1880年代から自由党の主流はニュー・リベラリズム(新自由主義)によってしめられるようになった。彼らはオールド・リベラリズムが「平等」を主張したことにたいして、「社会制度改革」を対置した。またニューリベラルは第1次大戦終了までイギリスの左翼を代表する勢力だった。
従来からも自由党は農地(土地)改革を主張し、大土地所有制を排撃する立場にたっていた。この頃からその主張に次の問いかけが投げつけられた。
「このように産業が発展しているのになぜ貧困があるのか。」
この理由をニューリベラルは初め大土地所有制に見出した。そして相続税と固定資産税の導入を主張した。しかしそれだけでは事態の改善とならなかった。アーノルドトインビーはニューリベラルの歴史家として次の問いを発した。
「鉱山や工場から女性や子供を救出したのに、どうしてますます貧困になるのか、座視するわけには行かない。」
そして次の対策として累進課税の実施と政府の公共支出増強を求めた。1892年から1895年の少数自由党内閣はついに相続税の導入に踏み切る。こういった主張がニューリベラリズムと呼ばれるのはこの頃からだった。
ニューリベラルの理論的指導者は悪名高い帝国主義論の著者のホブソンだった。ホブソンは市場の自由化を通して、資本主義の効率的運用が可能だと主張した。また自由党を都市労働者中心の政党に改組すべきだ、そうすればドイツのひそみを免れることができる、と力説した。当時ドイツ社会民主党は、マルクス主義にのってドイツ国家そのものを否定していた。ホブソンはイギリスの成功の原因は植民地にあり、産業革命ではないと信じていた。
1903年2月、ニューリベラルと労働党(ラムゼイ・マクドナルド)は、統一主義者(ユニオニスト…アイルランド自治に反対する集団・アメリカの歴史家は帝国主義者と呼ぶ…南北戦争で北部州の政治家がユニオニストと呼ばれており、区別するため)に対抗して選挙協力を締結した。これは労働党からの立候補者を少数でも当選させることにつながった。この段階で自由党はニューリベラル・伝統リベラル・ユニオニストに3分裂した。そして一部のユニオニストは保守党に移籍した。
一方この直後保守党が分裂した。原因は元自由党のユニオニストだったJ.チェンバレンらが関税改革を主張したためだ。関税改革とは国内の萌芽産業の保護、帝国特恵関税の導入、食料輸入への高率関税を主張したもので極めて保護貿易色が強いものだった。この主張をめぐり保守党は分裂し、チャーチルは自由党に移籍した。このとき、チャーチル始め保守党の保護貿易反対論者は、イギリス伝統の自由貿易を支持するという意味で、立憲主義者(コンスティテューショナリスト)と呼ばれた。
1906年の総選挙で関税改革論者は惨敗した。理由は都市生活者が「安いパン」を支持したためといわれる。結局イギリスは自由貿易を1932年オタワ協定まで維持し続ける。
ニューリベラル・伝統リベラル・立憲主義者は一体となり自由党政権として、アイルランド党と労働党の支持も得て、その後1915年に至るまで単独または連立で政権を掌握した。
ニューリベラルは伝統リベラルと重なるがアスキス、グレイ、ロイドジョージ、ホールデンが指導者としてあげられる。そして第1次大戦中のアスキスとロイドジョージの対立により歴史の幕からおりた。アスキスの首相在任期間は8年3ヶ月に及び、人民予算の成立から第1次大戦の開始まで含まれている。
アスキス
このイギリス政界の論争は非常に興味深い。現在においても同じ論争が繰り返されているだけでなく、論点が内政面に限られていることだ。
もちろん関税一般や建艦政策は外交と結びつく。しかし結びつかなくとも論争自体は可能だし実際国権を主張する人々が意識していたとは思われない。またこの事はヨーロッパ5大国に共通してみられた。すなわち外交自体では票にならなかった。また政党や議会そのものを二分して争われた経済の伴う問題、自由貿易、国税、アイルランド自治法とは異なるが、非経済的問題、教育・宗教もしばしば取り上げられた。しかしイギリス国教会不参加者の問題というように国内限定の話題だ。
第1次大戦前イギリス政界の主流となったニューリベラルは戦間期跡形もなく雲散霧消した。この伝統がまた労働党に引き継がれたようにもみえない。だがこの伝統が忘れられることもない。
というのはニューリベラルの政策は実行されたのだ。自由貿易・累進課税・軍縮・均衡予算・社会福祉政策など今日ではイギリスに限らず当然の政策として行われている。そして政策の根底にあるものは弱者にたいするいたわりだ。
ただこれでは外交政策にはならない。もちろんパックス・ブリタニカと言われるように大英帝国は世界をコントロールしているかにみえた。だが他のヨーロッパの4大国に比較して徴兵制度をもたずまた総動員の体制もなかった。すなわち、独墺同盟と露仏同盟の対立のもとで、それら4大国は地上兵力としてのイギリス軍は各国とも考慮に入れなかった。これでは平和外交を展開しようにも圧力にはそれ程ならない。
内政とくに税制などは固定化するとあとは論争にならない。実際にドイツの脅威が現れると外交政策が問題となる。その場合道徳とか選挙区の票よりも長期的な国益の判断が重要となる。
イギリスのニューリベラルは国内問題では、社会政策に先鞭をつけたのかもしれない。また労働党が実施した基幹産業の国有化や医師などの公務員化はゆきすぎなのかもしれず、ニューリベラルは現代に通じる最もモダンな政策集団だったのだろう。
しかし、ニューリベラルにして外交問題を中心にして国家主義にどう対処すべきかという点で対応できなかった。戦争か平和という問いで平和と答えても、大陸が一国の支配となれば国家をあげて国家主義の国家と戦わねばならないという不条理への回答は難しい。
英仏アンタンテを推進したのは保守党(バルフォア政権下、実際はボナーロウが主導)でトルコを喪失し英露アンタンテを主導したのは自由党というのはなにか暗示的といえる。
イギリスのニューリベラルは大陸諸国の政党と比べれば、はるかに現代的な性格をもっていた。そして理想主義としての平和ではないが、とにかく平和に価値を置いたとき第1次大戦が発生したのは皮肉だろうか。ボーア戦争に反対したロイドジョージが戦時生産体制の強化をめぐってアスキスと対立したことは、若いときの理想が現実にとって代わられたことだろうか。アスキスはチャーチルがイギリスからトルコを攻撃すべきだと主張したときはさすがにたしなめたという。理想だけで外交をやってはならないが、友好国が不当なことを始めたときどう対処すべきなのか、回答が出ない問題かもしれない。
モーレイ
伝統的なリベラルの人々、モーレイらだがフランスにたっての参戦にも反対した。グラドストンの政策に忠実な人々であくまで大陸と関係をもたないリトル・イングランドが主張だった。理想のために参戦することに納得がいかなかったのだろう。それは一種の孤立主義でもあった。
ロイドジョージは軍需大臣として1915年6月3日次のように宣言した。
「各級市民が生命と労働を国家の命令のままさし出すことは、絶対的な義務である。」
ロイド=ジョージの虚像と実像
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1909年春の建艦競争