7月1日からソンム戦が開始された。しかしイギリス軍の攻撃は失敗、以降はフランス軍の前進と策応し南部に主攻が移された。そこで7・8月激戦が繰り返された。戦局は一進一退だった。そしてこの時期は雨が降る季節であり戦場はぬかるみ耐えがたい状況となる。
7月21日ゴウの第4軍が中心となりポジエールからギュイユモンで攻勢に出ることが決められた。
左は現在の地図であるが、中心となった戦場はポジエールで、現在でも名のない寒村であり、ここが戦場となったこと以外にはおそらく何の記憶にも留められることがない地名だろう。
そして戦線の動きは小さい。当時最も攻勢に成功しても1日7キロを越えることは至難の業だった。つまり攻撃側は徒歩でしか前進できない。ソンム戦を通して連合軍の前進は最深部で10キロに過ぎなかった。守備側は防御施設がなくともある程度重機関銃で対抗できる。攻撃側も防御施設がないことは同様だが、この戦いで這う射撃は実行されず砲兵の掩護は受けられなかった。そして守備側が鉄道によって新たな戦略予備を増援部隊として派遣すると、数量で優り更に砲兵も加わり、攻撃側は圧倒されることになる。
現在のポジエール
7月22日5分間だけの短い準備射撃ののち、オーストラリア兵はポジエールに向けて前進を開始した。奇襲となり攻撃は成功した。その日のうちにアルベール=バポーム街道の西側は占領され、ポジエールの外周を固めたドイツ軍の強化地点は危機に陥った。その日夜間にかけても攻撃は続行され、23日いままでに起きないことが起きた、市街に立て篭もったドイツ兵の多くが算を乱して北方に逃走した。
ソンム戦を通してイギリス軍は攻撃の都度大きな損害を出した。これの理由の一つとして情報の漏洩がある。当時イギリス軍は無線通信はモールス信号機を使用していたが、モールス信号に加えて暗号化することは簡単でなく、通信兵が白文で送ることが多くあったという。その他に通信量の増加、捕虜の尋問などによりドイツ軍はイギリス軍の内情をかなり正確に把握していた。
また英仏軍はドイツ軍と比較すると通信手段が劣っておりかつ改善意欲が見られなかった。司令部から前線につながる電話は攻勢が開始されると多くは砲撃により切断された。それでも英仏軍は命令が最高司令官から軍司令官、軍団司令官、師団長、旅団長、連隊長、大隊長、中隊長、小隊長に降りるという厳格な中央集権的コントロールを変えようとしなかった。命令はタイプ打ちの文書にされ、伝令兵が弾雨の中最前線にいる将校に伝えた。そして命令の多くは既に戦場の実情に適さず、仮に現在地からの移動を要求する命令であっても部隊長はその都度適宜の決心を行なうことを要求された。
オーストラリア兵はソンム到着後僅か3日の後、ポジエール攻撃に向かったが、その時でもドイツ軍から「歓迎:オーストラリアの諸君」という看板があがったという。またドイツ軍はイギリス軍の編成を熟知しており中隊長、小隊長の名前が直接呼びかけられることも多かった。
7月23日オーストラリア兵と踏みとどまったドイツ兵によってポジエールの町の中で1軒1軒を争う市街戦が発生したがすでに残敵掃討にすぎず、ついにオーストラリア兵は町を占領することに成功した。2日間で3マイル前進したことになり、この戦いの中では偉功を成し遂げたといえる。
ポジエール北方の戦場
ポジエールは周辺よりやや標高が高く良好な砲兵観測所を提供する。また当面のドイツ軍の守備ポイントのセーバルを東方から迂回するルートとなる。このためドイツ軍も戦略予備を投入し反撃を開始した。
ポジエール北方には風車の残骸があり、その地点をめぐる争奪戦が2週間継続した。
ポジエール集落と風車は200ヤードしか離れていなかった。ANZAC軍団にはイギリス本国ワーウィックシャー第17連隊も加わり風車に攻撃がかけれたが、ドイツ軍は踏みとどまった。
風車残骸を付近のドイツ軍第1線壕が陥落したのは8月4日のことで、ゴウは直ちにチェッバルへの突撃を命令したがドイツ軍の反撃もすさまじく、ポジエール周辺の高地からはついに前進できなかった。
ポジエール戦記念碑。オーストラリア政府によって建設された。
オーストラリア兵の損害は23000人に達した。
だがヘイグはANZAC軍団がわずか2日で3マイル前進しポジエールを陥落させたにもかかわらず、その後停滞したのは軍団の高級司令官に戦闘意欲が不足しているためだとしてANZAC軍団長バードウッドを難詰した。8月に入るとロンドンのロバートソン参謀総長からも政府要路からとしてこれまでの戦闘報告・これからの戦闘計画に矛盾点があると質問が寄せられた。
- これからまた30万人の損害を出すのを覚悟する計画だが、大成果が得られるだろうか?
- そうでないとすれば計画に修正を加えるか限定的とすべきではないか。
- なぜイギリス軍が損害の大半を引き受け、フランス軍はあまり動きがないのだろうか?
- ベルダンへの圧力を軽減するという主要目的は達成されたのだろうか。
これはアスキスからの質問と考えられるが、当然の疑問だろう。これに対しヘイグは次のように回答した
- ベルダンへの圧力は軽減された。それどころかドイツ軍の東部戦線への移動をも防ぎ、ロシア人を助けることにもなった。
- 宣伝角度(Public Relation Angle)が考慮されるべきだ。世界は連合軍が攻勢に出る能力があり、敵の最強地点から敵の最強の部隊を追い払う能力があることを知った。これはドイツ人の信念を揺さぶり、ドイツに味方する諸国の人々を動かしたに違いない。
- そして同様に世界はイギリスの力と決心、そして英国人の戦闘能力に深い印象を受けたに違いない。
- 被害には動揺しない。砲撃や白兵戦による塹壕戦の当然の損耗については事前に計算されていた。もし攻撃しない場合と比較して損失は12万人増えたにすぎない。
- これにより攻勢持続能力へ不安をもつことが正当化できるだろうか。
- 現在の攻勢姿勢を維持することが肝要で秋まで続ける力があると判断される。
ヘイグの回答についての疑問は別として、人命についての考慮が希薄なのに驚かされる。第二次大戦で大英帝国全部の戦死者は50万人に満たない。ソンム戦におけるイギリス軍戦死者は25万人とされるが、イギリス軍は10キロ前進したに過ぎない。なお7月中のイギリス軍の損害は戦後の公式戦記によれば16万5000人である。
この戦いにレイ=マロリーが参加していた。7月28日次のように手紙を故郷にあて書いた。「死者を見たり死んでゆく者を見て、連隊が跡形もなく消えていくのを想像するだけでも恐ろしい。私は戦争について楽観したりできない。もしクリスマスの前に終わるとすれば、それは本当に驚きだ。ロシアからは良い知らせがあるかもしれない。しかし時間がかかるだろう。今までやってきたようにドイツ人が戦闘に耐えられるとすればドイツの戦争装置が尽きるとは思えない。」
この時レイ=マロリーは砲兵隊員だった。そして第一次大戦を生き延び復員し元の教員生活に戻った。レイ=マロリーの趣味は登山で1920年代3回のエベレスト登山隊のリーダーを務め、3回目の1924年行方不明となった。レイ=マロリーの有名な言葉は「そこに山があるから(登る)Because, it is there.」である。この言葉は第一次大戦でなぜ戦わねばならないか兵士が自問したときの答えでもあった。
この時レイ=マロリーが登頂後、死亡し初のエベレスト登頂に成功したか否かは不明である。1999年遺体が27000フィートの地点で発見された。