国府(中央)軍の編制
国府軍は国民党の軍隊でありその正式名称、国民革命軍の総司令官は蒋介石である。1937年央(以降の叙述は全て日華事変直前の基準)の陸軍総数300万人を数え常備軍としては当時世界最大の人数を誇った。
戦後台湾で発行された「抗戦簡史」に掲載されたもので、「わが軍は猛烈なる攻撃を続行し犠牲をものともせず死屍をカバーとして抗戦を実行した」とキャプションがついている。1937年9月、場所不明。
左の籐椅子で休憩している人物は将校とみられ長ズボンを着用し、この当時国府軍が用いたドイツ風のヘルメットを被っている。右側は兵士で半ズボンの夏期軍装で布靴を履いている。これから華中戦線と推定できる。また色はこれまたドイツ風の灰緑色で、冬季は迷彩色として機能しなかった。
しかし数字とは裏腹に実態は極めて、機能しない陸軍でもあった。ただ誤解してはならないのは当時の陸軍とは歩兵集団を意味しており、その力はライフルと手榴弾に源泉を置いておりこれ自体はどの国の陸軍でも変わらなかった。つまり機能が劣っておる理由は、装備や数でなくその運用にある。そして運用の基礎は兵站と集中であり、その両面に問題があった。
つまり国府軍の兵站は常備の輜重兵で賄われることがなかった。このため臨時の輜重部隊を編成するか、あるいは弾薬は事前に用意されたものを持ち込み、食糧は徴発、被服は更新しないなどの処置が一般的だった。また夏期軍装では兵士に靴は支給されず、布製のズックあるいは裸足が普通だった。これは当時の中国人に革靴を履く習慣がなかったためである。
そして前線部隊に送られるのは極端な場合、補充兵だけでありこれでは継戦能力に問題を残す。そのうえ補充兵は前線部隊の損害を見越したうえで送られることが多かったから、逆に前線にいた兵はそのまま後方に引き返した。このため前線の背後では兵士が前後に動くことになり、渋滞とまた兵士の動揺をひき起こした。
中央軍の基本編制は次の通りである。
歩兵師(司令部)
歩兵旅2
騎兵連1
野砲兵団1
工兵営1
通信営1
輜重兵営1
衛生隊1
特務連1
そして旅は旅団
連は連隊
営は大隊
隊は中隊と解される、少なくともドイツ人にはそのように説明したようだ。
この基本編制に従えば
兵員13854人
馬3508頭
小銃6127挺
軽機224挺
重機75挺
歩兵砲24門
迫撃砲24門
野砲36門となる。
国府中央軍の装備は第一次大戦のドイツ兵の模倣であった。1935年のヒトラーの兵制改革とともに余剰となった旧式ヘルメットが中国に持ち込まれた。
これであれば普通国の3単位の師団とほぼ同じである。(ただ小銃が少ない)ところがこのように編制された師は全く存在しなかった。とりわけ特殊兵科を師の下に置かず、軍直轄とすることが多かった。これは馬やトラックの数が少なく移動を考慮したためである。野砲部隊や工兵をそのようにしたため、師の運動性は制約された。また日華事変で臨時兵(雑軍と呼ばれた)を除くと師の総数が8000人を越えることはまずない。
帝国陸軍はこの編制をみて日本の1個師団は国府軍師10個に相当すると自慢した。継戦力綜合でみてこれは必ずしも誇張ではない。
徴兵制度
徴兵制の実施は1932年兵役法の施行以降である。ただ当初は全国一律実施は不可能であるので、華中から徐々に拡大する方針をとった。1936年3月から全国均一の方法で徴兵が実施される予定になっていたが遷延され、ついに達成されなかった。
実際は揚子江中流域のみこの制度が実施されたといって過言でない。
1937年9月20日毎日新聞記者により撮影された国府軍捕虜。
右の帝国軍人は第11師団歩43連隊長浅間義雄大佐。浅間大佐は自身の名が冠せられた浅間支隊を率いこの時川沙鎮に上陸その後北方双草郭に向かった。その時のスナップである。国府軍兵士の制服は夏期軍装であり木綿製のノーカラーのシングルブレスト・半ズボンを着用しており中央軍兵士とわかる。表面処理をしない木綿は水分を吸収しやすく軍服には適さないがコストからだろうか国府軍は夏期軍装として最後まで愛用した。靴は布靴で支給外のものと思われる。外観は髭もなくどうみても子供である。
また日華事変当時の国府軍はほとんど写真を残さなかった。このため実情を知ることは難しい。ただ日本の報道班が撮影した捕虜(*)の写真では15、6歳とみられる少年兵が非常に目立つ。兵役法では満20歳からが徴兵年齢であるがこの事情は不明である。
(*)内務省は各新聞社あて日華事変の国府軍捕虜を「捕虜」と表現することを禁止した。理由は捕虜は表現がきつく宣撫工作上不都合だというものだ。中国語にこの言葉はなく(普通は俘虜)なぜ禁止したのか理解に苦しむ。
そしてその他の地方には軍閥色が残っていた。中国の軍閥はいずれもある地方に播居しており、そこで行政権、軍権を掌握していた。
軍閥の残存
1937年現在、軍閥で依然有力なものは次の通り
宋哲元 華北
萬福麟 山東
韓復 山東
馮占海 河南
閻錫山 山西
毛沢東 山西
李宋仁 広西
白崇喜 広西
このように揚子江沿岸を除くと地方軍閥は依然強く、その軍隊は地方軍と呼ばれた。地方軍は蒋介石直系の中央軍と比べ更に装備・編制が劣悪で、その地方から離れれば単独での運用は困難だった。
ただ地方軍閥に往年の力はなく、蒋介石の指揮に服さない軍閥は少なくなっていた。ところが地方軍の将校は病気隠棲や下野など様々な理由で動員拒否や命令現在地離脱が可能であり、軍法が徹底していたわけではない。そして中央軍でもこれは発生した。つまり役人の裁量行政のような処分が軍隊の指揮系統で横行した。蒋介石はこのため各連(隊)単位に政治将校を配置した他、前線には督戦隊、政戦隊を派遣し軍法の徹底に務めた。
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