国家としてのポーランドは1795年に滅亡した。その後ナポレオンにより服属国としてワルシャワ大公国が建てられたが短命で、その後ウィーン会議でロシアに大部分割譲された。ポーランドの中心、ワルシャワはロシアに属した。日露戦争ではロシア軍の1割の兵士がポーランド人だったと言われる。
第1次大戦とその後にわたり、ポーランド軍ないし、ポーランド軍団、部隊、補助部隊と呼ばれたポーランド人の部隊は常に、オーストリア・フランス・ロシアの各軍のなかに存在した。
ポーランド槍騎兵(オーストリア軍)
四角い軍帽が印象的である。平時の行進ではこの帽子の正面に白のコケイド(花形帽章)を着用した。この様式はワルシャワ大公国のもので、その前の王国の伝統を受け継いでいる。その時ポーランド騎兵は国王ヤンソビエツキー直率の下、オスマン帝国のウィーン包囲軍を撃滅した。ポーランド人のオーストリアへの近親性は共通する宗教とあいまってその時以来のものである。
しかし驚くべきことに、いずれの軍団もその国民的性格を失わず、また独立の可能性を許す国へすぐさま忠誠を移したことである。元来ポーランド人は東ヨーロッパまたは中部ヨーロッパと呼ばれる場所で最大の人口ブロックを構成していた。またヨーロッパの東からの脅威、ロシア人・モンゴル人・トルコ人に対し最強のまたは最後の抵抗を示した実績がある。
大戦勃発後、ロシア・ドイツ・オーストリアの3国は共にポーランド人の歓心を買うことが重要だと気づいた。しかし、これは今日まで続くがポーランド人は決してドイツ人とロシア人に買収されることがなかった。募兵で最も成功したのはオーストリアであり、それに属した軍団がポーランド軍の原型となった。
オーストリア軍のなかのポーランド軍
この部隊を創設したのはのちのポーランドの独裁者、ピルスヅキーだった。ピルスヅキーは、ロシア領内に生まれたが、すでに独立運動やアレクサンダーV世暗殺未遂などの嫌疑によりシベリアに5年の流刑に処せられたことがあった。そして脱走後オーストリア領ガリシアに定住した。1908年、隠密裏に「スポーツと射撃クラブ」を創設した。これはピルスヅキーの私兵集団であるとともに将来のポーランド軍の母胎となった。
ピルスヅキー(Jozef
Pilsudski:1867-1935)
1914年8月大戦勃発とともに、ピルスヅキーは私兵集団「スポーツと射撃クラブ」に動員をかけ、直ちに3個旅団から編成されるポーランド軍団を名乗った。これはナポレオン戦争のときの記憶に従ったものだった。そのままオーストリア軍に属したが、ブルシロフ攻勢による敗北のあとオーストリア軍の指揮権は徐々にドイツ軍に奪われていった。
1917年春、ドイツ軍は突然ポーランド軍団を新ポーランド軍に改組すると発表した。そして改めてポーランド将兵にドイツ軍とオーストリア軍に忠誠を誓うことを命令した。ポーランド軍団はフランツヨゼフ帝に忠誠を誓っていたものの、ドイツ軍への忠誠は別の話だった。
ピルスヅキーは拒絶した。
1917年7月9日、ドイツ軍はオーストリア市民権を持たない将兵で構成されるポーランド軍団、第1旅団と第3旅団にワルシャワで分列行進をするよう強要した。突然広場で停止が命じられた後、ドイツ軍に忠誠を誓う文書が読み上げられ、受け入れない者は2歩前に出るよう命令された。
この行進に参加したのは6000人だが、そのうち5000人が前に2歩前進した。そして多くの将校が不服従を表明するため、剣を投げ捨てた。
ドイツ軍は直ちに不服従者を逮捕し、強制収容所に送り込んだ。7月22日にはピルスヅキーも逮捕されマグデブルグ刑務所に収監された。
7月9日事件以降のポーランド軍団
ピルスヅキーは逮捕される前、補充用の志願兵を内密に「ポーランド軍事組織」に集め自分が逮捕された場合に備え、リッズ・スミグリーを後継者に指名していた。
その活動は地下組織として情報活動・組織活動に集中すると言う堅実なもので組織への加盟者はなんと3万人に達した。これが将来のポーランド軍の最も原始的な中核部隊となった。ただし組織の忠誠をピルスヅキー個人に置いており将来への禍根となった。
一方7月9日事件のとき、オーストリア軍に属していたポーランド第2旅団は前線にいてワルシャワにはいなかった。第2旅団の兵士のは多くがオーストリア市民権を保有していた。ところが、この旅団も1918年3月ブレストリトウスク条約が締結されると、突如その抗議のため、ロシア側に寝返った。旅団長はハラーであり、その後数奇な運命を辿ることになる。
ハラー(Joseph
Haller:1873-1960)
第2旅団はドニエプル川方面に移動したが、赤軍・白軍双方に組せず独自の路線をとった。しかしウクライナ方面からのドイツ治安維持部隊に敗北、部隊は四散した。多くは難民となり、故地のポーランドを目指したが、ハラーは屈せず、英干渉軍の占領するムルマンスクに到着した。
英軍はハラーの保護に熱心とは言えなかったが、ともかく1918年8月ハラーをフランスへ送還した。それまでに西部戦線へロシア領またドイツ領ポーランドから多数のポーランド人が集結していた。それに加えかなりの数1万人といわれるポーランド系アメリカ人が義勇兵として米軍またはカナダ軍の指揮のもと訓練を受けていた。
ハラーは指揮官に指名され、これらの志願兵5万人を3個師団に編成した。この時、母胎の米軍も同様だったが装備の多くはフランスによって賄われた。ハラーの軍は1918年11月まで西部戦線で戦った。休戦とともに多くのアメリカ人は帰国したが、各地から集まったポーランド人により、その後も兵員は充足された。この軍がのちに新生ポーランド軍の一方の中核を構成した。
パデレウスキーの対米工作
パデレウスキーは第1次大戦勃発直後渡米した。パデレウスキーはこの時55歳だったが、当代で最良のピアニストとして既に認められていた。その家系は数代にわたり頑強な独立主義者として知られ、多くの刑死者・流刑者を出している。
パデレウスキー(Ignacy
Jan Paderewski: 1860-1941)
パデレウスキーは、この当時の多くのポーランド人と同様に救いをオーストリアに求め、若くしてウィーンに留学した。そこでピアニストのレシェチツキーの知己を得て、20代後半には全ヨーロッパで公演を行うに至りその後演奏活動の拠点をロンドンに設けた。そこで英語に習熟したことがパデレウスキーの渡米の原因の一つである。
しかし当座における中立国での活動は、ポーランドにおける戦争被害の救済・募金集めにならざるを得ない。しかしアメリカにおけるポーランド移民の活躍によりそれ自体は成功だった。そしてパデレウスキーはその資金をパリにあったドモウスキー(Roman
Dmowski)のポーランド情報局の応援にあてた。
この時英仏はポーランド人に必ずしも好意的でなく公然たる援助は控えていた。理由はポーランド独立最大の障害ロシアの存在である。
パデレウスキーはウィルソン大統領のブレーンであるハウス大佐の知己を得ることにも成功した。そしてポーランド独立はウィルソンの民族自決の理想とも合致するものだった。
1917年のロシア10月革命は、連合国のロシアに対する遠慮を失わせた。パデレウスキーの努力は結実した。ウィルソンは1918年1月に発表した14ヶ条で、独立した海とのアクセスをもつポーランドの建国を提案した。これは他の東ヨーロッパ諸民族の取り扱いと比較して破格のものだった。
14ヶ条は米国の戦争目的だが米国民よりポーランド人により好意的に迎えられた。たちまち数十万部が印刷され、あらゆるポーランド軍民の知るところとなった。英仏もすぐにこのポーランドに関する第13条を承認した。
ポーランド軍の創設
1918年11月11日に西部戦線で休戦協定が発効したが、ポーランド臨時政府は11月14日釈放されたピルスヅキーを事実上の首班として発足した。この政府はオーストリア政府の地方行政組織(占領地およびガリシア)およびドイツが設立した摂政委員会政府が母胎となっており、殆ど無血また内部抗争もあまりなく順調な滑り出しだった。
国家元首としてピルスヅキー、首相兼外相としてパデレウスキー、パリ講和会議全権としてドモウスキー、蔵相として前のオーストリアの蔵相ジリンスキーが任命された。ジリンスキーは第1次大戦の火種となったサラェボ事件に直接関与した人物である。
問題は国境線だった。ブレストリトウスク条約の破棄は明確となった。ドイツやチェコスロバキアとの国境も決定していなかったが最大の問題はその東部国境だった。イギリスは手回しよく白ロシア人・ルテニア人とポーランドの居住地区を分けるカーゾンライン(現在の国境線)を引いていたが、ポーランド人は納得しなかった。とくに南部ウクライナについて全面的な領土化を主張した。
これは独立や統一の直後起きやすい極端な国家主義のあらわれだった。
1919年2月、新生ポーランド政府はボルシェビキ政府を仮想敵として総動員令を発令、3月には徴兵制度を導入した。
しかし軍隊の形成は簡単ではなかった。オーストリアから引き継がれたポーランドに忠誠を誓う軍人は9000名に過ぎなかった。そしてドイツに収容されていたかドイツ軍に所属していたポーランド人7万5000人が加わった。更に1919年4月西部戦線からハラーの率いる5万人が合流した。この軍にはフランス人軍事顧問団が付属されており、また装備・士気の点で最良だった。
そして6月までに、ハラーが率いドニエプル河畔で敗れ、その後白軍に加わった兵士達も加わった。帝政ロシア軍に徴兵され臨時革命政府によりモスクワ周辺の警護、更に赤軍に追われウラジオストックに逃れ、インド洋をわたりマルセイユからダンチッヒ(グダニスク)までの長征を行った、ルムスツァ少将の率いる1万人は1920年7月に到着した。これが最後となった。
すでに東部では戦闘が開始されていたが、ポーランドはドイツやチェコ国境地帯にも兵を割かねばならず、また装備は絶対量が不足していた。ユニフォームですらバラバラで、ドイツ支給の軍服、オーストリアが開戦時支給した中世ポーランド軍類似の衣装、ハラーの持ち込んだフランス軍の制服が混在した。ピルズスキーは明らかにオーストリアのものを好んだが、1919年7月、唯一つ補充が可能なフランス式に落ち着いた。
しかし敵とする赤軍もこの点では大同小異で制服すら着用させることができず、タルタル帽につけた赤い星のバッジでようやく判別できるあり様だった。
ところが武器について赤軍は帝政ロシア軍から大量の日本の38式歩兵銃を引き継ぎ、またアルハンゲリスクとオデッサに残ったイギリス野砲も利用できたが、ポーランド軍は近在から集められた馬しか余裕のある装備はなかった。野砲はと言えばオーストリア1875年制定の駐退機なしのクラカウに旧式として放置してあるものしかなかったという。
このような状態で1919年はすぎた。赤軍はこの頃白軍と決戦を南部で展開しており、その点だけポーランドにとり有利な状況だとも言えた。
ビリニュス紛争
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