帝政ロシアは、長男という立場や職業は考慮されるが年齢は考慮されない。第1次大戦末期のロシア軍をみると50歳前後の兵士がいるのはこのためである。それでも日本は45歳までという歯止めはあるが開戦間もないにもかかわらず35歳以上の老兵を動員する、という問題を陸軍省は事前に考えなかったのだろうか。フランスの後備師団は45歳以上で構成されるが後方警備で前線に出ることはない。しかし35歳以上45歳未満の後備兵は最後は現役師団に配属された。

極東軍事裁判で、バーデン・バーデンの密約(1921年)というのが暴露され、当時の若手エリート軍人4人(小畑、永田、岡村、東條)が総動員体制の確立を目指すことを約束したとある。ところが実際は、従来制度の墨守だった。そして陸大の文書にはドイツ軍事学の応用が述べられているが、上海攻防戦のように実際やることはフランス的軍略でドイツ国防軍のやり方を打倒している。

またドイツ国防軍の名誉のために付け加えれば、ファルケンハウゼンは蒋介石に10月20日の段階すなわち大場鎮占領のための準備期間中に戦局は絶望で、揚子江北岸に撤退すべきだと具申している。

松井の作戦の特徴は多点攻撃と入念な準備にもとづく数期にわたる攻勢だから、松井の準備中に撤退作戦を実施すればあるいは殲滅を防げたかもしれない。とにかく南京を枕にしての抵抗というのは近代戦では第1次大戦のルーマニア軍のトトラサイヤ要塞防御戦に匹敵する愚挙である。ファルケンハウゼンは杭州湾上陸軍をみて無錫=江陰線での防御は湖州すなわち太湖西岸を迂回され無意味と判断したのだろう。これは卓見である。

陸軍は派閥の巣窟ではあるが、確かに個性が強いことは認めざるをえない。これは日本の官僚制度では稀である。



笠原十九司 南京事件 岩波新書 1997

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