パレオログ日記


パレオログは第1次大戦後の1922年、浩瀚な自伝を刊行した。その中で第1次大戦中の記録は日記の形で書き残した。文体は平明で闊達であるとされ、第1次大戦の勃発に際してのロシア外交の動きについて最も信頼できる史料である。原因論やロシア外交史では必ずといってよい程引用される。

ロシア陸軍は、その巨大さで、他の大国に恐れられていた。常備兵力142万人、そして総動員実施後の兵力は450万人であり、またその後200万人の補充が可能だった。これはドイツとフランス合計の総動員兵力を上回り、最大の陸軍国であることは、日露戦争の敗戦があっても変わることがなかった。

またある兵士が倒れても、すぐさま同志(ムジーク)がその銃を拾い戦い、後退しても必ず倍する兵力で再度戦いを挑むその姿はヨーロッパ諸国民の戦慄の的でもあった。

しかし、フランスはその裏に潜むロシアの弱点もまたよく認識していた。すなわち国土が広すぎることである。通常国土が広くとも都市や穀倉地帯に集中して住むのが普通である。ところがロシア国民は本当に分散して住んでいた。

つまり総動員をかけても、国境線に兵士が並ぶのに時間がかかる。敵側はロシアの兵力集中が終わるまでに叩けばよい。ロシアとの戦争は必ずこの形で進む。フランス駐ペテルブルグ大使パレオログの第1の任務は世界平和の維持だが第2は戦争が予想された場合、ロシアの動員下令を急ぐこと、動員そのものを速やかに終了させ、仮想敵ドイツに二正面作戦をすぐさま強いることだった。

やや長いが、7月24日からドイツの宣戦布告までパレオログ日記の全文を掲載する。

登場人物は少ない。
サゾーノフ…ロシア外相
パレオオグ…フランス大使
ブキャナン…イギリス大使
ポウタリス…ドイツ大使
スザパレイ…オーストリア大使
この数日の出来事は外相室のアンテチェンバー(待合室)として戯曲化もされている。

7月24日


この4日間の絶え間ない緊張で疲れ果て、少し休みをとりたくなり、召使に今朝は起こさないように命じた。しかし7時に突然電話が鳴った。昨日オーストリアがセルビアに最後通牒を手交したのを知った。

ニュースを聞いた時半分眠っていたようなものだが、聞いた瞬間にある種の奇妙な気持ち、驚愕と責任を感じた。出来事は非現実的であるとともに決定的な、仮想的であるとともに正統的な、印象を与えた。昨日来のツアーとの会話の延長で、自分の理論と仮説が実現したかのように思えた。と同時に肯定的かつ脅迫的な戦慄を感じた。私は既成事実( fait accompli )を突きつけられたのだ。

朝一杯、ベオグラードで何が起きたか詳細が入って来た。

12時半、サゾーノフとブキャナン(英国大使)が情況についての相談のため、当大使館を来訪した。討論は昼食で中断したが、すぐさま実質的な会談に入った。ツアーとフランス大統領の交歓、外相相互の確認、ハバス局へのコミュニケ(?)により、断固たる姿勢をとることに躊躇はなかった。

サゾーノフ「しかし戦争になってしまう政策?…」

「東ヨーロッパの覇権を握るため、戦争をすでに独墺両国が決めている場合はその通りだ。断固たる姿勢は妥協と矛盾しない。だが独墺側にも交渉し妥協する姿勢があることが基本だ。私のドイツの長期計画についての見解はご承知かと思う。オーストリアの最後通牒は私が長い間懸念していた、危機を挑発する方法に見える。これ以降戦争はいつでも発生しかねない。この予測に沿って外交行動を決定せねばならない。」

ブキャナン「英国政府は中立を守る。それゆえ露仏両国が三国同盟に粉砕されることを恐れる。」

サゾーノフ「このような重大局面で英国の中立は自殺行為だ。」

ブキャナン「それは承知している。しかしわが国の世論は、国益が損なわれたと理解するにはほど遠い。」

私は英国がドイツの戦争熱をさますのに決定的な役割を果たしうることを強調し、ツアーの4日前の言葉、「ドイツが理性を失わない限り、ロシア、フランス、イギリスを同時に敵に回したりしない。」を引用した。英国政府が平和という大義を貫徹するには、われわれの平和を支持することが絶対に必要だと主張した。サゾーノフも熱心に同じ事を説いた。

ブキャナン「ドイツの専横に対抗する政策を英国が支持することが必要だと、グレイ卿に強く説明する。」

3時にサゾーノフは首相のゴレムイキンが主宰する閣議に出席するため、イーラグイン島に向かった。

8時に外務省に行くとサゾーノフはドイツ公使ポウタリスと面会していた。数分後ポウタリスは顔を紅潮させ、目を充血させながら出てきた。議論は白熱したに違いない。私が外相室に入るとき、彼は私の手を握った。

サゾーノフは直前の議論でまだ興奮冷めやらぬ様子だった。素早く神経質そうに動きまわりながら、枯れた、乾いた声を出した。

サゾーノフ「案じていたようにドイツはオーストリアを支持している。妥協の余地は少しも見せなかった。それだからポウタリスにロシアはセルビアを孤独に放置するわけには行かないと極めて直裁に伝えた。会話は気まずく終わった。」

「本当か!」

サゾーノフ「ポウタリスが言ったことを想像できると思うか?私は非難された。私も全てのロシア人もオーストリア人を嫌い、老皇帝の晩年を汚すのに何の遠慮もないと言うのだ。私は反論したよ。もちろんオーストリア人を好きではない、どうして好きになれるのかねと。…オーストリア人はわれわれに危害以外の何をしたのか?老皇帝について言えば、誰のおかげで皇位にいられるのか?思い出して欲しい。1855年、1878年、1908年我々に感謝すると宣言しているではないか。オーストリア人が好きでないとわれわれが非難されねばならぬのか。たくさんだ。」

「それはまずいな。外相、もしベルリンとペテルブルグの会話がそのような状態で続けば、長くもたない。すぐさまウィルヘルム皇帝が”輝ける鎧”の演説を始める。落ち着いてくれ。あらゆる妥協の余地を探らねばならない。わが国の政府は世論を背景に存立していることを忘れないで欲しい。もし世論が承知しなければあなたがを支持することはできない。イギリスも同じだ。」

サゾーノフ「戦争を避けるためにあらゆる手段をとる。ただ出来事の方向に不安だ。」

「政府にロシアはまだ何の軍事的手段もとっていないと保証を与えてよいか?」

サゾーノフ「なにもない。決めたのはドイツの銀行に預けている80百万ルーブルを引き上げることだけだ。」それに「ベルヒトルトにセルビアへの最後通牒の期限の延長を要請する。そうすれば、各国は問題の法律面の検討と平和解決の方法を発見する機会が与えられる。」と付け加えた。

外相は明日はツアーの主宰する会議だ。サゾーノフにツアーに与えるアドバイス(助言)に十分注意するように促した。すこし落ち着きを取り戻し、考えたのち会話を続けた。

サゾーノフ「心配することはない。そのうえツアーが慎重なことは承知していますね。ベルヒトルトは間違えている。出てきた結果についてベルヒトルトに責任を取らせることが、私の仕事だ。もしウィーンが戦争を択ぶならば、一旦セルビア領土を占領させ、文明社会にその非を曝すことも考えている。」

当時の外交官の置かれた緊張がいかに厳しいか判断できる文面である。また通信の問題で双方の誤解が甚だしいことがわかる。ただパレオログがサゾーノフを抑えている場面は日記があとで書かれており割り引く必要がある。ただ事実について、関連の第3者から誤りなどの指摘はない。

7月25日


昨日、パリとロンドンにいるドイツ大使が英仏両政府に、問題はベオグラードとウィーンに限定して解決されるべきだとの声明を読み上げた。

声明は次のように終わっている。

第3者による介入は、現在の同盟のあり方から、局地化の枠からはずれ、計算できない結末を招きかねないと懸念している。

脅迫外交が既に開始されている。

午後3時、サゾーノフは外務省に私とブキャナンを招じた。

サゾーノフ「臨時参事会がツアー主宰でクラスノエセロで開催され、陛下は原則として13個軍団を動員することを決定した。これはオーストリア向けに予定された軍団である。」そしてブキャナンの方を振り向き深甚に嘆願した。「もはや、英国は危機にあってロシアとフランスの側にたつことを逡巡すべきでない。この場合、単にヨーロッパの均衡だけでなく、諸国の自由がかかっているのだ。」

サゾーノフを支持しながら、私はこの外相室にかかっている、ゴルチャコフの肖像画を指差しながら例( ad hominem )を出して結論付けた。

「1870年7月(普仏戦争直前)何があったか?この同じ場所で、ドイツの野望の危険性を説くあなたの父(ブキャナンの父もこの時駐露大使)に、ゴルチャコフは”ドイツの力が増大してもロシアはなんら恐れる必要はない。”と言いました。その後非常に高くついたロシアと同じ失敗を今イギリスが犯してはいけない。」

ブキャナン「あなたは改宗者に再度説教しているのですよ。」

時間がたつ毎にロシア内の感情は高まった。次の発表が通信社になされた。

「帝国政府は墺塞関係の進捗に無関係でいることはできない。」

ほとんど同時にポウタリスはサゾーノフに、オーストリアの同盟国としてドイツはセルビアに対するオーストリア閣議決定を支持すると伝えた。

サゾーノフはセルビア政府に英国政府の仲介を求めるように助言した。

午後7時、(ペテルブルグの)ワルシャワ駅に任地のフランスに急いで発つ、イスボルスキー(駐仏大使)を見送りに行った。プラットフォームは大混雑で、将校と兵士であふれていて、動員が始まったかのようだった。素早く意見交換し情勢認識で一致した。

これは戦争だ。
Cette fois c'est la guerre.

大使館に戻ると、ツアーが4軍管区、キエフ・モスクワ・オデッサ・カザンの動員を決定したとの通知があった。それ以上の事としてモスクワとペテルブルグは軍事攻勢を受けている状態にあると宣言された。最後にクラスノスエセロの兵営は解散となり、通常の衛戍地に戻ることが命令された。

夜8時半、駐在武官のドラングイッシュ将軍はクラスノエセロに、ニコライ大公スコムリノフと会談するよう招じられた。

ロシアの反応は過剰に見える。戦争は全く決定していないが、外交のための動員(部分)がこの段階で決定された。これはロシアの抱える国土の問題で動員が遅れることが致命的だと判断したことによる。ただ外交官は戦争を早くも予期しており、これではツアーを筆頭とするロシアの意思決定機構に問題があると言わざるを得ない。

7月26日


午後サゾーノフと面会し、情況は多少好転したかのように感じた。

サゾーノフは今しがた、オーストリア公使のスザパレイ伯と会い率直で正直な(最後通牒の)説明を求めた。逐条にて最後通牒の文章を読み上げ、各条項の不可能な、バカげた、失礼な点を指摘した。友好的な雰囲気だった。

サゾーノフ「貴国の目的がセルビア人無政府主義者から国土を防衛することにあるとするならこの文書の背後にある意図は健全である。しかし叙述がよくない。」そして暖かく結論付けた。「最後通牒を撤回し、字句を修正してください。そうすれば結果を保証します。」

スザパレイは動かされたようで、半ば説得されたようだ。しかし政府の方針については留保した。

その夕、サゾーノフは最後通牒の修正で協力することを前提にペテルブルグとウィーンの直接交渉をベルヒトルトに呼びかけたことになる。

このような良い転換点を向かえて、サゾーノフに祝意を伝えた。

サゾーノフ「このような(妥協的な)態度を崩さない。最後まで粘り強く交渉するつもりだ。」

その時、あたかも何か心の中に恐ろしい映像が過ぎったように手を目のうえにかぶせ、震える声で私に尋ねた。

サゾーノフ「正直にいって、私達は平和を守ることができると思いますか?」

「もしオーストリアだけを相手にするなら希望があるでしょう。ですがドイツがあります。ドイツはオーストリアに大勝利を約束したはずです。ドイツはわれわれが最後まで抵抗することはできないことを確信させたのでしょう。協商側はいつも通り折れるとね。しかし今回は譲れない。存立の危険に立っている。戦争を避けられないかもしれない。」

サゾーノフ「大使、何が起きるか考えると恐ろしい。」

この段階、すなわちオーストリアのセルビアへ最後通牒交付時点で、露仏が存立の危険にあると言うのは、やや先まで考えすぎている感がある。趣旨からして局地戦争の危険ははっきりしているが、パレオログの頭にはヨーロッパ戦争が点滅している。この時点でパレオログは政府の訓令なしに、フランスはロシアのバルカン政策を支持するとの言質を与えたのではないか、と言う説が存在する。

7月27日


この日は公式の出来事としては静かな1日だった。外交は自律的に定められたコースを追っていた。

電報とメッセンジャーボーイが届ける信書で頭のなかは渦が巻いていた。夕食の前に島内の散歩に出かけた。イーラグイン宮殿のそばの人気のない道に車を止めた。1時間程思索にふけった。

柔らかい絹のような日差しが、大きな樫の木の葉を通して洩れていた。少しの風も枝を揺することはなかった。そして、木々のまた川の流れの湿った香りをかぐことができた。

私の思索は完全に悲観的だった。いくら考えてもまた常にある結論に戻ってしまう。…戦争。外交的策略とその組み合わせの時間は過ぎ去ったのではないか。現在の危機を招いている遠くのまた底に流れる要因と比較すれば過去数日の出来事は何でもない。軍事力の自動的なメカニズムが解き放つ力に抗することは、最早個人の力では不可能だ。我々外交官は出来事の進むコースに最早影響を与えることは不可能だ。我々の出来ることは、物事を予想して政府が取らねばならない行動を上手に制御させることだ。

外務省からの電報ではわがフランス国民の士気は高いようだ。神経症的な高ぶりとか戦争熱はない。静かな強い自信と完全な国民的連帯だ。これがつい今しがたまで、カイヨー事件(カイヨー首相の妻がジャーナリストを射殺したスキャンダル)に興奮して、裁判手続きにのた打ちまわっていたのと同じ国だとは。

ロシアでは世論が激昂し始めている。いまの所、サゾーノフはうまく新聞を抑えている。しかしサゾーノフもある程度は新聞記者に情報を与えねばならないし、こう言ったに違いない。

「やりたければオーストリアに行くことだ。だがドイツには柔軟に。」

パレオログは余裕のできたこの日重大な結論を出したようだ。前職は外務省の情報局長であり、シュリーフェンプランを知る立場にいた。ロシアの部分動員がドイツの動員とベルギー侵攻に向かうことを予想したのだろう。これは事実をもって的中した。しかし、この時カイザーはまだ海の上にいた。ベルヒトルトは局地戦しか頭にない。歴史の渦中にあった人物はよくこのように見えざる力が働いたように回顧する。しかし、わがパレオログはまだロシア政府を説得しうる立場にあった気がする。

この日、日本の本野大使がパレオログとサゾーノフに面会している。本国への公電によると、サゾーノフからは「イタリーは戦争を欲しないし、ドイツも平和維持の方向のようだ。」パレオログから「英露仏の圧力で、ドイツがオーストリアの説得に回るのではないか」と説明を受けた。

7月28日


3時に外務省に向かった。ブキャナンがサゾーノフと打ち合わせていた。

ドイツ大使が次に順番を待っていた。私は正直に話しかけた。

「それで、ついに同盟国を落ち着かせるのに決めたのかね。あなたがたがオーストリア人に叡智を説ける唯一の立場にあるのだから。」

ポウタリスは、震えるような声で抗議の声をあげた。「だが、セルビアを落ち着かせる義務を負い、また応援しているのはここではないか。」

「名誉にかけて言うが、ロシア政府は落ち着いているし、いかなる妥協にも応じる構えだ。しかしロシアにセルビアを滅ぼすことを頼んでも、それは無理だ。」

ポウタリス「同盟国を見捨てるわけにはいかない。」そして、はっきりと付け加えた。「かってな事をいいますぞ。これは重大な瞬間であり、遠慮なく互いに言い合ったほうがよいと思う。オーストリアーセルビア問題が24時間以内、二日以内に片付かねば、これは戦争を意味します。全面戦争。まだ世界が知らない破滅です。この災害はロシア政府が平和愛好的であれば、イギリス政府が、フランス政府が平和愛好的であろうとするなら、避けることができます。」

この言葉を発したあと、ポウタリスは絶叫する調子となった。「神に誓って言う。ドイツは平和を愛好する。ドイツこそが43年間にわたってヨーロッパの平和を維持してきたのだ。43年間、軍事力を濫用することを避けてきた。そして今戦争を仕掛けるものとして我々が非難を受けている。歴史は正義が我々の側にあることを証明するだろう。我々の良心は決して他人を非難したりしない。」

「我々はもう歴史の審判を必要とする所まで行き着いてしまったのかね。戦争回避の途はもうないと。」

ポウタリスは興奮して、もう口がきけないようだった。手はふるえ目は涙で濡れていた。

怒りで震えながら、繰り返した。「我々は同盟国を見捨てたりしない。」

その時、イギリス大使が外相の部屋から退出した。ポウタリスはイギリス大使と握手することすらせず、部屋に駆け込んだ。

ブキャナンは「一体ポウタリスはどうしたんだ?」と言いながら、外相室でのことを語った。

ブキャナン「なんという状態だ。情況は悪化している。ロシアは耐えられると思うが。ロシアは真面目にことを処理しようとしている。今サゾーノフにドイツが挑発と呼ぶあらゆることをしないように頼んだ。ドイツ政府にあらゆる責任とイニシアチブを被せなくてはならない。イギリスの世論はドイツが疑いなく侵略者だと認定しない限り戦争に介入することは納得しないだろう。申し訳ないがあなたからもサゾーノフにそのように伝えて欲しい。」

「それは私がいつも言っていることだ。」と回答した。

その時オーストリア大使(スザパレイ伯)が到着した。青ざめて見えた。なにかよそよそしい態度は日頃の人の好い礼儀正しい愛想とはかけ離れていた。

ブキャナンと私は何か話をさせようとした。

「ウィーンから何か良い知らせは受け取りましたか?私どもの気持ちを安ませてくれると良いのですが。」

スザパレイ「いや何も。機械が動き始めている。」

それ以上の説明を拒否するように、その黙示的な隠喩を繰り返した。

スザパレイ「機械が動き始めている。」

これ以上追求しても無駄と判断し、ブキャナンと外に出た。実際のところ、ポウタリスとスザパレイの後に、外相と面会したかった。15分ほど後、私の名前が呼ばれた。外相は青ざめ興奮していた。

サゾーノフ「情況は最悪だ。」「最早オーストリアが我々に譲歩する気が無いことは確実だ。そしてドイツは秘密裏に応援している。」

「それではポウタリスからは何も言質が得られなかった?」

サゾーノフ「ドイツはオーストリアを見捨てないということだけだ。だけど、ドイツにオーストリアを見捨てろとは頼めない。私が依頼した全ては、ドイツが平和的手段で解決することを手助けして欲しいというだけだ。実際のところポウタリスは自制心を失っていた。言うべきことも言わない。どもりながら、怯えているようだった。なにを恐れているのか?我々は自制心( sang-froid )を失ったりしていない。」

サゾーノフ「ポウタリスは個人的責任が絡んで、自制心を失ったのではないか?もしかすると、ポウタリスは自国政府にロシアは対抗措置を取らないと報告して、このひどい冒険状態に追い込んだのではないか。もし、そんな事は考えられないが、ロシアが譲歩せねば、フランスはロシアを見捨てるとね。今自分で追い込んだ祖国の危機の深淵を見てしまったのだ。」

「それは間違いないか?」と思わず叫んでしまった。

サゾーノフ「情況からは間違いない。昨日ポウタリスはオランダ公使とベルギー領事に、ロシアは譲歩する、そして三国同盟の偉大な勝利だと説明した。確かな筋からこの情報を入手した。」

サゾーノフはふとため息をつくと、黙って座った。私が喋る番となった。

「ベルリンとウィーンに関する限りサイは投げられた。今考える必要があるのはロンドンだ。ドイツ国境にはいかなる軍事的手段をとらないことをお願いする。またオーストリア国境にもドイツが明らかな手を見せるまで慎重に構えて欲しい。少しの思慮がイギリスの向背を決める。」

サゾーノフ「賛成だ。しかし参謀本部は落ち着きを失っている。今ですら抑えることが難しくなっている。」

最後の言葉はたじろかせるに十分だ。ある考えが浮かんだ。

「危機がいかに重大でも、そこからの脱出がいかに困難でも平和維持ための手段を尽くすべきです。大使としての職務で私は前例のない立場にあることを理解ください。元首と政府の長が海にいます。時間をおいてしか連絡をとれず、信頼をおけない通信手段しかありません。危機についての情報が十分でないため、私に的確な指示が送れない状態です。パリの本省は長官がおらず、元首との連絡も私と同様程度で不規則かつ正確でありません。私の責任は重大です。それゆえに、今後フランスとイギリスの平和維持のための提案には全て従って欲しいのです。」

サゾーノフ「それは不可能です。目的も内容もわからない提案に事前に従えとは、どういうことでしょうか。」

「平和を救うために、不可能なことでも企てるしかないと言いました。それで要求したのです。」

短い躊躇のうちサゾーノフは答えた。

サゾーノフ「わかりました。受け入れます。」

「あなたの回答を公式なものとし、パリに公電で連絡しますが。」

サゾーノフ「結構です。」

「ありがとう。心にかかっていた重荷がとれました。」

7月危機の外交で特色的なのは、平和のための手段が次から次へと戦争へと加速させていることである。サゾーノフはポウタリスが本省へロシアのとるべき方針を誤って伝えたことを推測しているが、1945年第2次大戦後の連合国のドイツ外務省調査によってサゾーノフの推測が正しかったことが証明されている。パレオログの要求は露仏両国を一枚岩にさせたが、むしろロシアはこれを頼みにより強硬な軍事措置をとるようになった。

ベルヒトルトのフランス首脳が航海中にセルビアへの宣戦布告をする、そうすれば露仏は意思が一致できず拱手傍観すると言う判断は甘かった。

7月29日

私はドラマの幕開けの最終場面に到達したように思う

昨日午後オーストリア政府は総動員を下令した。ウィーンの内閣はこのようにロシア政府によって提案された直接会話の途をとざしたのだった。

この日午後3時、ポウタリスがもしロシアが軍事措置を解除しないのならば、ドイツもまた動員をかけざるを得ないとサゾーノフに伝えた。サゾーノフはロシア参謀本部の準備は、ウィーン政府の頑迷さの結果であり、一方オーストリアは8個軍団の動員をすでにかけていると回答した。

夜11時となり、ニコライ・アレクサンドビッチ・バシリー、外務省次官が大使館に現れた。バシリーはポウタリスの午後の強硬な態度を受け、オーストリア向けに13個軍団を動員すること、秘密裏に総動員を実施することに決めたと伝えた。

最後の1節は私を動転させた。

「いずれにしても準備だけとして部分動員に止めることは不可能なのか?」

バシリー「不可能です。その問題は軍部によって徹底的に検討されました。現存する条件のもとでは、技術的な見地から部分動員の選択の余地はありません。部分動員は総動員を不可能にさせてしまいます。もし部分動員を今日実施して13個軍団をオーストリア向けとします。そして明日、ドイツが総動員を決定すると、わが東プロイセン・ポーランド国境での抵抗が不可能となります。ドイツに対して速やかに動員することは、ロシアにとりまたフランスにとっても利益となることです。」

「非常に有効な議論だと認めます。しかしわがフランス参謀本部とも事前に打ち合わせをすべきではないですか。サゾーノフ外相にこれから話をしたいと伝えてくれませんか?」

ここで、ニコライ二世は部分動員の決定に当たって軍部と相談せず決めたことがわかる。技術的と言うが、ロシアの鉄道(東西に走り、南北には少ない。道路は逆。防衛上の見地から決められた。)では即興によるフレキシブルかつスピードに満ちた動員は不可能である。

7月30日


バシリーが外務省に戻る間もなく、サゾーノフから電話があり、第1書記のシャンブルンに緊急の信書を渡すので来て欲しいとのことだった。それとほぼ同時に軍事アタッシェのラグイシェ将軍が参謀本部に呼ばれた。

ニコライ二世はドイツのカイザーから今夕私信を受け取っていた。そしてカイザーが、オーストリアとロシアの間で理解に達するよう、個人的な努力を傾注すると言ったことを受け、総動員を延期するように決めた。ツアーは将軍達の部分動員への反対を押し切り、自分自身の権威をもってこの結論を出したのだった。それゆえにパリにはオーストリア向けに13個師団の動員についてのみ打電した。

朝、昨日夕オーストリアがベオグラードへの砲撃を開始したとの新聞報道に接した。

そのニュースはたちまち拡がり、市民の間に異様な興奮が広がった。あらゆる所から電話がかかり、フランスはロシアを支援する積もりかと尋ねられた。興奮した市民グループが大使館の下、ネバ河沿いの道に集まり議論していた。一方では仕事の手を休めた木材運搬の労働者に雇い主が新聞を読み聞かせていた。そして5人ばかりが長い演説を始めた。顔は怒りに満ちていたが最後は十字架を切って終わった。

午後2時、ポウタリスは外務省に赴き、サゾーノフと面会した。

最初の言葉から、私はドイツは平和を維持するための唯一の手段すなわち、オーストリアに制約をかけることを拒絶したのではないかと思った。

ポウタリスは雄弁に喋った。しかし最早それは敗者の言だった。首謀者ではないにせよ道具となって推進した非妥協的な方針の結末を知ることになったのである。ポウタリスは避けることの出来ない破局を予想して、責任の重圧に負けてしまったのだ。

ポウタリス「どうか政府に勧める最後の提案をさせて欲しい。これが最後の希望だ。」

サゾーノフはこれを受けて次のような素晴らしい方式を編み出した。

もしオーストリアが、墺塞問題がヨーロッパ問題としての性格を有すると認め、最後通牒からセルビアの主権を制限する条項を削除するならば、ロシアはセルビアの軍事措置を解除させることを約諾する。

ポウタリスはまだ絶望から立ち直れず部屋をよろめきながら出た。

1時間後、サゾーノフはツアーにペテロホフ宮殿に呼ばれ、事態を報告した。ツアーはその時夜配信された、カイザーからの電報に気を奪われていた。その調子は脅迫的であった。

もしロシアがオーストリアに動員をかけるのであれば、私の仲裁者としての役割は停止せざるを得ない。すべての結果についての責任は、陛下の双肩にかかるだろう。陛下は戦争か平和の責任を取らねばならない。

サゾーノフはこの電報を繰り返し読み、絶望して肩をすぼめた。

サゾーノフ「最早戦争を免れることはできません。我々が依頼した仲介者としての役割を明らかに拒否しています。ドイツが狙っているのは時間をかせぎ、秘密裏に動員を完了させることです。陛下、総動員の延期は最早不可能です。」

ツアー「あなたは自分の助言の意味することがわかっているのか?何千何万という人間を死地に送り込む可能性があるのだ。」

サゾーノフ「もし戦争となったとしても陛下と私の良心が責められることはありますまい。陛下と私はこの恐ろしい天啓から世界を救うために努力し、またし続けることでしょう。しかし最早外交は終了したと認めざるを得ません。これからは帝国の安全を第一に考えねばなりません。もし陛下が動員を停止したとするなら、軍事力の編成は妨げられ、同盟国との協調も果たせません。ドイツの目論む時間に戦争は発生すると考えるより他にありません。」

しばらく考えたあと、ツアーは結論を下した。

「セルゲイ・ディミトリエビッチ、参謀総長に電話して私が総動員を裁可したと伝えなさい。」

サゾーノフは階下のホールでヤヌシュケビッチ参謀総長にこれを電話した。時に4時だった。

共和国大統領と首相をのせた戦艦フランスは昨日ダンケルクに到着した。事前に予定されていたコペンハーゲンとクリスチャニアへの寄航は取りやめとなった。

午後6時、午前中にパリから発信されたビビアニ首相の承諾のある電信を受け取った。再度フランスの平和的意図とロシア政府への警告のあと、次の文言が付け加えられていた。

フランスは同盟によって負う全ての義務を履行する決意である。

サゾーノフにこれを伝えると、簡潔に答えた。

私はフランスを信頼していた。

この日記を信頼する限り、ニコライ二世はフランスの保証を得られる前に総動員を決めたことになる。ニコライはともかく、ロシア軍部はたとえ戦争となってもドイツはフランスに飛び込むことを前提として、総動員を主張したのだろう。

またニコライの総動員の決定は戦争の決定ではない。この後も二人は戦争回避に向けて努力した。このように、ハッタリがハッタリを呼び、誤解のうえに誤解が積み重なっていった。

7月31日


動員下令が正午発動された。高級住宅街でも労働者街でも熱狂的に受け入れられた。冬宮前のカザンの淑女像で、激励会があると言われた。

ツアーとカイザーは引き続き電信の交換をした。朝ツアーは電報を送った。

軍事的準備を取り消すことは技術的に困難です。しかしオーストリアとの協議が破綻に終わらない限り、軍隊はどの地点でも攻勢に出ることはありません。私は名誉にかけて保証します。

カイザーは答えた。

私は平和の維持に向けてあらゆる努力を払いました。文明世界を脅かすその恐るべき災害について私が責任を負うことはできません。あなた、あなただけがそれを避けることができるのです。私の祖父が死の床で遺言した私のあなたとあなたの帝国にたいする友情は、いまだに神聖なものです。私は日露戦争の際も、忠実でした。現在でもあなたは、軍事的手段を撤回させることにより、ヨーロッパの平和を維持させることができるのです。

サゾーノフはイギリスの世論を味方につけ、また最後の瞬間まで戦争を避けようとしてグレイ卿が要求した昨日のドイツへの提案内容の変更を受け入れた。

もしオーストリアがセルビア領内への進撃を取りやめ、墺塞問題がヨーロッパ諸国の利害に関係することを認めてセルビアの主権国家としての権利と独立を侵害しないという条件で大国がセルビアがオーストリアが満足する内容を与えられるかを検証することを認めたとするならば、ロシアは傍観するという態度を続けることを保証する。

3時、ポウタリスはペテロホフでツアーと面会した。

賓客として迎えられたが、ポウタリスは昨晩のカイザーの提案をむしろ厳格にしたものでしか説明できなかった。ドイツはいつでもロシアの最良の友人であり、もしツアーが軍事的手段を取り消せば、世界平和は維持される…と。

ツアーはグレイの提案をうけて修正した提案を再度説明し、名誉ある収束ではないかと強調した。

11時、ポウタリスは再度外務省に現れ、サゾーノフにもし12時間以内に独墺両国境での動員を取り消さねば、ドイツは総動員を下令すると伝えた。

時計を見て、11時25分を確認し、言った。

ポウタリス「明日正午に期限切れとなる。」

サゾーノフに話をする機会も与えず、震える声で続けた。

ポウタリス「動員解除してください。動員解除。動員解除。」

サゾーノフは取り乱すことなく答えた。

サゾーノフ「皇帝陛下が申し上げたことを再度確認します。オーストリアと会話が続く限り、戦争を回避するチャンスがある限り、わが方から攻撃することはありません。しかし我々の軍事組織を損なわず、動員解除することは技術的に可能ではありません。これはあなたがたの参謀本部も否定することができない真理です。」

ポウタリスは精魂とも失って出て行った。

ツアーもサゾーノフもドイツの総動員はイコール戦争を意味しているとは、この時点では理解できなかった。またいつの時代でも隣国から動員解除を要求され従うことはできない。とくにロシアのような国に言ってはならないことだろう。

ドイツ外交ではこのような場合のケーススタディがなされていなかったのだろう。20世紀の悲劇である。

8月1日


昨日、カイザーは戦争への危険性(Kriegsgefahr zu stand)を宣言した。これは予備役兵の召集と国境の閉鎖を意味した。これは公式の動員ではないが、それへの動きであることは明白だった。

この知らせを受け取り、ツアーはカイザーに打電した。

私は陛下が止むを得ず動員したものと理解します。しかし私はあなたに与えたのと同じ保証を得たいのです。この手段は戦争を意味せず、皆が望む平和維持のための交渉を我々が続けることです。神の加護により長く信頼できる友情が流血を避けることができますように。秘密裡に回答をお待ちします。

最後通牒で与えられた期限は正午に消滅した。夕方7時前ポウタリスが外務省に現れた。目を膨らませ、顔を紅潮させ声をつまらせながら、荘重に宣戦布告書をサゾーノフに手渡した。これは劇的なしかし虚偽に満ちた次の言葉で締めくくられていた。

皇帝陛下、私の尊敬する元首、帝国は挑戦に応じ、ロシアと戦争状態にあると考える。

サゾーノフ「これは犯罪的行為だ。諸国の呪いが貴国に落ちるだろう。」

それから、宣戦布告を大声で読み上げた。そしてサゾーノフは括弧のなかに二つの異なった用語があるのに驚いた。それはそれ自身重要性があるものだった。

ロシアは通知を受けることを拒絶し…存在した。{回答する義務は負わないと考えたのか}。その後、ロシアはこの拒絶によって…を示し、{この態度によって…示し}

タイピストの不注意か急いだせいか、ベルリンはポウタリスが現場で判断することを前提にこの二つの版を挿入させてしまった可能性が強い。

ポウタリスは事態に圧倒されてしまって、この歴史的文書に馬鹿げた汚点が永久につきまとうことをうまく説明できなかった。そしてこれがこれからの悪徳の原点なのだ。サゾーノフは読み終えると同じことを叫んだ。

サゾーノフ「犯罪的行為だ。」

ポウタリス「我々は自身の名誉を守ったのだ。」

サゾーノフ「あなたの名誉は関係がない。あなたはただ一つ言葉を挟むだけで戦争を防ぐことができたはずだ。しかしあなたはそうしようとしなかった。私は平和を擁護しようとしたが、あなたから少しの助けを得ることができなかった。神の審判があるのみだ。」

ポウタリスはうわずった声をあげ絶望的な表情で言った。

ポウタリス「本当だ。神の審判…神の審判がある。」

ポウタリスは冬宮に面する窓に向かってよろめきながら声にならない声を出しながら歩いた。そこでバルコニーに体を向けて突然泣き始めた。

サゾーノフは落ち着かせようと肩に手をあてた。ポウタリスはどもりながらつぶやいた。

ポウタリス「これが私の任務の結末だ。」

ポウタリスはドアに進み、震えた指でようやくノブを回し何事か呟きながら出て行った。

ポウタリス「さようなら…さようなら」

その数分後私はサゾーノフの部屋に入ったが、これがこの歴史的局面の描写である。またそこでブキャナンが国王からの電報を手渡したくツアーとの面会を依頼したと連絡を受けた。ジョージ国王はツアーの平和愛好の気持ちに訴え、和解のための努力を継続するように頼む意向だった。ポウタリスが宣戦布告書を手渡した今、これは目的を失った。ブキャナンはそれでも夜11時、ツアーに面会する予定となった。

ドイツ軍部によるシュリーフェンプラン発動が決定された。これでは最早外交は無効である。ドイツの外交官・政治家が、このスタイルの意思決定のあり方が有効だと判断していたことこそ理解に苦しむ。

もちろん、ロシアの方が先に総動員を決定したのは事実だ。しかし、それは戦争開始の決定ではなかったのだ。そしてツアーの電報でドイツ人はそれを承知していたはずだ。

8月2日


フランス軍総動員。通知は朝2時到着した。

サイは投げられた。諸国の理性による判断の部分は大層小さく、世界の狂気を解き放つのに、わずか1週間しか、かからなかった。

私が関わったサゾーノフとブキャナンとの外交に歴史はどういった判断を下すのだろうか。しかし我々三人は世界平和を守るために良心をもって最大限の努力をしたということは出来る。

この決定的な1週間に大使館の仕事は夜も昼もなく仕事は厳しかった。私のスタッフは勤勉と自制心の模範たりうる。ドウセ参事官、ラグイシェ将軍、ウェールリン少佐、また書記官のシャンブルン、ジェンティール、ドウロン、ロビムの諸君は勤勉に熱心に私を支えてくれた。

午後3時、古式に則り、臣民への勅旨が行われる冬宮に行った。同盟国の代表として私は唯一人の外人だが、この儀式への参加が許された。

それは荘厳な光景だった。5千から6千の人々がネバ河沿いのセントジョージ回廊に参集していた。宮廷武官は大礼服を着用し、野戦軍将校は戦闘服を着用していた。中央には祭壇が置かれ、カザンの淑女の奇跡のイコンがあった。それはネフスキー展望台の国立神殿から持ってこられたもので、そこには数時間これがなくなることになる。1812年、クトゥーゾフ元帥がスモレンスクに発つ前に、この聖なる像の前で長時間祈ったとされる。

黙祷のあと、宮廷武官が回廊を横切り、祭壇の左に侍立した。

ツアーは私に自分の立つ位置の反対側に起立するように依頼した。ツアーは更にそうすることによって、公開の席で同盟国フランスに忠誠を誓うことができると言った。

ミサはギリシャ正教の聖餐式の高貴なしかし哀愁を帯びた聖歌とともに始められた。ニコライ二世は高貴なる熱情をもって祈りを捧げた。それは彼の純白な顔にある種の神秘的な表情を与えた。アレクサンドラ・フェオドローウナ皇后は隣に立ち、正面を見据え、体躯も正面に、深紅の唇を閉じ、頭をあげ、目は透明に光っていた。時々目は閉じたが、その時は生きた顔にもかかわらずデスマスクを連想させた。

祈りのあと宮廷牧師がツアーの宣言を読み上げた。戦争を避けられないものとした出来事、国民のエネルギーを結集する訴え、至高の存在への祈りなどなどである。それからツアーは祭壇に向かい、右手を福音書に向けて上げた。あたかも秘蹟を受け取るように荘重かつ冷静だった。

ゆっくりと、低い声で次の宣言を読み上げた。

ここに列席している将校諸君、私は全軍に敬礼するとともに祝福を贈る。私は厳正に誓う。敵の一兵でもこのロシアの大地にいる限り決して和を講ずることはない。

これは1812年アレクサンダー皇帝により唱えられた宣誓だが、終わると喝采が爆発した。ほとんど10分間にわたり、回廊は大きな歓声に包まれた。すぐさまそれはネバ河沿いの道に集まる群衆に拡がり、徐々に激しさを増した。

突然、ロシア陸軍元帥のニコライ大公が突然私のところにやって来て、半分体が砕け散るばかりに抱きしめた。この時歓声は二重の響きをもって、まるで大きな叫び声のように巻き上がった。

フランス万歳…フランス万歳
Vive la France!...Vive la France!

大歓声をあげる群集のなかで出口まで動くことも難しかった。最終的に冬宮前広場に出ると旗、幟、イコンそしてツアーの肖像画をもった大衆が参集していた。

ツアーがバルコニーに出た。全ての群集は跪き、そしてロシア国歌をうたった。この幾千ともしらぬ群集の前のツアーは神によって指名された、軍事的政治的宗教的リーダーであることは疑いなかった。

大使館に戻る時、この荘重な光景が何度も瞼に浮かんだ。しかし、1905年1月22日、この同じ場所に僧侶ガボンにより率いられた労働者大衆が同じ肖像画をもって集まり、そして無慈悲にも射殺された光景も思い浮かべざるを得なかった。

ギリシャ正教はキリスト教各派のなかで最も荘重な儀式を保有していることで知られる。わがパレオログはその儀式の瞬間にもラスプーチンに絡め取られていた皇后アレクサンドラの不吉な前兆、また戦争熱に煽られた大衆が一転して革命に向かう可能性を予感している。

パレオログ日記はこれから後もボルシェビキによる権力奪取まで続く。途中、自身の得た情報をもとに第1次大戦までに至る歴史について独自の解釈を行っている。とくに日露戦争の開戦原因については興味をひく。

パレオログによる日露戦争の開戦原因



このページTOPに戻る

ロシアの誤算に戻る