パリ講和会議で日本がイニシアチブをとり、提案を行ったのが、人種平等提案である。この時、大正天皇がご不省に陥り、昭和天皇が摂政宮として国政を総覧していた。この提案は昭和天皇にとり最初の重大案件だったらしく、第2次大戦後も受け入れられなかったことを残念な事態だと想起している。
この提案は誤解が多いが、日本の主張は国際連盟設立趣旨の前文または規約に記載することであり、強制力の伴うものでは本来なかったのである。というのは条約となれば加盟各国は国内法を整備する義務を負うが、そこまで日本の外務省は考えていなかった。
ところが提案の現場ではそう受けとめなかった。
もしそう受け止められればそれでも良い、という安易な提案論旨が存在した。まず提案自体は、国際連盟に賛成すべきか、反対すべきかという議論の分かれから生じた。外務省は友邦アメリカの提案であり、またウィルソン14ヶ条提案に賛成した点から国際連盟について賛成せねばならない、と考えた。ここは当然かもしれない。
国際連盟反対論
ところが第1次大戦中、天皇直属の機関として外交調査会が設立されておりその座長、伊東巳代治は国際連盟反対論者だった。外交調査会は外務省からその後、二元外交と批判され廃止された。実際のところ、今日でも同様であるが外務省が二元外交と言い出したときは、なにか外務省が失敗したときである。外交が、内政や軍事に従属することは当然で日本であれば首相の指揮下にあるのは当たり前だ。もともと外務省が霞ヶ関外交などと言い出すのが、外交官の職務を理解していない証拠だ。
伊東巳代治の反対論の根拠は、憲法を含む国内法が国際連盟に従属しかねないと言う点にあった。この反対論は現在から見れば、条約が一部を除いて国内法に優先するのは当然で議論に根拠はない。しかし外務省が事前に14ヶ条を肯定的に発言したことに無理があった。
外相の内田康哉が苦肉の策として持ち出したのが人種平等提案である。
この提案には現在なお誤解がある。
- この提案が可決されれば戦争の危険が薄らぐ、というもの。これは第1次大戦が白人国同士で生じており、論拠がないことがすぐにわかる。もともと人種で戦争となったケースがあるのだろうか?日露戦争はカイザーが黄禍論を出したなかで戦われた例外的な戦争だ。ただカイザーは、黄禍論を信じていたように見えない。
- 人種平等提案で植民地が独立できるというもの。国際連盟規約は独立国のみを対象にしている。従って、直接関係がない。
- これが成立すれば加盟各国は、人種平等に基づいた立法措置がとられ公民権平等の端緒となる。これは難しい問題である。たとえば朝鮮半島は日韓併合により朝鮮総督府に統治される日本領土となった。そこに居住する人々(日本人を含む)の参政権をどう考えるのだろうか。
このように法理を突詰めると複雑になる。
加州移民問題
また外務省の動機はカリフォルニア移民問題にあった。当時日本移民は、永住権はあるがアメリカ国民ではなかった。アメリカ国内法によれば、2世すなわちアメリカで出生した子供はアメリカの国民に自動的になれた。だから移民1世が土地取得を禁止されても2世は可能であり、多くの日本人は生まれた子供を土地の名義人として、実際は問題を回避している。
また多くの1世が、アメリカ国籍の取得に熱心でなかった。つまり一時的にアメリカに居住しているのであり、市民権取得に興味をみせなかった。これはアメリカ建国史以来稀有な出来事である。そうした国民は過去、英仏だけで、これには明白な理由があった。この状態で外交的に出稼ぎ日本人の保護を行うことは難しい。逆の立場にたてばわかるだろう。また当時、日本は二重国籍を認めていたことにも注意すべきだろう。
その問題の解決を策略として、国際連盟規約委員会に持ち出したのである。
これはやはり外務省の策の誤りではないだろうか。居留民保護であれば現に生命の危険に曝されていた中国大陸に居住する人々の方を優先すべきだろう。外務省はその後田中義一・吉田茂外務次官まで中国での武力行使を躊躇した。
アメリカに居住する日本人を保護することは帰国命令以外は困難だったのだろう。ところが出したのは中国大陸向けだった。また、アメリカに忠誠を誓うことを嫌う同胞を保護するのは当然だが、それは日本国内でしかできない。もちろんアメリカ法に違反した行為をアメリカ政府がとったときはこの限りではない。この場合は軍部と相談するしかない。すなわち戦争である。
つまり人種平等と言っても、日本のかかえていた問題は移民(1世)のアメリカ国内での国籍による差別だった。これはアメリカの根深い人種(主として肌の色)差別問題とは直接関係を有するわけではない。現実には現在の日本も含めこの種の差別は世界の大半の国で存在する。労働ビザ取得に当たって出生地、語学力、学歴を問うのは普通のことである。
日系アメリカ人とヒトラーの山荘
やはり厳しく言えば、こういった事を外交問題にしてはならないし、互恵以上相手国に要求すべきではない。そして移民問題は通常外交問題としてはならない。つまり外務省の所管か疑わしい。もちろん当時の外交官が努力したことを責めるべきではない。だが基本はたとえ政府や政府機関が推奨しても移民とは自由意志で国外に居住し、その国の法令に従うべきだとの常識はくつがえらない。
推奨に伴う優遇措置や政府広報以外外務省に責任はない。国を棄てるという事は重要なことで、棄てることを決断した人間は重大な結果を受け入れなければならない。たとえ貧乏や飢餓に国内で直面したとしても、同様の人間は国内にいたはずだ。
中国における日本人居留民への暴行
それと、中国で起きたように無法の暴徒に同胞が襲撃されたことはまた別だろう。合法権益(租界など。移住した人間は治外法権を知って居住したのだ。)は守らなければならない。事情が許せば、武力行使も選択肢にはいる。これは幣原が躊躇したが当時租界は中国人をも守っていたことを忘れてはならない。つまり当時の中国では租界が一番就業機会があり、安全だったのだ。当然外部からは富が蓄積されていると思われ襲撃の対象となる。
またそうだとしても租界自体を領土拡大の対象としてはならない。それでは暴徒と変わらない。外国人がいて繁栄するので、追放すれば元も子もない。1949年共産革命後の上海がどのようになったかで明らかだろう。現在はまた外国人アパートやオフィスを建設してるのは皮肉だろうか。要するに繁栄は香港に移ってしまった。
当時アメリカ、イギリスはこの問題を重大視し、日本に協力を要請していたが日本は「日本・中国の二国間問題だ。」として拒絶してしまう。
山東問題
この二国間問題というのは山東省旧ドイツ権益から来ていた。つまり、日本の軍事力によって青島は陥落したが、中国はパリ講和会議でその返還を日本に要求した。
ところが、日中間で青島が日本に属することは戦中に了解がとられていた。中国(顧維均)はこの了解は武力に屈したもので無効だと主張した。これは現在の中国(共産)も多用するが無法な言辞だろう。そのような理屈で無効となったら条約は全て無効になってしまう。ベルサイユ条約そのものが典型である。また日本は秘密協約を英仏と締結しており青島は日本に帰属することが了解されていた。
そして更に複雑にさせたのが日本は青島の取得にそれほど熱意がなかった事だ。関東州の鼻先にドイツの基地がなければそれでよかったのだ。しかもこの意向は中国側に伝えられていた。それの中国側の受け皿となったのは交通部長の曹汝霖だった。ところが曹は日本側が折れるとみてパリにいた顧維均に理屈にならないことを要求させた。
これ自体も日本の外務省はつかんでいた。だが最早そういった旧弊な腹の探り合いをする時代ではなかった。五・四運動で曹の家が焼かれたのは皮肉だろうか。
しかしこのアジア式(=中国式)外交が存在したため、英米に日中二国間外交を主張した。これは致命的な失敗だろう。アジア問題を日中二国間で処理してうまく行った試しがない。要するにあるようで共通の基盤がないのだ。
ウィルソンの裁定
日本の人種差別提案は規約委員会に諮られた。イギリスは反対した。これは意外かもしれないが当然である。ただ本省が英仏は賛成するとみていたため誤算となった。
南アフリカとオーストリア・ニュージーランドという二大差別国家を抱えていては、イギリスは実際外交に影響がなければ自治領の意向を無視できなかった。フランスもまた日本の提案に中立的だった。これは人種が宗教の違いと理解されたためだ。
人種が皮膚の色と関係するのは日米両国だけである。同じ人種でも宗教によって区別されたのがヨーロッパの第1次大戦前だった。ドイツ人はスラブ人をアジア人とみなした。なぜならばギリシャ正教を信仰していたからである。これが南欧となればイスラム教徒が存在するから人種よりも宗教による違いが明白なことは明らかだろう。
ウィルソンは日本の提案を訓示的で無意味と解した。この時、日本がアメリカの移民政策に関与することは共和党との関係で避けたかった。つまり共和党は国際連盟に加入することによりアメリカの国内立法が拘束されると主張していた。
この共和党の主張は伊東巳代治の主張と符合していることに注意して欲しい。現在に至るも日本の穏和な保守主義者は共和党と親密である。
ウィルソンは山東問題で日本を支持すると約束し、人種提案を取り下げるべきだと日本代表団を説得にかかった。ところが日本の希望は英米が中国問題に触れないというものだった。これでは人種提案は空中に浮いてしまう。現実にもそうなった。
この根本には、当時日本は領土的に比較的無欲だった、または充足していた事がある。山縣有朋の極東ロシア領奪取論もあったが支持はなかった。日本の植民地、台湾・韓国は常に資金の持ち出しで利益とならなかった。
実際には大勢は中国にたいし漠然と教師然と振舞えればよい、と言う考えだった。ただアメリカの日本にたいする希望も同様だった。中国の五・四運動は山東省利権の返還を要求するものだ。この種の外国人居留地の返還要求を1997年の香港返還まで中国人は繰り返す。そして取り戻して化石のようなビル街が中国人の手許に残る。中国以外でも民族運動と呼ぶものは全てこのようなものだが。日中紛争の原型が既に発生していた。
人種差別撤廃提案の後遺症
日本にとり人種差別撤廃提案がウィルソンにより葬りさられたことは、アメリカの理想主義が偽者ではないかと疑わせるようになった。そして、アメリカ型民主主義から社会主義への理想の置き換え、またアジア型絶対君主制への回帰が真顔で主張されるようになった。
そして恐ろしいことにこの傾向はまだ払拭されていない。
そして外務省の一元外交から始まりその体質、語学崇拝と支那通の暴走とが混迷をもたらした一因となった。元々法理に照らせば無理があった。また日英同盟廃止も同一原因だが大英帝国に隠れた諸悪、イギリス自治領を放置しすぎた。
人種差別撤廃提案とは、本当は白・黄対等主義あるいは肌の色差別容認ではないか、と疑われた場合否定できるだろうか?

R.W.Curry, Woodrow Wilson and Far Eastern Policy 1913-1921,
New York, 1957
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