プレブナ

第一回攻撃

オスマンパシャは7月19日に到着すると、すぐさま町の北東と東の部分的に完成していた塹壕に部隊を配置した。ロシア第9軍団、第5師団がプレブナに到着したのはその翌日20日のことだった。そして払暁から、北東のトルコ軍への攻撃を開始した。司令官のシルダー=シュルドナーは1時間の準備射撃ののち4隊にわけ、攻撃をかけた。攻撃は正午まで続いたが、ロシア側の完敗で2800人の損害を出して退いた。

しかしオスマンパシャは掃討戦をかけることがなかった。これはこの後の戦いにも共通する。ただ一般に攻城戦において守備側が陣地を離れて攻撃をかけることは極めて難しい。ただ翌日になり、ソフィアとの連絡を確保するため、リファートパシャをロウチャに6個大隊とともに派遣した。

一方第9軍団司令官のクルードナーは、兵力の増強を受け再度プレブナを攻撃することを命じられた。プレブナはロシアのドナウ河にかけた浮橋から3日行程であり無視できなかった。

プレブナ第一回攻撃

第二回攻撃

クルードナーは7月30日、3万人を3隊に分け攻勢に出ることを決心した。またセルビア・トルコ戦争で活躍したスコベレエフは南からも攻撃することになった。司令部はプレブナの東22キロのカラガッチに置かれ、そこに戦略予備も終結した。

準備射撃は砲弾が到着したことにより旺盛に行なわれ朝8時半から午後2時半まで続いた。歩兵がきっかり射撃が停止した2時半に前進を開始した。戦闘は日没まで続いたが、ロシア軍は敗勢を食い止めることができず、日没とともにカラガッチまで退却した。損害はなんと7300人に達した。対するトルコ軍の損害はわずか2000人という。

この時、オスマンパシャのもつ兵力は1万6000人に過ぎなかった。

クルードナーは130キロ遠方のチルノバの本営から攻撃を続行することを命令されたが3分の1に及ぶ死傷者を抱えては、それはできない相談だった。

この敗報は本営を驚かせた。本営自体もチルノバからブルガレニに戻された。南部に進出したグルコは至急呼び戻された。モスクワに集中しつつあった歩兵師団に前線に展開するよう至急電がうたれた。更にルーマニア軍にも参戦要求が出され、ブルガル人民兵組織も動員が急がされた。

この時、ロシア軍の布陣は2個軍団がドナウ河の北にあって兵站線を確保しており、プレブナでは2個軍団がオスマンパシャと対峙していた。また3個軍団がメヘメトアリ(8万人)に対抗、グルコは1個軍団でスレイマン(3万人)に対抗していた。

当時のロシア軍の編制では、1個軍団は略2万4000人ほどで、この時点だけとればトルコ軍は劣勢ではなかった。つまりドナウ河を越えたロシア軍はまだ14万人ほどである。ところがスレイマンもメヘメトアリも、プレブナの応援に向かおうとしなかった。これはコンスタンチノープルから命令がなかったことに起因しているが、オスマン帝国の官僚制に問題があったと言わざるをえない。とにかく要塞や守備も重要だが、敵野戦軍を殲滅せねば勝利することはできない。

この時期がおそらく、トルコが戦争に勝利の唯一の機会が与えらたとみなすべきだろう。ロシア軍はドナウ渡河以降ですでに1万5000人の損害を受けており、本国から離れ補充もままならなかった。

唯一動きはスレイマンがモンテネグロから海路呼び戻され、デデアガッチで下船、その後、アドリアノープルに向かうことを命令されたことだ。だがデデアガッチに到着したのは7月21日のことだった。レオウフパシャも合流し、シプカ峠に向かうよう命令された。第2回攻撃が終了した翌日の7月31日、スレイマンはイエニザルガでグルコの軍と衝突した。ここはシプカ峠の手前で、不定期遭遇戦だったが、約倍の兵力をもつスレイマンは、グルコを一蹴した。しかしグルコの軍を殲滅することにはまたしても失敗した。

事情は不明だがスレイマンはイエニザルガに8月17日まで止まり、その後シプカ峠に向かった。8月21日からシプカ峠で今度はロシア軍とトルコ軍が位置を変えた戦いが行なわれた。戦いは数日間続いた。ロシア軍は増強されていたがトルコ軍の半数であるに変わらない。ところが、トルコ軍の完敗に終わった。ロシア軍の損害は4000人に過ぎなかったがトルコ軍は1万2000人の損害を受けた。勝ち誇った軍でも地形が上りでかつ守備側が塹壕にこもると、突破は困難である。

今度はスレイマンがシプカ峠に対し塹壕を掘り始めた。9月17日、スレイマンは十分な準備射撃を実行したのち、再度攻勢に出た。しかし今回も突破はならなかった。これがプレブナ包囲解除の中央から突破の最後の試みとなった。

スレイマンは10月2日行動不活発なメヘメト・アリに代わり総司令官となり従来の地位はレオウフパシャに譲った。この間、メヘメト・アリはロシア軍の突出した部隊と何回か交戦に及んだが小競り合いの域を出ず、ロシア本軍を脅かすに至らなかった。このメヘメトアリの作戦は、コンスタンチノープルのスレイマンと共同して、プレブナ方面で決戦を求めるべきだとする考え方に反していた。

オスマンパシャOSMAN(1832-1900)

小アジアのトカトで生まれた。コンスタンチノープルの士官学校で学び、騎兵畑を歩んだ。クリミア戦争でワラキアの戦闘に参加した。1860年のレバノン紛争に従軍した。1867年のクレタ暴動のハギア・ジョージア修道院争奪戦で軍功をあげ受勲している。1871年イエメン暴動に従軍その後ビディンの軍団長となった。セルビア・トルコ戦争ではチェルニアエフをサイカル要塞で破り、アレクシナチャを占領した。
その後のプレブナでの活躍は知るところだが、12月9日のプレブナからの最後の出撃でも自ら重傷を負っており、猛将タイプなのかもしれない。
休戦協定成立後ロシアから帰還し朝野から英雄として遇された。スルタンからガーズィー(常勝将軍)の称号を受けた。1893年から97年まで陸相を務め、トルコ軍の近代化にも功績を残した。

プレブナでは三方を包囲されていたオスマンパシャは8月30日、ペリシャット正面に打って出た。翌日そこで激戦が展開されたが、トルコ軍損害1300、ロシア軍1000で打開はならなかった。この出撃は威力偵察にすぎなかったが、何も達成できなかったと評すべきだろう。陣地戦から平場の野戦に転換することは簡単ではない。

一方ルーマニア軍は8月30日ドナウ河を越え、9月に入るとモスクワ軍管区の兵もドナウ河を越えた。ただロシア軍もこれ以上の増援は当面期待できない。当然第3回目の攻撃によりプレブナ奪取を計らねばならない。

手始めにプレブナとソフイアを結ぶ要地ロウチャを攻撃することになった。ここは第一回攻撃の前派遣されたリファートパシャが守備していた。スコベレエフが中心となり3倍の優勢をもって、9月1日攻勢に出た。戦いは3日続いたが、劣勢なリファートは軍をまとめプレブナに撤退した。ロシア軍は5500人の損害を受けたが、トルコ軍は2500人に止まった。9月2日にオスマンパシャは救援軍を出したが間に合わなかった。しかし、リファートを収容するのには役立った。

それまでに、ブルガリア西部の各地守備隊も加わり、オスマンパシャの手許には3万人が集った。これに対するロシア軍には、全軍の半数以上9万人がプレブナ攻略なため準備されつつあった。

プレブナ第2回攻撃

第3回攻撃

ロシア軍は今回はプレブナを攻略する目的で全面的攻勢にうって出ることを決心した。長時間の準備射撃の後、東からルーマニア軍が、南東から第4軍団と第9軍団が、南からイミレティンスキーの指揮する一隊が攻撃することになった。9月6日から7日の夜間にかけて前進壕に攻撃隊は終結した。野砲隊は3キロから6キロ後方に陣地をつくり準備砲撃に備えた。

9月9日午前6時砲撃が開始された。それは9月11日まで続いた。イミレンティンスキーは急な病に冒され、スコベレエフが指揮を引き継いだ。そのスコベレエフの歩兵が南部から前進した。スコベレエフも陣頭指揮にたち2キロ前進した後、そこで塹壕の掘削を開始した。9月11日、その日6時間続いた砲撃が終了した直後、ロシアは残りの部隊を進発させた。

ルーマニア軍は第1グリビツァ保塁を夕刻奪取した。南東からの攻撃は全て撃退された。スコベレエフは更に前進しプレブナ市街にあと1キロまで迫った。そこで戦線は膠着したがロシア軍は手を緩めず一挙に攻勢に出る決意を固めた。第一回と第二回は兵力で必ずしも優勢ではなかったが、今回は三倍の大軍を擁している。

翌日、ロシア軍は払暁から全面・同時攻勢に出た。しかし、殺到するロシア兵へのトルコ軍の射撃は正確で、何派にもわたる攻撃は全てはねかえされた。その上夕刻になると、スコベレエフに対し逆襲に出て、それまで失った保塁を全て奪い返した。

損害はロシア軍にとり悲惨なものだった。死傷者は2万人に達した。トルコ軍は5000人に過ぎなかった。

ロシア軍の3日にわたる準備砲撃はほとんど効果がなかった。それによるトルコ軍に被害は死傷者200人だけといわれる。

ただトルコ軍の反攻もこの兵力差では不可能である。9月24日、トルコ軍は微弱な反撃に出たが失敗した。

ロシア軍は第三回攻撃により、力攻めは断念し包囲に留める方針に転換した。クリミヤ戦争のセバストポリ防衛戦の経験があるトドルベンが呼ばれ、プレブナ攻囲軍に指揮をとることになった。

プレブナ第三回攻撃

プレブナの戦訓

プレブナ防衛戦は人類史上始めての塹壕にこもった小銃をもつ兵士に、同じく小銃と手榴弾だけをもつ歩兵が攻撃したケースである。それまでの戦いはアメリカ南北戦争(この戦争は時代を超越して、長い戦線を両軍が塹壕で対峙した)を除いて塹壕戦が発生することがなかった。

この理由は騎兵または数で優る側の歩兵が、塹壕にこもる敵を四周を包囲することにより簡単に屈服させ多くの戦争が短期で勝敗がついたことによる。

おそらくこのような塹壕戦が発生した理由は数で優る側、ロシア軍がトルコ軍をあなどり、正面攻撃で短期に勝利できると思い込んだためである。この時、機関銃をトルコ軍は所有せず、小銃はスナイドル銃にすぎなかった。それでも小銃の斉射は殺到する歩兵を圧倒的できる。また砲撃は、いかに大量でも塹壕に潜む敵兵を傷つけることはできなかった。

わずか2,3日の野戦築城で塹壕は完成する。そして数倍程度の大軍では正面攻撃によってそれを突破できない。

この戦訓を各国の将軍は知識としては得た。しかし自国の軍はロシア軍のようなヘマはしまいと信じこんだようである。この戦いで最も活躍したロシアの将軍スコベレエフの参謀長は奉天そしてナロッチ湖の敗将クロパトキンである。