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第1次大戦前の建艦競争は、フィシャーのドレッドノートの建造提唱に始まった。ドレッドノートは旧式戦艦をほとんどスクラップ同様の無価値なものとした。ド級戦艦1隻で旧式戦艦が3隻まとまり、最高の操艦能力をもつ艦長と名提督がいて対抗しても、おそらく負けないだろうと予想された。
ドレッドノートは1906年に完成したが、その時イギリスは43隻の旧式戦艦をもつのにたいし、ドイツは22隻保有していた。ドレッドノートの就航をみてドイツは2年間、戦艦の建造を停止した。1909年春までにイギリスは2隻のド級戦艦(ドレッドノート・ベレローフォン)と3隻の巡洋戦艦(インビンシブル・インドミタブル・インフレキシブル)を完成させた。ド級艦は合計5隻となった。
ところが1909年初頭、ドイツは1911年の春までに11隻のド級戦艦、巡洋戦艦を完成させると発表した。これはドイツ海軍省が、議会(ライヒスターク)に予算を提出することに伴う措置である。
ところが、この計画はドイツでなく、イギリスに大波紋を巻き起こした。
バルフォアに率いられた保守党は、この計画が完成すればイギリスの海上覇権は失われると主張した。更に、公表された計画は実際の数字より低くドイツは実際には1911年末までに25隻を完成させると予想した。
自由党は1906年の選挙で圧勝していた。首相アスキスは政権維持に自信があったが、自身もドイツは13隻から17隻を完成させると考えていた。閣僚のうち冷静なのはロイドジョージとチャーチルだけで、ドイツが議会の予算編成権を無視して、隠れてド級戦艦の建造を進められるはずがない、とした。そして公表の通り、1911年3月時点で10隻しかないと。しかしこの声は少数派だった。チャーチルは1935年にヒトラーの航空機製造のための予算が900億マルクに達すると予想し航空機増産に消極的な政府を批判した。この時のヒトラードイツの予算は第2次大戦後公表された数字によると250億マルクだった。
ヒトラードイツは予算を公表しなかったにしても、チャーチルの主張が正反対なのは面白い。ただ第1次大戦前は正しかったが無視され、戦間期は誤っていたがこれもほとんど無視された。
またドイツ海軍省はド級戦艦建造に当たって、1908年の秋の段階ですでに発注を開始していた。このあたりと予算の関係がわかりにくいが、これもドイツ合理主義の所産だろうか。このニュースがイギリスに伝えられるとドイツは議会提出予算と関係がなく建艦を実施できるという声はますます強くなった。
本当はドイツ海軍省は造船業者が受注を確定することにより、熟練労働者を早めに確保できる便宜を計っただけのようだ。フィシャーはいつも通り過剰に警戒し当初計画の4隻(年間)を増加させることを主張した。それに保守党も乗り、We Want Eight, and Won't Wait.(8隻欲しい、もう待てない。)と議会で叫んだ。この調子のよい言いまわしにより、この論争はこの叫び声で後世に記憶された。
アスキスは議会を宥めるために折衷案を出した。当初予算は4隻として、あと4隻を仮発注するというのである。この提案で保守党も一応おさまった。ところが6月自由党はクロイドンの補欠選挙で敗れ、マッケナ海相は急遽残りの4隻も予算措置を講じる必要があると発表し議会も認めた。結局8隻が実現することになった。
では実際1911年末までにドイツは何隻のド級戦艦、巡洋戦艦を完成させたのだろうか?
答えは6隻だった。ド級戦艦としてウェストファーレン、ナッソウ、ポーゼン、ラインラント、巡洋戦艦はフォンダータン、ブルーヒャーを完成させた。ただこれらの艦の主砲はすべて11インチ以下で、イギリスのそれまでにできたド級艦の12インチより見劣りした。また1912年にイギリスは13.5インチ砲を搭載する戦艦オライオンを完成させた。こうなるとこの時のドイツ艦では勝負にならない。ちなみに1913年完成の日本の巡洋戦艦金剛の主砲は14インチを誇った。
ドイツが最も早く就航させた巡洋戦艦フォンダータン(1910年)
これとほぼ同型艦4隻を1912年までに完成させた。
ただし艦上の人物を見て欲しい。この艦はイギリスや日本の巡洋戦艦より一回り小型だった。
これは装甲材料が良好でないうえに厚く、艦への重量負担が大きかったためである。
結果として主砲口径は日英の巡洋戦艦に見劣りした。翌年にいたりドイツはようやく9隻となった。この時イギリスは16隻保有していた。ドイツが提出予算の10隻という数字をなぜ下回ったのかは、依然謎とされる。
そして建艦論争は、イギリス人にドイツにたいする敵愾心を植え付けることになった。またドイツも造船生産技術の遅れを認識するようになり少しでも追いつくべくイギリスの軍縮提案を頭から拒絶するようになった。
それでも、これは第1次大戦の開戦原因とは直接関係がない。第1次大戦のきっかけはドイツと仏露の間で起きておりイギリスはあとで参戦したにすぎない。軍備拡張計画を戦争の原因とすることは容易く、また反対にしても増強にしても大衆を扇動しやすいが、そう単純でもない。ただしこの時両国の人民は極めて海軍の軍拡に熱心だった。反面陸軍についてはそれ程でもない。
また1909年の段階で、日本が本格的ド級艦の建造に乗り出したらどうだったろうか。この時点で日本は世界第4位の海軍国だった。日英同盟を前提とすれば仮想敵は米独となる。歴史をみることは事実を知った後だから曲解を伴いやすい。第1次大戦前とアメリカ参戦前の第1次大戦中の太平洋では米独の連携が日本にとり実際の脅威だった。
日露戦争後の油断すなわちド級艦化に取り残されるという失敗がなければ、その後の外交方針も変わっただろうと思われる。イギリスは日本のもつ優秀巡洋戦艦2隻金剛・比叡の譲渡を再三要請したが、日本は受け入れることができなかった。この2隻を除いてはアメリカ戦艦に対抗できる艦がなかったからだ。またイギリスにこの2隻が加われば巡洋戦艦同士の叩き合いとなったユトランド海戦は完全に違ったものとなっただろう。
また第1次大戦前の建艦方針の失敗は1931年のロンドン軍縮会議に尾を引く。すなわち、主力艦を制限されたことにより海軍は補助艦艇(空母・大巡)によってパリティを維持しようとしたが、この方針がとりにくくなった。艦隊派はこの従来からの建艦方針を掣肘されることを嫌った。ところが条約派は、米英が制限されたとするなら自分も制限をうけるのが当然でそのなかに活路を見出せばよい、と言う考えだった。
今日の論調では艦隊派を非難することが多いようだ。だが考えねばならないのは、軍縮とは相手を強制するものなのか、それとも同盟国同士信頼関係を重視するのかで態度が違ってくることだ。というのは秘密裏に協定破りをしたり、制限外で拡張することは難しくない。要するに相手国を協定で武装解除しようという試みは成功したためしはない。
戦間期のドイツが好例だろう。第2次大戦のドイツの軍備はヒトラーによるだけのものではない。ワイマール共和国の社会民主党政権下で既に相当の事が行われていた。
1931年に満州事変が開始されており、この時国防の重責を担っている海軍に、英米を外交的に信頼すべきだといって艦隊縮小を要求しうるだろうか。文民政治家が英米協調路線という日英同盟からの外交総路線を固持する気概があったのだろうか。いわゆる少壮官僚・外交官は違うことを考えて、もしくは何も考えていなかったのだろう。すると歴史の示す通り、ロンドン軍縮会議自体が無意味だったことになり、艦隊派の言い分が的中していることになるではないか。