南京事件(第2次)は本来袁世凱軍と孫文軍の南京周辺での会戦と見られなくもない。一方、日本の右翼団体(当時の暴力団と密接な関係があった)は、中国統一と漢民族の満州族討伐を支持、孫文を支援する傾向にあった。当然孫文派を応援した。ただ注意すべきなのは、外務省の支那通と右翼はどこを支持するかで対立するが中国統一では対立はなくいずれも統一支持である。また両者とも中国問題は単純に国際法を適用すべきでないとして、当事者主義を主張した。
現在でもいわゆる中国ビジネス・プロモーターや自称中国ビジネスを成功させた人々は、必ず法治主義を排撃し、中国古来の法(内容は人によって異なる)や人脈の有効性を主張する。
南京事件の処理は、外相の牧野伸顕の主導で進められた。牧野の外交的信念は対英協調で必ずしも中国問題に強く関心をもったようにに思えない。つまり牧野は欧米派である。この日本外交における中国派と欧米派は現在にまで繋がり、宿命的な対立を続けることになる。ただ中国派は古い儒学者の系統と暴力革命の他国での実践という革命派に分かれ、実際のところ理想主義者とかあつかましい教育者になりがちで、終始国民の支持を得ることはない。また実践の方法としてテロリズムを容認しがちである。
ただ牧野は西園寺にみられる英仏リベラリズムへの共感がなく、むしろ国益を優先させた。ただこれは度合いの問題かもしれない。また牧野は外交官にとり必要とされる交渉上の見切りのようなものがなく、目途もなく二兎を追う所があった。
南京事件の直前、英米仏日露独は承認問題を抱えていた。つまり辛亥革命の結果の清国の継承問題である。承認に当っての問題は孫文政府との関係及び旧債に関してだった。その時孫文を無視してアメリカだけが袁世凱政権を承認していた。これはアメリカが門戸開放・機会均等の主張から抜け駆けをしたとされるが、実際にはその根強い反英感情からだろう。
そして、袁世凱の重大問題は資金不足だった。ところが日本が音頭をとって1912年4月、2500万ポンドに昇る借款(善後借款)を成立させた。この貸し出しは日独英仏露5カ国による同床異夢のもので、当時の欧州の同盟政策がいかなるものかよくわかる。そして今日に至るまでの日本の外交政策の特徴が現れている。すなわち借款においてイニシアチブをとりたがり軍事措置において、イニシアチブをとる事を避けたがることである。
この原因はおそらく外交官の金銭感覚のマヒと借款を自己の利権と錯覚することだろう。そして気持ちのうえで貸し出しにより何か優越感を期待するのだろう。これは決定的に誤りである。少なくとも袁世凱はなんらこれにより義務を感じることもなく、また行政費として支出可能なものの大半を孫文派系統の将軍の買収費にあてた。
そして買収された江蘇都督程徳全の寝返りが決定的となり、孫文派は総崩れとなった。この時の費用はわずか60万元すなわち30万ドル程度であったと言う。そして孫文派の劣勢を見た他の中立または孫文派の将軍は一斉に袁世凱に鞍替えを始めた。中国の内戦はその後もこういったパターンが繰り返される。おそらく将来も変わることはあるまい。
つまり本人の意思にかかわらず、牧野伸顕の金が第二革命の帰趨を決定した。ところが日本の朝野は、孫文側を応援する人間が多く、これが外務省にたいする批判となって現れた。牧野は個人的には清貧な人間である。当時でも日本の金銭感覚と中国のものでは異なっていた。すなわち日本では小額の金が中国では多額となる。この違いが大陸浪人を発生させた面があるが、清貧な役人はなかなか気づかない。
現在でも、内乱やテロの原因は貧困だとか富の不平等にあるとして、対象国に借款を与えたり、また金銭援助を与えるべきだという主張が表れる。これは歴史からみればナンセンスである。多額の金銭を得た政権側は、必ず反対派を殲滅にかかり、また反対派は金銭を自由にできる政権にあこがれる。援助は食料などの人道・実物援助に止めるべきで、その時むしろ第3国への売却を監視する措置が必要である。税金で借款を与え、時の政権に貸しをつくるなどと言うのは根本的な誤りである。
また皮肉に聞こえるかもしれないが、内乱やテロを禁圧することはいわば統一を阻止することである。そして統一や独立・民族解放が全て善であるとは限らない。太平洋戦争中、大日本帝国の服属国として、旧来の植民地から独立することは善だったのだろうか。アラブの統一は善だろうか。中国(共産)は民族解放と宣言してチベットに侵攻した。日本のこの時の外交で欠落していたのは、中国の領土としての一貫性をどのように考えるかという点である。どの民族・国家も領土について過去最大版図を望み、過去朝貢国を引き続き服属国として考える。つまり歴史上の帝国の再来を夢みる。外交官はこれら歴史を知識として取り入れ現実的な判断を下さねばならない。野武士の使う鈍刀が牧野には欠落していた。
第1次大戦の前、英仏は協商にもかかわらず、ロシアに海峡出口を与えないことを方針とし、オーストリアはセルビアに海への出口を与えないことを基本的外交政策とした。第2次大戦後、ヨーロッパ諸国はドイツを統一させないことを方針とし、中国(共産)は朝鮮半島を分断することを基本方針としている。この時中国統一についてどう考えるか指針がないことが戦間期の日本外交の悲劇につながった。
具体的には袁世凱ではなく孫文を応援し、同時に孫文派の揚子江以北への進軍を阻止し南北分断を固定化する案を検討すべきだった。民族の異なる広大な地域ではバランスオブパワーの発想を持つことが必要である。つまり、つらいが弱い方を応援するのだ。
では1913年8月30日、南京事件が発生した以降の外交はどうだっただろうか?
事件の一報が入ったのは、9月4日である。そして外務省は牧野の一存で対支3事件13要求を袁世凱政府に通知した。当時は現在と異なり、外相の権限ははるかに大きく、閣議及び首相の判断を仰がず、こういった手続きが可能だった。ただ山本権兵衛首相や閣内で最大の力をもつ原敬内相はこの件に関心がなかった。つまり中国第二革命そのもの、また居留民11名前後の死(この数字も多種に分かれる。確認されているのは3名にすぎない。残り大半は当時の言葉を使えば醜業婦と関連業者で、二等市民とみなされていた。このため領事館は把握できなかった。また殺害された外国人は日本人に限らない)に外務省以外の要人は興味をもたなかったのだ。
またその時、要求の内容・期限については一切公表されず秘密外交だった。
そして、3事件とは南京事件の他は川崎亭一大尉事件と西村彦馬少尉事件で、陸軍の観戦武官などが、袁世凱の軍人(将校であるかもはっきりしない)と喧嘩をしその始末を求めたものである。当然個人の喧嘩であるから詳細ははっきりしない。ただ現在でもよく発生するが、とくに空港・駅などで中国人は外国人を理由なく殴打することがあり、おそらくそれに類した事件だろう。中国では外国人に内国民待遇を与えることがない。このため運賃を外国人に高めに設定し、その分切符を購入しやすくするなどの便宜を計るため、外国人を特権階級と錯覚するところから起きたのではないか。ただの喧嘩にすぎず、外交問題にしてはならない。
牧野の性格のせいか、この要求にはことの軽重がつけられていない。
南京事件関係の要求は、張勲の罷免・関係者の処罰、賠償金の支払い(65万ドル)、張勲自身の訪問を含む謝罪だった。内容としては無理のないものだ。そして袁世凱は9月14日全項目の受諾を表明した。
張勲 Zhang Xun (1854-1923)
字は少軒。江蘇省奉新県生まれ。一兵卒から身をたてて、清末には江南提督になっていた。袁世凱によって定武将軍に任命され、江北鎮撫使・長江巡閲使・江蘇都督・安徽督軍を歴任した。張勲は漢人であったが、清廷の復辟を夢見、その率いる定武軍の将兵は弁髪を維持した。そのため弁帥、弁子軍と呼ばれた。普通だと、殺害犯の引渡しを要求することもあるが、混乱の最中であるし、特定が難しい。また多くの場合、捕虜などを引き渡して済ませることも多くまた不必要な屈辱感を与えることにもなりかねず好ましい解決法ではない。ただ張勲は殺害犯人だとして不詳人の死体百体を目抜き通りの電信柱に吊るした。
ところが中国側は、受諾のあと実行の方法で難癖をつけ始めた。これも以降の日中外交関係(中国と他のすべての国の外交関係も同じ)にしばしば現れる現象である。中国は法令の文章より解釈が重要だという国柄である。
日本は当時の国際慣例に従い、謝罪として張勲の領事館への来訪、フルドレスの軍服の着用、1個大隊(750人基準;当時中佐が指揮する単位、張勲は少将を自称していた。)の随伴を要求した。外国の代表に大隊規模の兵士が「捧げ銃」を行い閲兵に応じるのは当時軍人の行う儀式として当然とされていた。
中国人は衣装を外国人に指定されることを嫌う。張勲はなんと洋服を持っていないと主張した。これに対し、日本側は近所の洋装屋で誂えたらと提案したらしい。結局、中国の清時代の官人の服装である、馬掛服を着用した。1個大隊については、そんなに兵士がいないと言ったとあるが、日本側がそれでは形がつかないので近所の浮浪者を集めろと反論したと言う。実際に、張勲が日本の南京領事館を訪問したときは、軍楽隊を伴った堂々としたものだった。
そして袁世凱は張勲を江蘇都督から罷免、長江巡撫に任命した。これではどちらの役職が上かわからない。罷免要求などしても意味のないことがわかる。
このやりとりで日本側が国際法を教えてやると言う態度で接したことがわかる。これは誤りである。中国側は国際法を熟知していて、そのうえで従いたくないと言っているのだ。交渉は全て秘密裡に行われた。これは双方が望んだためだが、果たして日本にとり良かったことだろうか。外交官の不必要な秘密主義とも思える。9月14日まで、大アジア主義者・右翼・暴力団によるデモが外務省・大臣公邸を埋めた。
ところがこの事件は別の外交問題、日本の中国承認問題が関係している。大アジア主義者は孫文派を応援している。牧野ら外務省は、3事件の収拾に追われ、事態の早期解決のみをあせった。政治家、とくに山本、原は外交に興味がないなか、最も適切な判断をしたのは犬養毅国民党総裁だった。犬養は先の見える、日本人には珍しいタイプの政治家だった。おそらく国民党と言う国家主義的な名前も、保守(官僚・藩閥)対自由(政友会)というのが時代遅れと悟りいち早く名乗ったのだろう。犬養は、南京事件で外務省を批判し派兵の問題ではなく国際法に沿った外交要求を行うべきで、根本には対中国政策が欠落しているためだとした。
犬養は孫文を支援していたが、原則をはずさず中国について冷徹な観察を行っていた。すなわち統一ではなく、まず民生の向上を図るべきだと…。そして中国問題について諸外国と共同歩調をとるのか、単独行動で解決するのかと言う岐路にこの時立っていた。しかしこれに気づいた要路の人間は西園寺ら少数の人々を除けば少なく、またそれら欧米派の人々は解決を自ら図るという積極性に欠けていた。「日本には日本の道があるではないか!」と言うロマンに溢れたしかし危険な道に入っていった。外交では独自の道などまず存在しない。他国をどのように自国の方針に従ってもらうか、もしくはどこの他国の方針に従うかの選択があるに過ぎない場合が多い。そうでない時は単独での戦争行為となる。
そして最悪のケースは他国に一方的に攻め込まれ、戦うしかない場合である。第1次大戦のフランスと第2次大戦のアメリカである。こう言ったケースでは交渉=外交は成立しない。
9月12日、イギリス外相グレイは3事件に関連して武力行使を行うか、または承認が遅れるかを日本政府に質問した。牧野は派兵する考えはなく、ただ承認時期を交渉に使いたいと回答した。
日本の対中国外交の混乱はこの回答から始まった。
グレイの趣旨は武力行使を期待することにあった。イギリスの日本と共同しての中国武力行使要請は1927年まで続く。この時、日英同盟の目的が反ロ行動からアジア内警察行動へと変化していった時であり、日本はいわば同盟の実をあげることに失敗した。
牧野の逡巡
牧野はハムレットのように大アジア主義者の要求と、国際社会(英仏独露)の要請との間に悩んだ。実際の所、孫文の主張の三民主義は啓蒙主義からはほど遠く、イデオロギーから支持することは難しい。牧野もその面で悩んだのではなく、孫文の主張にある日本はアジアを見捨てるのか、に悩まされた。牧野は風貌と異なり冷徹になれない人間だった。
だが、この主張から外交方針を導くことはできない。多くの巷間の大アジア主義者も事件に関し袁世凱派の処罰を主張した。
しかしより難しい問題は外務省が派兵を提案できるかにあった。同じく議員内閣制のイギリス議会では和戦の決定は議会にある。従って議会に責任をもつ外相が開戦・講和について説明せねばならない。ところが、この手続きが明治憲法でははっきりせず、誰が補佐するのか明確でないまま天皇の権限にあるとされた。もちろん明治憲法施行の初期には首相・外相が軍部に影響力をもつ藩閥の一員でもあったから、問題は生じなかった。
ところが大久保利通の息子の牧野は軍部に対する力はゼロだった。大久保利通の薩摩出身者を特別扱いすることを嫌った面が影響したのかもしれない。牧野が私利に動かされない立派な人物であったことは間違いない。そして女婿の吉田茂も選挙区の高知県の陳情にはむしろ厳しくあたったと言われる。
そして最大の問題は外交が専門外交官の手に任されるべきで軍部が干渉してはならないと言う考えが出てきたことである。これは当然のようで当然ではない。外交官が軍事知識・軍事発動の提案権を持たないと必ず外交は失敗する。もちろん首相が統合機能を果たすべきだが、近代の官僚制のもとではそれは簡単ではない。すなわち日本の問題は軍事・外交を一体として戦略を考えることができなかったことである。
この時点のイギリスはグレイの自由主義(リベラル)外交の時代だった。その特徴は世界平和の維持と国際法による紛争解決にあった。そして、原則として交渉上、国家間の平等を容認していた。それでは国際法が遵守できない国家はどうするか?それは短期間・局地の武力討伐によるしかないと考えていた。そして極論すれば、そのような国家は、通商上はともかく、国際紛争へのパートナーとしては認められない。グレイにとり中国はそのような国だった。
このリベラル外交の結果としてイギリスは同盟国トルコを失った。外交に文明尺度を入れるのはユニークだがビスマルクあるいはキッシンジャー流の利害得失誘導脅迫外交より進歩しているのではないか。そして第1次大戦の7月危機でグレイが世界平和維持のため最後まで粘ったことも忘れてはならない。つまり、大きな戦争を否定する代わりに小さなものは容認した。
この時日本が保有していたオプションは@袁世凱統一を認めるA孫文派統一を認めるB南北分断を計る、と3通りあった。そして@以外は派兵が必要となる。グレイはイギリスは日本の武力行使に賛成し日本のオプションに従う前提で、共同軍事行動を考えたのだ。期待するのはおそらくBであったろう。日本が武力行使しなければ@しかなくなり、承認は日英の経済利害を袁世凱に認めさせれば、時期だけの問題となる。
ところが支那通がリードする外務省は全く問題点の所在がわからない。支那通の問題は支那を知らないことではなく、世界を知らないことだ。
グレイは追い討ちをかけるように、日本が先頭になり清国債務継承を袁世凱に認めさせるべく交渉するよう圧力をかけた。牧野は同盟の実があがると熱心に取り組んだ。袁世凱は日本の要求を全て応諾した。各国代表は日本の努力に感謝した。
1913年10月6日、日英仏独を含む13ヶ国は袁世凱政府を共同で承認した。
しかし袁世凱政府の承認旧債および借款は、3年を経たずして全て不履行となった。日本は殆ど全ての借款をアレンジし最大の被害を蒙った。当時の国家予算の10分の1の額に及んだ。国家主義(ナショナリズム)は現実でなくロマンであり金銭欲や物資欲の対極にあるもので、借款や援助などでは決して解決されない。