最終攻勢に勝利したフランス軍はこの戦闘方法に全幅の信頼を寄せた。これは当然のことだろう。もちろんこの戦法は敵が強大であり装備も拮抗するものを持ち、戦場が交通網の発達した地域だとの前提があり来るべき対独戦以外に簡単に応用がきくものではない。
それでも、この方法には幾多の問題が存在する。
- 敵がこの戦法を知りかつ陣地構築について偵察済みだとする。それでも所望の主戦場周辺を攻めてくれるだろうか?
- 開戦のイニシアチブを敵に預けることになる。これではフランスの伝統的な戦略、ドイツに二正面戦争を強いる、に反することにならないか。つまりドイツ東部国境の同盟軍と同一時期に攻勢をかけることができず、ドイツに各個撃破の機会を与えてしまうのではないか。
- 前線にいる部隊を見捨てるこの戦法によって、士気の維持は可能だろうか。また防衛にかけること自体により退嬰的な気持ちを持たせることにならないか。
攻勢防御には戦略的な面と戦術的な面が混在する。すなわち戦略的な面は敵にまず攻めさせる、または自軍が相対的に劣勢(数・装備)で攻勢に出られないため持久せざるを得ないことが前提にあり、そしてその後の攻勢移転により、不利な局面を一挙逆転させる秘策だ。
ところが戦術的には陣地戦において縦深性を増すことにより、従来の一線または二線の単純な防衛線よりもはるかに防御性に優れることが認識された。一般的にこの戦術的な面が縦深陣地戦術と呼ばれるようになった。そして敵の攻撃軸を所望の戦場に誘導する方法も研究された。(Canalizeという言葉が用いられた。旧軍は嚮導と訳した)
更に防衛上の強化地点を面で設置し、防衛部隊が孤立しより小さい単位となっても防衛戦を続ける方法が編み出された。これは一層発展し面防御と呼ばれるようになった。戦場で超越され取り残された部隊も抵抗を続けるので、植民地戦で現れたゲリラ戦に近い戦いとなる。ただ短期間敵の前進を阻むだけが目的となる。
チャコ戦争
フランス軍は戦略的な側面を重視した。
この事をフランスが防勢姿勢に陥ったと短絡的に見る考え方があるが誤りである。攻勢にせよ防御にせよ自軍の基地を強化し防衛線を確固たるものとすることは有効な措置である。むしろ隣接地を支配下に置くとか、中立地帯を作るとかの前進政策こそ却って防衛範囲を拡大する無謀な方法である。ただ現地軍や参謀将校は必ずこれを主張するから、政治家は相当の覚悟が必要である。
繰り返しになるが攻勢防御の問題は、攻勢か守勢かでなく開戦時のイニシアチブを敵に与えることである。
前進政策
1939年9月、ヒトラーのポーランドへの侵入をうけ英仏はドイツに宣戦布告した。これはヨーロッパ戦争の開始であることは明らかで、事実第2次大戦はこれから開始された。フランスは宣戦布告をしたものの、ドイツ領内でも自国領内でも戦う意志はなく、主戦場をベルギーと予定した。つまりドイツ軍はシュリーフェンプランと同じく独白国境を突破してフランスに侵攻すると予測しベルギーの地で攻勢防御による決戦を計画した。
フランスはセダン以東の仏独共通国境にはマジノ線を築いていたが、仏白国境にはより弱い縁辺部防衛線を築いていただけだった。マジノ線の延引をセダンで停止したのはベルギー領内にドイツ軍を嚮導させるための高等戦術だった。
D計画
この作戦計画はD計画と呼ばれフランス参謀本部(参謀総長ガムラン)により練られた。当初シェルト川まで前進しリエージュ方面から侵攻して来るドイツ軍を迎え撃つ計画だったが、アントワープからムース川を結ぶ線に変更された。これは縦深性を増すためと、ベルギー領土の大半を戦わずに喪失するのは得策でないと判断されたためである。
そしてアントワープームース線を前進防衛線に見立てると、シェルト線と国境防衛線は理想的な斜交防衛線と考えられた。もしこの3角形のポケットにドイツ軍を追い込むことが出来れば、攻勢移転を成功させ、第1次大戦の最終攻勢を再現できるだろう。そしてその先はドイツの心臓部ルール工業地帯だ。
ところが、このアントワープ・ムース線は防衛線そのものが短い利点があるが、シェルト線に比べて全縦深の防衛設備は完備されておらず、その分ベルギー領内に大軍を貼り付ける必要が生じた。ベルギーはフランスとの攻守同盟を廃棄、第1次大戦以前の伝統的永世中立政策に戻っていた。ガムランは戦略予備隊をもベルギー領内に進めることにした。
実はこのD計画はシュリーフェンが想定したフランスの防御計画と同一だった。シュリーフェンはフランスにとり自然の防衛線はムース川だとみなした。もしドイツ軍が独白国境を突破すれば、フランス軍は当然ドイツと同じように仏白国境を越えムース川まで前進するだろう。
そうすればドイツだけがベルギーの中立侵犯の汚名を着ることがなく、イギリスのフランスの側に立っての参戦もないだろうと。
古くからある自分が約束を破っても他人が破れば無罪だとの思い込み、また自分の発想で他人もするだろうとの予断である。軍事学に優れても、外交はできない。それどころか軍事作戦も失敗しかねない。
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ところがヒトラーの作戦「黄色計画」はセダン周辺を突破し大西洋沿岸まで迂回ベルギー領内にいる英仏軍を一網打尽に片翼包囲するものだった。1940年5月ドイツ軍は機甲師団を先頭にオランダからセダンに至る全国境線を突破した。「黄色計画」は的中した。フランス軍は戦略予備を失ったばかりでなく、ドイツ軍機甲部隊の進行スピードがあまりにも速く新軍の編成にも失敗した。
第2次大戦開始前後の戦略と外交
このように攻勢防御の戦略面の本質は戦略予備の運用にある。戦略予備隊は決戦方面に近くてはならず、また遠くにあっては役立たない。
おそらく、このフランス軍敗退の最大原因は敵の嚮導に失敗したことだ。攻勢防御は本来戦略予備を所望の主戦場の後背地に置くから柔軟性に富む。ところがベルギーに前進した英仏軍は退却に失敗し、その中に戦略予備が含まれていた。第1次大戦ではBEF(フレンチ)と仏第5軍(ランレザック)は緒戦大退却に成功した。この差はドイツ機甲師団のスピードのためである。
ただ機甲師団のスピードを止めるのは、戦車障害と予備隊だけでなくドイツ軍の戦略的見地を狂わす方法もある。すなわちマジノ線から共通国境を越えラインラントに突出する手がある。これをドイツ軍は戦前にほとんど予想していない。マルヌ会戦でガリエニのパリからの突出を予定しなかったのと同じ現象である。ドイツ軍事学は要塞から敵兵が出撃することを想定していない。すなわち攻勢防御の思想は、自らのイニシアチブも縛る傾向がある。
Elan Vital
(エラン・ビタール)
実はカイザー戦第1次攻勢でペタンはドイツ軍の主作戦軸がスイスを通過しボージュ山脈に出ると予想をたてていた。このため戦略予備隊は東に偏していた。始めドイツ軍がアミアン方面に出てイギリス第5軍を崩壊させた時、予定のタイミングで間に合わせるのに失敗した。しかしこれは盾の両面だがドイツ軍を予想を越えて深く引き入れることにもつながった。
これは攻勢移転である連合軍の最終攻勢第1期が成功した理由ともなった。
このように戦術的な面はともかく、戦略面をとればこの攻勢防御という方法は極めて難しい。とにかくガムランは1939年9月では宣戦布告をしながら敵の攻撃を待つという変則的な戦略をとり、「奇妙な戦争」とアメリカの新聞が名づける事態となった。これはフランス軍の士気にとり好ましくなかったのだろう。1940年5月、ドイツ軍がオランダとベルギーに一斉に陽動攻撃をかけ「黄色の作戦」を発動させたときガムランは小躍りして喜んだと言う。
自軍が数量で劣後していることを認識したうえでの作戦は、敵が注文にはまらなければ殆ど失敗する。これ以降戦史のうえでの成功例は、朝鮮動乱での米軍の中国軍(義勇軍:共産)の介入以降の反攻作戦である。米軍(指揮下にある韓国軍と国連軍)は常時ほぼ2倍以上の敵を攻勢防御で3回にわたり撃退・逆襲し戦線を安定させるのに成功した。

来栖 弘臣 『マジノ線物語』 K&Kプレス 2001
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