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96式陸攻
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96式陸攻

海軍は急降下性能をもつものを爆撃機と呼び、その他を攻撃機と呼んだ(空母発進のものは艦攻・地上発進は陸攻である。)。連合軍はネルと呼んだ。

(G3M1型の場合)自重4・8トン、全幅25メートル、全高3・7メートル、最大時速348キロ
エンジン:三菱金星空冷14気筒790馬力×2、武装7・7×3、爆装1・25トン(懸架式)、乗員5〜7名
約1100機生産された。後継機種は1式陸攻

特徴

この双発爆撃機は当時のあらゆる爆撃機と比較して1点を除いて性能で優っていた。1点とは防御性能である。防御とは保有する火力(砲数;角度)と耐弾性である。

96式陸攻は世界に先駆けた全金属製、低翼単葉、引き込み足の画期的な爆撃機だった。

爆撃機は数百発の弾丸を浴びても爆弾を投下し帰投せねばならない。耐弾性能とはつまり敵弾が命中し、乗員が傷ついても任務を遂行する保証でもある。そのうえこの耐弾性能は簡単に実現できる。エンジンや電気系統を高張力鋼板で囲い、燃料タンクの内側に合成ゴム皮膜(ビニロンなど)を張り、その上をゴムで塗るだけである。この単純なことを海軍は怠り、任務遂行に失敗しかつ貴重な人命を失った。

機首銃座

双発爆撃機の大半は機首銃座があるが、この機にはなかった。

海軍航空機には偵察員(機長≠パイロット)を乗せていた。機首銃座を置くと、機長が射手をやらねばならない。他国の双発爆撃機の機長とはパイロットである。日本海軍にはパイロットと異なる機長と言う考えがあり、それで機長=士官を温存し、下士官だけで搭乗員を構成させない、士官が乗務するときは機長顔をせねばならないと言う愚行につながった。

予科練制度(兵士や子供を養成してパイロットにする)があっても、教育が済んでパイロットになっても士官に任官させなかった。士官と兵の間の絶対的な格差を維持しようとして、偵察員(機長)と言う士官に適当なポジションをわざわざ温存させた。

海軍は将校団の仲間意識を温存するため、機上勤務の効率性すら犠牲にしたのである。三菱技術陣の優秀さにあぐらをかき、それでも一流を確保できるため、本来必要な機首銃座を犠牲にした。官僚制度とはここまでの愚行を犯すものだと言う認識が必要である。

岡村徳長(1887〜1972)
高知県出身。海兵45期、卒業時遠洋航海の終着である大臣応接のさい加藤友三郎海相に「大臣、そのような話はもうわかっちょる。やめい、やめい」と叫んだという。根が傲慢であり、自分の仲間で大臣を圧倒できると考えたほどの愚か者だった。飛行学校(パイロット養成を目的とする)に落第するほどの横着者であったが、海軍は進級を遅らせなかった。再三、自分の失敗による死者を出す事故を引き起し、1935年、予備役に編入された。戦後、共産党に入党し徳田球一に私淑したが、その失脚後も熱心な党員であった。

機首銃座を設置すべきか否か会議の席上、横空の岡村徳長少佐(偵察員)が立って、「偵察員または機長の立場から、機の運用上、操縦席を前方に出して、偵察員・電信員の席を広い胴体内の中央に置かなければならないから、機首方向の射界を犠牲にしても、偵察席は操縦席の後方にすべきである」(巌谷二三男『海軍陸上攻撃機』上、朝日ソノラマ)と主張したという。

岡村の提案に、航空本部(長、山本五十六)は全部押し切られた。

支那事変

上海攻防戦における爆撃機の戦果はあまりなかった。96陸攻は上の写真のように機外に爆弾を搭載せねばならず、量が限定され速度・航続距離が落ちた。当時の爆撃法は緩降下・低空攻撃のため、ホークV戦闘機と地上砲火のため大損害をこうむった。

地上砲火で撃墜されることは予想されていなかった。ただ数百という単位で爆撃機隊が編成された第2次大戦後半期以前、昼間・低空爆撃にこのような被害はむしろ当然だった。1941年5月のフランス戦開幕時、連合軍爆撃機隊はこの比率に近い損害を受けた。

低空爆撃は夜間でなければ、地上砲火による損害に持ちこたえることはできない。96式陸攻はむしろ艦船への雷撃を主たる目的としており、そもそも昼間・低空地上攻撃と言う運用に問題があった。

ところが太平洋戦争緒戦、マレー沖でプリンスオブウェールズ及びレパルスを撃沈する殊勲をあげた。

低空爆撃が地上砲火に弱いと言う戦訓はむしろこのイギリスの戦艦2隻の撃沈によりその後生かされることがなかった。つまり巨艦を航空機で沈めるには雷撃(魚雷攻撃)しかなく、雷撃は低空攻撃である。イギリス海軍は96式陸攻のような時速300キロメートルを越える雷撃機を想定していなかったのに過ぎない。雷撃機は水面に並行の角度で高度300メートルの低空から侵入せねばならず、高度を落とした時艦船からの砲火に絶好の機会を与える。つまり航空機による戦艦の撃沈は良好な指揮と火力があればそう簡単ではない。

海軍は自らの艦船を低空攻撃から防御する火力を装備するのを怠った。そのうえ雷撃機の防御とりわけ耐弾性能を無視しつづけた。これはマリアナ海戦の敗北につながった。

それでも中国側に航空機による被害を重大視した記録が残っている。また駐南京英国大使は日本の戦闘機により国旗をたてた自動車が機銃掃射を受けた、と日本側に抗議した。(海軍は否定)これはなぜだろうか?

実は自軍の対空砲火のためである。機関砲や時差式信管をもつ高射砲が本格実用化したのは第1次大戦後である。国府軍は統一防空管制の必要を認識できず、個別砲台で射撃を行った。航空機は識別が難しくまた後方に浸透されたと見なしがちである。このため鳥や自軍機などにかまわず対空砲火部隊は発砲する。当時の信管は不良が多く、また射手は量に頼る傾向が強かった。流れ弾が大量に発生する上被害を受けた方は弾丸が音速より早いため、命中したあと自軍の対空砲火の発射音が聞こえた。これは弾丸がどこから来たか判断を難しくさせる。ただ国府軍将校には機銃発射音を聞き車を飛び出し、田んぼに飛び込んだという記録を残した者がいる。

国府軍も双発の米国製マーチン爆撃機を保有しており京阪神間に無差別爆撃を試みた記録が残っている。途中で事故にあったらしく帰投しなかった。しかし日本本土爆撃の初めての試みである。


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