第二次南京事件の真実

第二次南京事件の真実

第三次南京事件の真実

第二次南京事件の真実

第二次南京事件の真実

第二次南京事件は現在まで犠牲者などが判明していない。当時の日本人のインテリは欧米コンプレックスのためか非常に偏頗な考え方をとっていた。すなわち中国に進出している諸外国は植民地主義的な罪悪を働いており、中国人はその犠牲者だという考え方である。そして排外運動が反英運動などの形をとればむしろ歓迎すべきだとする立場をとった。

この延長線上で当時のマスコミや外交官は中国人暴徒が日本人以外の外国人を襲撃することに何らの同情をしていない。これは一時期のこととはいえ恥ずべきだろう。どこの国でも理由もなく民間の外国人に暴力を振るうことは誤りである。その国がかつて外国との戦争に敗れようが、その結果不可分と称する領域を外国に奪われても同じ事である。国家主義(ナショナリズム)を標榜すれば外国人を襲撃して良いことにならない。

また当時(現在も似たり寄ったりだが)外務省は企業派遣の日本人や現地居留民会に属さない日本人について関心をもったり保護しようとしなかった。1930年代でも日本人女性で中国人の妾となったケースは多数に昇る。また遊郭を営んだり、女衒を業とする人間またその使用人も多かった。これらの実情を外務省は把握せず被害が出てもなんら公式に記述することがない。南京事件の日本人死亡者は外務省認定では1名である。

外務省の記者発表

領事館襲撃

1927年3月27日付け朝日新聞夕刊に掲載された写真

1927年3月24日午前7時24分事件は起きた。その時、北伐軍の南京突入が不可避と判断されたため、居留民約百十名程度が前庭に集合していた。また揚子江を哨戒中(当時揚子江は国際水路)の駆逐艦から10名の水兵(荒木大尉指揮)が領事の要請により警備についていた。その頃、北伐軍は揚子江上の艦船を無差別に射撃、ハルクという日本の船会社(日清汽船)の傭船に乗り合わせた海軍の水兵(駆逐艦桃乗り組みの後藤1等機関兵)が殺された。

北伐軍の将校を含む40名が武器の隠匿を調査するとして領事館に乱入した。前日まで領事館の正門には水兵により機関銃座と土嚢が積まれていたが、森岡領事の判断で「北伐軍を刺激しないため」撤去されていた。同時に水兵の武装も解除した。これは本国の訓令によらないと後で外務省は説明している。この処置は極めておかしい。もし武装解除するのであれば海軍に警備を要請する必要がない。幣原は英米の共同介入要請を断っており、森岡は前日になって本国の訓令をあおいだのではないか?ただこういった事について外務省は省創設以来国民に事情を詳らかにすることがない。

森岡はこの時、居留民や館員のいる本館を避け、奥にあった官邸に病気と称して隠れていた。木村領事館警察署長は中庭に出たところを銃撃され左腕に貫通銃創を負った。更に駐在武官の根本博少佐(のち北支派遣軍司令官、戦後台湾にわたり国府軍顧問)は素手で北伐軍暴兵に立ち向かったが銃剣で刺され、逃げるところを二階から転落重傷を負った。

領事館の略奪

8時になると暴兵に加え南京の一般市民も加わり、領事館本館の物品は根こそぎ持ち去られる状態となった。更にそれら暴徒は領事官邸にも押し入り森岡と家族は暴行を受けた。

南京領事の外相への報告

10時、森岡は荒木に「水兵がいると知れると、更に暴行を受けるかもしれないので階級章などをはずすように」要請した。(あとで森岡は否定)

10時半、暴徒は金庫を破壊しようと争い始めたがそこに国民革命軍主任と名乗る男が現れ制止し始めた。この人間の氏名は特定されておらず、後日の紛糾のさいアリバイのため、略奪を許可した第6軍の打った芝居だとする説が強い。しかし領事館の火災は避けられまたそれまでに領事館の金品はほぼ失われていた。

午後4時。英米艦艇は市街に艦砲射撃を加えた。南京にあった日本人の居住する家屋も残らず略奪された。当時南京には500人を越す日本人がいたと推定される。そして森岡の妻など館員家族が強姦されたとの噂も根強く残った。

翌朝、砲艦艦長吉田中佐が決死隊を率いて来館、全員艦に避難した。艦は上海に向かったが、荒木は途中自殺を計った。

佐々木到一の回想(『ある軍人の自伝』普通社 1963)

逐日【ママ】耳に入るところの事件の真相は悲憤の種だった。英仏の軍艦はついに城内に向けて火蓋を切ったのに、わが駆逐艦はついに隠忍した。しかも革命軍は日清汽船の船に乱入してこれを破壌し一わが艦を目標として射撃し、げんに一名の戦死者を出しておる。

荒木大尉以下十二名の水兵が城門で武装を解除された。在留外人は全部掠奪され、某々国の何々が殺された。わが在留民全部は領事館に収容され、しかも三次にわたって暴兵の襲撃を受けた。領事(森岡正平)が神経痛のため、病臥中をかばう夫人を良人の前で裸体にし、薪炭庫に連行して二十七人が輪姦したとか。

三十数名の婦女は少女にいたるまで凌辱せられ、げんにわが駆逐艦に収容されて治療を受けた者が十数名もいる。根本少佐が臀部を銃剣で突かれ、官邸の二階から庭上に飛び降りた。

警察署長が射撃されて瀕死の重傷を負うた。抵抗を禁ぜられた水兵か切歯扼腕してこの惨状に目を被うていなければならなかった、等々。

しかるに、だ、外務省の公報には「わが在留婦女にして凌辱を受けたるもの一名も無し」ということであった。南京居留民の憤激は極点に達した。居留民大会を上海に開き、支那軍の暴状と外務官憲の無責任とを同胞に訴えんとしたが、それすら禁止された、等々。

実にこれがわが幣原外交の総決算だったのである。事件前、わが遣外艦隊は国策として事件を起こすことを極度に戒慎させられている。外出先から帰る水兵を乗せた舟山板の船頭が、賃金のことで舷側の低いわが砲艦の甲板にまで跳り上扉ってくる仕末である。

漢口においては、少年を先頭に立て、租界に迫って来る革命軍と暴民とに対して、ホースの水を向けて防いでいる。

上海の市場に買物する在留婦女が苦力から尻を捲くられている。小学校に通学する児童が石を投げられるのみか、支那の青年からナイフをもって斬られる。紳士外交の所産はただ軽侮、亡国外交の前にただ歯をくいしばって隠忍した帝国海軍の忍耐を見て、一掬同情の涙を惜しむ者はわが日東帝国【ママ】の臣民ではない。

ー中略ー

わが海軍の「一触一発主義」は、実にこの不祥極まる幣原外交の所産を清算した結果、皇軍の武威を恢復するために新たに命ぜられた断乎たる決意だったのである。

漢口海軍特務機関長岡野俊吉少佐がついに決意して、独断を以って暴民に機関銃の威嚇射撃を加え、かろうじて租界を守った功績は特筆に値するのである。鎮江、九江、淡口の英租界は、革命軍の暴力のもとに苦もなく奪取されている。

南京暴行の暴兵は、賀耀組の第五軍であるといい、程潜の第六軍だとも伝えられた。その何の誰の部下にせよ、蒋介石の率いる国民革命軍の一部であることは疑いはなかった。ボローヂンの指導する政治部が「外国人を襲え」という秘密指令を出していることも想像された。

鬼畜に等しいこの暴行に対しては、いつの日かに天槌【ママ】を下さねばならぬ。それにしても、事をここまで持ち来たした認識不足の幣原外交、関東州還付を公然と口にしたその一党に対する義憤は、十年後の今日においてさえ拭いされないものがある。

この革命以前には、一般外国兵の存在は暴民に等しい支那兵でさえ先方から避けていた。しかしボローヂン、ガリン【ママ】が指導する共産主義化した国民革命軍に、外国人嫌悪.いわゆる打倒帝国主義の強烈なる排外心がいかなる緒果をもたらすか。これに対する警戒の警告を無視した外務省の奴隷根性にも比すべき認識に対しては、断じて不問に付すべき性質のものではないのである。

居留民は国策の犠牲といってあきらめるほかはなかった。だが長江貿易と大阪商人、三菱と閨閥関係のある幣原外交が、果たして国策の全部であったか、後世史家の批判をまつまでもないであろう。

ー中略ー

居留民も昭和2年が明けてから下関【シャーガン、南京の地名】に戻ったものもあったようだが、家をもったのは宝来館だけで、城内には一人も入らなかった。まだまだ不安を感じたのと適当な家が見つからなかったからである。あの南京事件の大きなショックは、これが悲痛なる体験者にはただごとではない。

外務大臣は自分自身の部下の○○が○○されても義憤は起らないのかと憤慨したものが多かった。


佐々木到一は、4月30日に南京に入っている。約1ヵ月後であり、外務省と蒋介石の間の交信はよほど確実であった。蒋介石の副官が上海にきて特別列車で佐々木を南京に招じ入れた。

途中、揚子江沿いに孫伝芳軍の死屍が累々としていた(佐々木は死体はいずれも全裸で「土民」に着衣を奪われていたという。ただ、この時点では孫伝芳軍との決戦は起きていなかった。竜潭戦が発生したのは7月25日であった。おそらく孫軍の敗残兵が鎮江方面からの第1軍に掃討されたのではあるまいか)。

そして、蒋介石から「過日の暴行は共産党のやったことで、わが国民革命軍の軍紀は厳正である。しかし被害貴国人にはお気の毒である」と南京事件について説明されコロリと納得している。翌日、領事館に入った。


翌日は早速わが領事館に行って検分した。真に搶奪一空、惨憺たる情景だった。

落花狼籍の跡はことさらに取り片付けさせたと見えて、室内には何一つ残ってはいなかったが、金物という金物は、ドアのハンドルにいたるまで取り外し、窓枠の木材、ガラス、床板すべて持ち去られてがらん洞となっており、水溜めの地下タンクに小便さえもした形跡があり、警官の住宅は床をはがして便所に使用し累々たる黄金仏が鎮座ましましていた。

兵隊の掠奪についで暴民の掠奪を受けたものと想像せられる。宝来館また一切空、主人がかねて集めていた多数の骨董は皆取られたらしい。

篠崎医師方にははや支那人が入りこんでいた。西洋人の住宅も同様の情態【ママ】で、焼かれたのさえあった。

しかも付近支郡人の家は少しも手を触れていない。実に十分なる計画の下に外国人を襲ったことが明瞭するのである。

市面偸盗児市場には掠奪品の多数が陳列されていた。検微鏡が一元、蓄普機のレコード一枚が銅幣二三枚、藤椅子、鏡、置時計、ナイフ、フォーク等々、およそ異国人の使用したものと思われる器具が平然として、雑然並べられてあるのには、あきれてモノが言えない位だった。

支那兵の指に指輪が光り、金剛腕時計をはめている雑兵もいた。


佐々木は、蒋介石直卒の支那兵が略奪品をつけているのを現にみながら、また略奪が十分に計画的であるにもかかわらず、蒋介石の説明「共産党のやったこと」に納得している。

支那通は、自分の目でみた事実より、要人発言を信じるものなのである。

佐々木のこの軽率は済南事件で、かえって自分の嫌った幣原喜重郎の役割を果たすことになる。

済南事件の真実

エピローグ

この事件は政友会など野党により厳しく追及された。しかし追求の論点は領事館の警備が簡単に破られたことに対する外務省の方針とりわけ幣原の関与に絞られた。当時の日本人には英米と異なり中国人は日本人にそう無茶なことはしないだろうという安心感があったようだ。しかし事実は逆でプレゼンスの大きい日本人の被害が最も大きかった。幣原外交により日本は中国に山東利権返還(1923年)関税自主権還付(1924年より交渉開始)租界回収(意味不明)など外交的に譲歩を重ねた。そして中国人がそれに対して他の外国人より日本をよく扱ってくれることを期待した。

この期待は当然裏切られた。

この時、露独人を除く全ての外国人が被害を受けた。朝野にはそれを満足すべきことだとする奇妙な見解をもつ人々もいた。そしてその中心にいた左右両翼の大アジア主義者=支那通はそれ以降も考えを変えることがなかった。

現在外務省公文書として残っている第3次南京事件の報告は極めて少ない。その中で松平恒雄駐米大使の報告が目を引く。そして、第3次南京事件の領事館のとった方針は正しくアメリカは自国の被害に対して日本側のとった対処により居留民が無事離脱に成功したことを羨んでいると結語している。

アメリカがそのようなことで羨むとは思えないが、暴徒やテロリストとうまくやって危機を脱することを誇る気持ちが松平にあったことは否定できない。ただし幣原に追従したかったのかもしれない。

また外務省は外国通信社に居留民は無事と知らせていることがわかる。これは当日の惨状から事実ではない。また現在のマルクス史家がこういった点になると外務省と口裏を合わせたかのように、暴徒は存在しなかったと説くのは苦笑を誘う。実際に被害があったにもかかわらず、それを過少評価して自らの政策が正しかったと強弁することは外務省の常套手段だがこの事件はあまりに極端である。

この後居留民は上海に陸戦隊を置くことを海軍に嘆願し認められた。この処置は現在過激な軍事措置のように言われるがそのようなことはない。米英仏そしてイタリー・オーストリアのような国でも少数の緊急展開部隊を上海に置いていた。ただ海軍に矜持のようなものがあり、日本が兵を配置するのであれば治安に実効的でなければならないと考えた。これも地理的には仕方がないことかもしれない。

また国民も国外で暴徒に襲撃されたりテロをうけたりすれば、外交で片をつけることができない場面があることを知らねばならない。国家は暴徒やテロリストと交渉をもつことはできない。


幣原は、「無抵抗命令」を事前に出していたにもかかわらず、この事件との係わりを否定している(『外交五十年』中公文庫1987)。

あれは南京の居留民が、シベリア出兵のとき、二コラエフスクで日本居留
民の大虐殺が行われたのを伝え聞いて、もし日本の軍艦が発砲したら、ことはそれだけでは済まない。いまでは暴行略奪に止まっているが、今後は生命に危害を加えるかもしれない、と居留民が艦長に泣きっき、「どうか我慢して発砲しないで下さい」と嘆願した。「よしッ」といって、艦長は快く引受けた。そして艦長は自分だけのみ込んでいて、部下の誰にも知らせず、発砲を命令しなかったという。そんな事件があった。
それを部下の若い士官は、親の心子知らずで、ひたすら私が発砲を禁じたと思いこんで憤慨し、国内でも衆怨は私に集まった。

南京居留民はこのような甚大な被害をうけたが、外務省は上海経由で帰国させ国内でも長崎出身者が多かったため同地で軟禁状態においた。外務省は戦後にいたるまで、生活相談には応じた経緯がある。

幣原は口封じには成功したとみたのであろう。発砲禁止をいったのが居留民であるとウソをついた。どこの国の軍人が領事の意見を無視して、居留民の意見にとりあうだろうか?尼港事件についても、全滅した日本軍についてパルチザンに敗退したとは何事か、という非難はあった。

だが、日本軍が発砲したから被害が拡大したと主張されることはなかった。幣原は、「支那人の妾が助かった」という事実から、邪推したにすぎないのではないか?

責任を駆逐艦艦長と居留民に押し付けるこの人間の耳には、総領事の「私は命ぜられた通り、無抵抗を貫きました」という報告は入らなかったのであろう。


1927年3月15日、若槻内閣は台湾銀行救済問題で枢密院で激突し、総辞職した。4月17日、枢密顧問官伊東巳代治は南京事件に関連して、「かかる国辱をうけたのは外交の軟弱に起因する」と猛烈に幣原を論難した。さらに「外相は外交のなんたるかを知らず、他日ゆっくり御指導申し上ぐべければ、この席にては御控えあれ」と喝破した。

幣原も激しく反論し、会議後廊下で「くるならこい」といいざま幣原は「腕をまくった」という。

第1次大戦が終わると、パリ講和会議における日本外交の定見のなさから、外務官僚が逆上して、自らの無能を棚に上げ、霞ヶ関外交=「キャリア外務官僚だけによる外交」を主張するようになった。幣原喜重郎はその旗手であった。第3次南京事件は霞ヶ関外交なるものが「外交のなんたるかを知らない」ものであることを暴露したといえる。

軍事を背景にしなければ、大国外交は成立せず、国家は国民一人の人権を損なっても責任をとらねばならない。幣原は語学を知っても啓蒙主義を知らず、英米との関係を破壊し、中国に攻撃される隙をつくったのである。

武漢政府は4月27日、「江西、安徽における反動派事件続発により蒋氏の総司令その他を免職する」と発表した。この声明は上海共産党弾圧事件と結び付けられるが、江西、安徽という以上、第3次南京事件へ対処する声明ではなかった。

少なくとも自らが手を下したとは到底思えない。

南京政府伍朝枢は5月、次のような声明を出した。軟弱対応の日本と英米を分断しようとしたのである。

外交部長が定ったのだから早速支那唯一の新国民政府として列国との交渉を開始せねばならない、南京事件は先ず第一に解決してしまいたいと思っている、日本は英、米と違って南京城砲撃にも加わっていないのだから陳謝、賠償、今後の保障、暴行者の処罰などについても出来るだけ要求に応じて円満な解決を計りたいと思う、

漢口事件については漢口が御承知のような状態なので現在では何とも政府の方針を決定出来ない、しかし租界の回収その他不平等条約の撤廃は支那全国民の声だからむしろ各国ともこの際自発的に賢明なる態度に出られんことを切望する、本政府はすでに共産党を駆逐し、ロシアとの特殊関係に対する各国の疑惑も一掃されたわけだから今後は支那民衆の与論に立脚し真に公正なる外交を実行することが出来る

なお七日の亀山附近における国民軍と我第二十八駆逐隊との砲戦については非常に困惑した面持であったが支那側では我駆逐艦の探照燈のため対岸の北軍に軍事行動を発見されるおそれがあったため発砲したのだと称しており南京国民政府は取あえず日本側に対し抗議するはずであると



戸部良一 日本陸軍と中国 「支那通」にみる夢と蹉跌 講談社 1999

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