掃討戦

上海攻防戦のあとの掃討戦についての記録は数多く残されていた。ところが南京事件(第4次)をめぐる論争の結果、多くは改竄や創作が行われ、最早第1次資料と呼ばれるものが、第1次と言えない情況となっている。

この論を展開するに当たってまず立場を明らかにしたい。当事国以外の軍隊が一般的にどうだったか、という点を検証しまたハーグ陸戦規定は双方とも批准しているから基準にしたい。要するに第1次大戦の各国軍の対応を基準とする。ただし、日本政府はこの戦争を宣戦布告なく事変としており、ハーグ陸戦規定は適用にならないと考えたようだ。また中国(国民)政府も同様で、国際条約に拘束されないと言う立場をとった。ただし、戦時国際法の捕虜取り扱いは人道規定を含んでおり、その部分はバイラテラルに無視しうるものと思えない。

ハーグ陸戦規定

ただヒトラーは独ソ戦において、日本政府と同様の態度をとった。対するソ連も反攻時、おそらく日中独いずれの軍よりも非人道的な手段をとった。英米両国(但しオーストラリアを除く)は捕虜について陸戦規定に準じた取り扱いをした。

中国の都市近郊農村

また別に認識すべきなのは、これほどの攻撃側成功の例がなく、また日本軍は人口稠密地に突入したことである。また当時の中国法では軍事地区に指定されると住民は一切私有財産を失った。すなわち、わずかな動産を除いて24時間以内の立ち退きが命じられた。このこともあって住民の中国軍(国民)への支持が強かったわけではない。しかし日本にたいする抵抗心や愛国心が弱かったわけではない。沿海地区とくに上海近郊などでは既に工業化がある程度成功しており、中国内では先進地区だった。住民の識字率は高く、新生活運動が盛んだった。

日本兵が記録した中国の新生活運動の標語は次のようなものだった。

日本是我們的仇敵(日本は我々の仇敵だ。)
逼駆後方的部隊者槍決(退却する部隊は銃殺だ)
姦淫婦女槍決(日本人と関係をもつ女性は銃殺だ)
無故放槍者槍決(銃を理由なく手放すものは銃殺だ)
国軍来了民衆不要驚慌逃跪(国軍が来た。もう慌てたり逃げたりする必要はない)
敵機来了民衆不要乱跪(敵の飛行機が来てもとり乱す必要はない)
要留人看房屋(屋内に留まり監視せよ)
民衆要興国家共存不要怕死逃跪(民衆は国家とともに繁栄することが必要で恐れたり逃げたりしない)
強取人民財物者槍決(強盗をはたらくものは銃殺だ)
万衆一心抗戦到底(すべての人々が徹底して抗戦することだ)
不賭博不狎妓(賭博や買春をするな)

当時の日本軍兵士は現在の日本人よりも漢字(当時は旧字で共通、またごく一部の漢字を除いて双方とも康煕字典で異字を排斥していた。)についての教養が深く、これらの漢文の意味をほぼ理解できたようだ。

またこれを標語にしたことは、中国民衆でこのような反応を示した者は少なくなかったということだ。そしてドイツ軍がベルギー領内に侵攻したとき、同じように標語に類したことが発生した。例えばドイツ兵と関係した女性は多かったが銃殺はおろか追求されることがなかった。一方フランス政府はこういったことに厳しかった。これは第2次大戦でも繰り返された。

また中国では国軍が来て、慌てたり逃げたりする民衆が存在した。これはベルギーやフランスではみられない。当然ベルギー兵やフランス兵は自国領土を奪回したとき沿道花道で歓迎された。国民党軍が士気はともかく軍紀は必ずしも良好でなかったことは事実のようだ。当時法令では徴兵制をとっていたが、実際は傭兵に近くほとんど華北・両広で募集された。このため兵士と民衆は言語による意思疎通ができなかった。そして上海周辺は中国きっての裕福な地帯で、そこに住む人々は国民党の兵士と共通の感情はもてなかった。一方日本兵は字が書けるから民衆との意思疎通が不可能ではない。これは国家間の戦争では珍事だった。

現在においてもこれは当てはまるが、中国のインテリ階層は日本人を必要以上に嫌い中国の大衆は必ずしもそうではない。それがまたインテリ層を反発させ、無知の大衆として軽蔑することになる。この戦いはむしろその原型を作った観がある。

並行追撃

掃討戦の特徴は敗残軍が指揮系統をしばしば失うことである。多くの中国兵は乱軍のなか逃走路を見失った。このため暗夜、追う日本軍兵士に道を聞くものが続出した。日本軍はこのような際合言葉を決めていた。MG(中国人に発音が難しい)だったらしいが、合言葉が言えなければ、その場で射殺された。痛ましい事であるが戦場とはそういった場所であり、戦争を引き起こしたことが誤りなのだ。日本の士官学校はこういった掃討戦を平行追撃と呼び、各員の行動方法および参謀の作戦立案の仕方を教育していた。

MAP(掃討戦)

また中国軍は後背地を事前に戦闘区域に指定しなかった。大場鎮を突破されたあと南京までの農村地区をあわてて軍事地区に指定したが、当然住民は強制立ち退きとなりまた一部の家屋は破壊もしくは焼却された。これ自体厳しいが延焼防止と視界確保のため止むを得ない措置だった。このため残った家屋に一般住民は収容されたが、そこに便衣兵が流れ込み大混乱に陥った。

この便衣兵は通過する日本兵を後方からしばしば襲撃した。日本軍は兵站を弾薬と補充兵に重点を置いたため、その他の物資の輸送は行軍のスピードに追いつけなかった。すなわち前線の後方では補充兵と輜重兵など丸腰の兵による交通渋滞が起きた。それに加え前進スピードが速すぎると、行軍ライン(作戦軸)に沿った後備兵などによる哨戒線も薄くなる。これを好機とみて便衣兵は哨戒ポストを突破、脱出を図った。しかしこのような散発的な試みはほとんど成功しない。沿道は便衣兵と正規兵の死体が途切れることがない情況になった。

また徴発とは、無償で財物を略奪することではない。通常は伝票を残し、後で所有者が伝票を日本軍の経理に持参し支払いを受けた。この戦いで日本軍による物資の徴発が厳しかったという説があるが根拠がない。この時、支払いは順調に行われたからむしろ歓迎された。ただ徴発の権限を将校だけでなく下士官にも認めたせいか、名前を豊臣秀吉と書くなどの不届き者がいたと報告が残っている。この徴発の仕方は第1次大戦の各国も行っていた方法で戦時国際法に準拠したものである。

尖兵−後備兵

この乱軍の情況を村田和志郎(第18師団歩124歩兵伍長)が日記に残した。村田はマルクスボーイに近いとみえ、反戦・社会主義思想を語っている。本の解説者(宇都宮泰長)は「日中戦争における・・・(文脈不明)・・・略奪・暴行・虐殺といった日本軍の罪科によって、戦史上類をみない汚点を残した・・・」と政治的・中国国家主義的罵声をあびせるだけの人物である。(少なくともこの戦争よりも残酷な戦いは史上あった、すなわち汚点を残した戦争はいくらでもある。そう興奮してはいけない。)

特設師団

従って、改竄があったとしても左翼的(中国国家主義的)に修正したはずである。すなわち日本軍の悪行をより悪く表現するはずだ。(実際改竄のあとは随所に残る。)

村田の歩124(小堺連隊長:後備連隊)は太湖西岸の湖州に11月25日(1937年)に到着した。湖州はこのあたりの中心都市だった。その時のことを記す。

湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。…城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。

街には人影がみられない。それでもどこからか若い女が三人でてきた。我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。

一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。自分達は彼女らをそっとして置いてやった。それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。

また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。夥しい出血で苦しんで訴えている。すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。

このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。

この記事は11月25日だが、湖州では前日中国軍が城壁の上に立て篭もり抵抗した。これは敗軍収容を目的としたものだが、日本軍は重砲(15留)により城壁を簡単に破壊し敗走させている。この翌日、この小堺連隊が到着したものだが、中国兵はそれより後から到着するものも多く昼間城壁の内外で銃撃戦を展開、中国軍はこの日だけでも数百の死者を出した。一方日本軍は軽症を負ったものだけで、戦死者はなかった。掃討戦での敗軍の悲惨さが出ている。

ところで村田の記録にある城内の女性の情況をどう考えたらよいのか。村田は日記としているが、後日書いたものと推定できる。ただこれに類したことは存在しただろう。村田は暴行に及んだのが支那兵だとしているが、簡単に割り切れない。またこの時の中国社会の全般として、城内の家屋で便所のある家はまずない。従って、共同便所であり女性も同じである。そして便所に普通ドアがない。すなわち外から丸見えであり、中国人はあまり気にしない。また普通の民衆は男女とも青または黒の木綿の上下を着ており、その他は身につけていない。ただ貞操観念(現在このような言葉はないかもしれないが)が低いということは必ずしも言えない。すなわち、当時の日本社会と比較して相当に貧しかったことは否定できない。

また欧州のケースだが、当時の特殊事情として兵士は女性に異常に人気があった。塹壕戦では通常三日位前線勤務で残り三日は数十キロメートル後方の兵舎で休養できる。兵舎の周辺は売春婦でない普通の女性がとりまいていた。日本語では兵営近くの売春宿にいる女性を慰安婦と呼ぶが、英語ではCamp Follower(兵舎を追う人)であり、金銭を要したようにみえない。これは若い男が突然消えたためだろう。フランスに上陸したBEFは初めての日からフランス女性に追っかけられ、前線まで女性を連れて行った兵士がいたと記録に残っている。(最前線ではなく兵舎の意味)ドイツ兵はやや不利だが、それでも相当のフランス娘がドイツ兵に嫁いだ事実がある。欧州人は慰安婦という言葉で日本兵はもてなかったと想像したに違いない。ただ日本兵も中国娘に懸想し日本に連れ帰ったケースはかなりある。日本兵は、普通2年以内に現地除隊になったから、その時内地に連れ帰ることは難しくなかった。

村田の記述をどう解せばよいのだろうか?

これは両者すなわち中国兵と日本兵双方が強姦に及んだことを示すのではないか。中国兵が城内からて立ち去るとき、強姦・略奪を働くことは軍閥相互だけでなく、蒋介石の北伐のときも発生している。現に南京でおきたのが第3次南京事件である。この湖州で追撃する日本軍への抵抗は有効な指揮系統にもとづいたものとは思われない。記録を信じれば、城壁の上で戦ったとあり、軍事教育を受けていないものが指揮をとったのだろう。すなわち中世の城壁が重砲に対抗できず、上にこもることが危険だと判断できなかった。中国の城壁は一般に磚(セン)と呼ばれるレンガでできており横から圧力には弱い。南京攻略で守備隊は土嚢を門の後方に積んで防衛しようとした。この時は歩兵随伴の山砲(!)で破壊できたと言う。このため抵抗が絶望と悟るのは早かったはずである。重砲だから射撃に半日はかけたと思われる。国府軍兵士は前々日あたりから全員逃亡の間、不安な時間があったはずだ。またその後入城した日本軍はどうだったろうか。先頭は突撃隊(この戦いは追撃戦のため尖兵と呼ばれた)だろう。それから直協部隊や哨戒のための後備連隊の入城が完了するまで時間があったのではないか。その間何が行われたかである。

杭州湾上陸の日本軍は敵の激しい抵抗を受けていない。もちろん先行した師団は現役兵で、それまで実戦経験はなかったはずだ。敵軍は上陸時点で南京または杭州方面への総撤退に移っており、上陸直後から追撃戦となった。当時新戦術とされた分隊攻撃をしたのだから、分隊長の判断のもとに10名前後の兵士が、三々五々敵兵の逃亡した城内にはいり、便衣兵が潜み一方強姦を受けた婦女子が下半身裸で集まる家屋を一軒一軒捜索したはずだ。憲兵が到着するのは2日以上遅れる。日本軍兵士がすべて木石だったとは思えない。

ただ一方で、強姦事件の存在は疑えないが組織的でなく散発的だったことも村田の記述からうかがえる。すなわち女性を集中して監禁状態においたと読むことはできない。第1次、第2次大戦で大国の軍のうち組織的に強姦事件を引き起こしたのはソ連軍(帝政ロシア軍ではない)だけである。ただかつて強制徴募による文盲の農民兵の場合、組織的強姦事件が発生した。ただその種の事件は記録に残るものは第1次バルカン戦争が最後であり、その後国家間の戦争では起きていない。徴兵軍の兵士は普通の市民であり、村田のように市民としての倫理感を持ち合わせている。日本人が人種的に戦場で異常に性欲を発散させると証明することはできるのだろうか。

便衣兵

また藤原彰、洞富雄らいわゆる南京大虐殺派は便衣兵が抵抗力を失い武器も所持していないと書くが事実に反している。村田の日記によると、

11月25日(同日夜)下士哨に立ち寄ると3・4名休憩中の日本兵がいる。いずれも銃を抱いた体で城壁の下の穴倉みたいなところで仮眠している。そこに突然便衣隊が2名忍び寄り、日本兵がまどろんでいる隙をみて銃を奪い取った。敵という声に目をさまし立ち上がり格闘となった。突然のことであり便衣隊の1名は逃げたが1名は頑強に抵抗してなかなか取り押さえられず、3・4人がかりで1名の便衣兵の手をとり、足をとり、捕虜にしようとするが、日本兵の方が危なそうである。発砲すれば友軍への危険もある。・・・自分は下手をすると被害がこっちにもでかねないと思った。咄嗟になかに入り、便衣隊の顔を軍靴で踏みつけた。すると静かになった。騎兵隊がちょうど傍らにいた。殺させてくれという。騎兵は長い軍刀を引き抜くと首は飛んでいた。

ここの騎兵による斬殺は捕虜の処分にみえるが、便衣兵が民間人の格好をする範囲では即決処分は武装スパイとの戦闘(=陸戦規定が適用にならない)と同じことで少なくとも当時は当然のことだった。といって日本軍が捕虜をとったと主張する気はない。また便衣兵といえども戦闘行為中でなく殺害することは疑問であり、後送または留置・尋問した者は軍法によって裁くことになる。ただ、どの国でも平服の人間が兵士を殺害したまたは未遂の場合、極刑は免れない。また平服へ着替えた段階で、上官の命令がなければ(あれば陸戦規定違反となる)敵前脱走であり普通極刑(軍人としての名誉も与えられず絞首刑の可能性が強い)であり、相手側は投降捕虜として扱う。

ただ朝鮮動乱で包囲された釜山半円部の北朝鮮攻囲軍やベトナム戦争最末期、サイゴン陥落時の南ベトナム軍でこのような民間人の服に着替えるということが起きたようだ。つまり包囲されるなり、殲滅直前に絶望的な行動として存在した。そしていずれの場合も着替えても結果は同じだった。

それでは城内すなわち都市部における民間人の組織的虐殺はあったのだろうか。

また普通、都市を除いて交戦地区に民間人がいることはまずない。ただ、女性が最前線まで出てバーや衣服の修理業を営み、イギリス兵がフランス女性の強靭な神経に感動したという記録が残っている。彼女たちのバーの1階は半壊または全壊し、地下で営業しており大繁盛したと言う。ただイギリス兵がどのように酒を仕入れているか聞いても教えてくれなかった、そうである。これに類した話は以降日本軍兵士も中国戦線で経験した。

また都市では狙撃防止のため占領軍により地下室にいて、2階以上にはいるなと命令を受けた。つまり都市は通過するか砲撃の目標とするだけで、まさにそこで防衛戦に出ようとする軍隊はなかった。

普通、市長や関係者が占領軍の降伏文書に署名し、占領軍はその代償として物資または課徴金を課した。ところがその後、占領軍が通過するとき、2階からしばしば狙撃された。そして市長以下が身代わりで処刑されることが多かった。これを防ぐためにベルギー、フランス両国ともに民間人の狙撃を厳重に禁止した。国府軍は上海・南京間でしばしば都市の中世の城壁を頼り防戦しようとした。これが民間人を巻き添えにした一因となったことはあるだろう。国府軍の参謀教育のレベルが低かったか翻訳本による学習だけで実地での兵棋演習の機会が少なかったためと思われる。

民間人の組織的殺害は、それまでに起きたものとしてトルコ人によるアルメニア人の虐殺事件がある。だがその背景に宗教的対立とそれを煽る国家的宣伝があった。日本兵には両方ない。差別意識程度で組織的民間人の虐殺などできるものではない。それとも日本人は人種的に殺人嗜好をもっているのだろうか。

アルメニア人虐殺

投降捕虜の殺害

日本軍が捕虜をとらない、という方針をとったことはマボロシ派の反論にもかかわらず、各級司令官の証言、日記で明らかだ。またこの方針を中国側もとったと推定されるが、それを以って日本側の弁護にはならない。(1937年に中国側地区に不時着または落下傘降下して捕虜となった日本人航空兵12人がいたことが中国側報道で知られるが、現在まで消息不明である。)

ハーグ陸戦規定は、捕虜を戦闘捕虜(戦闘時に屈服したもしくは意識不明となり保護された敵)と投降捕虜に区別し、さらに個人投降を認めているのが特徴である。ハーグ陸戦規定ができたのは第1次大戦以前であり、当時の荒々しい尚武の精神が基盤となっていた。すなわち最も保護しなければいけないのは戦闘捕虜で、とくに将校の場合は特別に厚遇されなければならない。これは最後まで戦って捕虜となった人間は尊敬されなければいけない、という考え方に基づいていた。ただ捕虜となったとき殺害されるべきか否かの判断には立ちいたっていない。こういった情況であれば騎士道から当然殺害しないという前提にたっていたと思われる。

投降捕虜は原則として、指揮する将校が一団を率いて降伏条件を協議のうえ降伏するものであり、命令系統が残存していることが基盤となっている。これがいわば正式の降伏である。

ところが日本軍はいずれの方法によっても捕虜はとらなかったようだ。上海攻防戦の捕虜は数千名といわれ、上海などに送られたが過小にすぎる。とくに集団投降は相当に出たが、いずれも射殺、焼殺、斬殺などの方法により殺害された形跡が強い。(*)

(*)捕虜の殺害と浸透戦術

戦後の軍人の供述のなかに、現地で捕虜を解放したとする証言があるが、これは考えられない。このためには捕虜は戦争期間中、日本およびその同盟国に敵対しないことを宣誓しなければならない。(個人別と通常理解される)

これは書面によるうえ、普通は中立国で釈放し、一旦中立性を確保する必要がある。そしてこれは上官の承認を得ない限り、将校の経歴にとり致命的である。ところが、中国軍将校の命令系統はほぼ崩壊しており、この手続きを踏める情況にはなかった。

あるとすれば、現場のめこぼしによるしかない。ところが中国兵が便衣戦術を組織的にとる限り、これは軍への反逆となりかねない。すなわち、釈放した兵士が、自分の範囲外の部隊を襲撃した場合、所在が確認できないところから攻撃を受けることになるから(奇襲)、情報班は再度捕らえた捕虜を拷問にかけても存在の理由を確かめる可能性がある。

南京の難民区に流れ込んだ便衣兵を捕縛しようとした日本兵に「どうか労務者として使用するか帰農させて欲しい」と中立国の外国人が依頼したと言うが、射殺の可能性はともかく兵士の名誉はこの場合無視されたことになる。とにかく便衣戦術をとられたことが、捕虜殺害の背景の一つにあった。

降伏しないことは普通徹底抗戦するわけで、名誉を考える軍人であれば最後まで戦い戦死する道を選ぶことである。つまりハーグ陸戦規定では、降伏か戦死であり、中間は戦闘能力を失い捕虜となるか圧倒され捕縛される(戦闘捕虜)道しかない。つまり戦争とは命のやりとりをしている訳で、負けて命を惜しむという考えが陸戦規定にはない。

このような新手の登場で日本軍が混乱したことは疑いない。ただし、日本のとった浸透作戦が成功した場合、通常は大量の捕虜、戦死戦傷者と同数程度が発生する。それがなかったのは、余程逃亡技術に優れるか、または捕虜を殺害したかしか考えられない。

ただ第1次大戦でも、個人投降を認める軍は存在しなかった。要するに戦場では降伏意思が確認できないし、後送に手間がかかりすぎ殺害が早く簡便だと判断された。個人投降は当時敵軍への脱走と同義だった。すなわち平静なとき無人地帯を敵軍の方へ走り込み脱走する手である。これは多数発生したが、いずれも尋問ののち捕虜と同じ扱いをうけた。また休戦後敗戦国も含み各国ともこの行為を軍事犯罪とみなし追求した。イギリス兵捕虜もドイツからの帰還後、12名が軍法会議で死刑判決を受けている。

そして当時の各国の軍は徴兵の軍であり、個人の記録はロシアを除いて厳格に処理されていた。行方不明、投降捕虜などの区別はその後の名誉が絡むため、極めて重要で各国とも厳重に記録を残している。現在でもイギリスでは第1次大戦の軍法会議での処断について遺族が再審を求める動議を議会に提出している。これは軍法会議の処断は連座制のため、子弟が士官学校などの優先入学権を喪失してしまうためである。また将校が捕虜になったあと拷問によったとしても上官の命令や作戦を批判することは致命的で、即刻軍務を解かれ、予備役編入の権利すら失った。すなわち将校といえども独断で降伏することは許されなかった。

当然、制服を脱いで民間人に紛れ込んだとすれば、敵前での脱走とみなされる。付言すればこれは日本の将校も同一で、フィリピンでの小野田少尉はマルコス大統領に面会するとき、制服に固執し銃と剣を差し出す儀式を希望した。これは戦闘捕虜の形を望んだためだ。

つまり個人で投降することや将校の指示に基づかない投降は、当時許される方法とはあまり考えられていなかった。日本軍の問題は集団による投降捕虜を殺戮したことにある。

中国上海攻囲軍は10月15日前後には指揮系統を喪失しつつあった。台湾政府が発行した蒋介石書簡集は10月28日で途切れている。そして遅くとも10月28日に前線へは総退却の指示が出ていた。ところが最前線の兵士はそれでも現在地死守で最後まで戦った。追撃戦は12月12日の南京陥落まで続いた。この時上海=南京間には83個師団、77万人(公称)の中国兵が充満していた。そして、急遽志願した学生部隊など雑兵(雑兵は中国(国民)の用語。正規軍兵士は官兵と呼んだ。制服は着ていた。地味な中国服に比較して軍服は人気があり、関係がなくとも着用している人間は多かった。)も10万人はくだらぬ数字で展開していた。

これにたいし日本軍は南京到着時で約9個師団半28万人である。(海軍等は除く。)ただし日本軍の補充兵は順調に届いたから常にこの数字は存在した。また軍属やクーリー(当時の言葉のママ)は別個にいたから、単純に中国軍の数字とは比較できない。実数では中国軍80万人(南京保衛軍含む)、日本軍40万人(延べとして計算)ではないか。

つまり日本軍は2倍近くの敵を敗走させた。中国側戦死者(南京防衛戦を除き25万人)が過大だと否定する考え方もあるが根拠を通常の遭遇戦においている。この戦いは追撃戦であり、逃げる兵士を後ろから斉射で戦死させている。1917年イタリー戦線、カポレットの戦いでイタリー軍は総勢110万人のうち60万人の被害を2週間で受けた。この時の独墺軍の被害は5万人以下といわれ、「砂漠のキツネ」ロンメルはドイツアルパイン軍団(山岳猟兵の部隊)の一人はイタリー軍兵士20人に匹敵すると豪語した。これは松井石根の言辞、「日本人兵士一人が中国人兵士10人・・・」と酷似している。

とにかく日本軍の戦死者は南京戦を入れても2万人に満たない。米軍の言うキルレシオ(殺人比率)からいけば、これは恐ろしい数字である。

上海攻防戦は戦史上稀ににみる攻撃側の大勝利である。日本人は外征の経験が多い民族だが、それでもこの戦いは勝利として記憶に残ってしかるべきである。ところが、現在では日本人の誰しもが忘れようとし、中国人は思い出させようとしているかのようだ。日本軍が弁解できずに非難されるのは、捕虜を大量に処刑したからである。略奪・強姦もあり当時の基準からみても異常だった。しかし兵士はそれが許されない行為だと認識していた。これについても我々は中国政府と国民に謝罪しなければいけない。ところが、この戦いにおいて日本軍上級指揮官は捕虜の殺害を許されると考えていたようだ。

この捕虜殺害を、兵士が捕虜となることを禁止した戦陣訓的倫理の関連で考えようとする人々も多い。ところが、自分がどういった立場をとろうと、法律(この場合条約だが)には従うべきである。当然ヒトラーやスターリンを批判しても、それで自らの行為は許されない。敵軍でもこの事は同じである。

すなわち自ら批准した、条約=国際法に違反したことで責めをうけるべきだのだ。この事件について言えば、現在の日本政府は言葉だけで謝るのではなくて、捕虜になってから殺害された兵士の遺族や不当な被害をうけた民間人に賠償すべきだろう。部隊名などはかなり特定できるようだから不可能なことではない。ただし戦死者や戦場で死亡した人々に補償してはならない。それは中国政府の仕事であり、そうでなければ戦死者の名誉は保たれない。

ただ政治的に中国(共産)政府が非難している内容に屈する必要はない。戦場が他国内でそれを以って侵略だと定義するような論理に屈してはいけない。

日本軍が非難されるのは国際法に反したという事実である。中国(共産)政府は虐殺のなかに追撃戦での戦死者も含めているようだ。この事は当時の国(中華民国)のための戦死者といわば日本軍の暴虐のために殺害された人々を区別しないことである。国の大義に従い戦死した人々は、日本軍に無抵抗に殺されたのではなく日本の大義に抗し軍務についていたのであって名誉という点で性格が違う。

あるいは違いはない、または道徳的に同一と見えるかもしれない。しかし法治主義とは、法の思想面も含んで従うことであり、当時の国際法では軍人として戦死した人々の名誉はあくまでも守られねばならないと言う基準に則っていた。そして現在でも大半の国ではそれを認めている。

昭和の軍人は国が滅んで、なにが国際法かと叫んで戦争に突入していった。国が敗北しても国は残るし民族も残る。滅びるのは軍人の世界だけなのだ。クレマンソーは「戦争とは将軍にまかせておくには重大すぎる。」と述べた。戦争に突入することは、実は将軍たちの能力に国や大半の人々の運命を任せることに他ならない。上海攻防戦で中国軍に勝機は十分あった。国際法を知りながら無視した日本の将軍がドイツ国防軍の将軍よりも優秀であったにすぎない。残念なことにフォシュを使いこなしたクレマンソーに匹敵する政治家が日本にはおらず、将軍たちが政治家になってしまったが。

昭和天皇はあくまでも憲法に従う、と内閣成立時いつも首相に宣言していた。ただ現在に至ってもこれの本質が儒教的錯覚からか理解されていない。国際法を遵守しないばかりに、歴史に残る大勝利が一転して不名誉となったこの時の将軍の立場を知るべきだ。

また掃討戦の結果中国(国民)上海攻囲軍の主力は南京城外で殲滅されたと推定されるが、マボロシ派はこの事実を否定する。(*)では攻囲軍はどこへ行ったのだろうか?帝国陸軍は敗残兵を大量に取り逃がすほど弱体だったのか?

(*)行方ではっきりしているのは88師と87師でこれは南京保衛軍に加わっている。両方とも自動車化師団のため退却は容易だったとも推定できる。

ただ南京に残った補充部隊を臨時編成したとも考えられ、そのままの軍隊とは考えにくい。大場鎮陥落時、中国上海攻囲軍はまだ30万人は残っていたと考えられる。

11月17日から11月25日まで、南京から漢口への脱出作戦が展開されており、11月10日から18日までに南京に到着できれば脱出可能だった。点呼や装備更新などで1週間はみなければならない。要するに10月最終日から行動を開始して10日から18日で南京に到着が可能かという点である。250Kmだから不可能ではないが自動車化師団以外は兵站が切断されており、難行軍は疑いない。

ところが数個師団は完全な形で撤退に成功したようだ。それらの師団は到着順に江西や湖南に転属した。これは中国兵の能力の高さを示すものだろう。

1937年7月の段階で海軍陸戦隊に攻撃をかけたのは88師、87師、36師であり、これらの部隊は大場鎮や閘口の激戦でも最後まで徹底して戦った。ところがこの3師団とも幹部はほとんど脱出に成功している。

また日本軍の侵攻ルートは理想的に成功した兵棋演習のようで、即興でやったものとは信じがたい程見事なものである。

それにもかかわらず、中国軍兵士の相当数が部隊と別行動をとり脱出に成功した傍証が存在する。一つは南京に向かわず、上海または杭州に向かうルートである。これは戦場を逆走することだが、日本の哨戒線が薄いことを考えると存外好手で上海の租界で匿われたという記録が多数存在する。

沿道で戦死した者が5万、南京城外の戦死者は10万と推定され、上海前面での戦死者8万と合わせれば23万人となる。中国(国民)政府発表の数字が25万人戦死であり、近似した数字となる。

南京城外の死者

すると15万人と半数が脱出に成功したことになり、この種の退却戦としては大成功とも言える。

要するに日本軍の捕虜をとらないと言う方針は敵の抵抗意思を挫くという点では必ずしも成功していない。すなわち敵は最後まで脱出するか戦闘を行うという意思を固めるだけなのだ。この捕虜をとらない、という方針はただ人道に反するだけでなく戦争目的や戦果総合で失敗していることを見逃してはいけない。

当時の意識は別にして、駆逐艦1隻の費用で10万人の捕虜を1年食べさせることは十分可能であり、アメリカなどの中立国に移送することもできたのだ。また捕虜を上海のバンド(外灘)か南京路で行進させれば武威を示すことになっただろう。ただパリでもベルリンでも捕虜を行進させたが、日本人にこの発想はないようだ。

また捕虜の殺害は、いわゆる戦争残虐行為には当たらないという見方も存在する。しかし第2次大戦初期のソ連軍による、カチンの森でのポーランド軍将校の大量殺害、ドイツ軍によるロシア軍コミッサール(政治将校)の殺害は免責の余地がなく、南京前面での捕虜殺害も同種のものである。

上海攻囲軍の最後まで脱出をあきらめなかった兵士は揚子江を泳いで渡ることを試みた。この時既に両岸とも日本軍が待ち構え、さらに海軍艦艇が江上を遊弋していた。斉射を浴びて生き残ったものは少なかったと思われる。



日中戦争日記第1巻 村田和志郎 鵬和出版 1984

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